英国によるオーストラリア大陸侵略
前回記事で小牧の地政学について一部紹介させていただいたが、今回はこの日本地勢学の考え方から「大東亜」の各地について解説している部分を紹介させていただく。最初は小牧が「南アジア大陸」と呼んでいいとしたオーストラリア(濠洲)大陸についてである。この地域の原住民の大半が虐殺された悲しい歴史については、戦後のわが国ではほとんど報じられることがないと言って良い。
濠洲の屈辱史は十八世紀末キャプテン・クックの太平洋探検に始まる。彼は一七七〇年濠洲の東海岸ボタニー湾に到達し、次いで現在のシドニーの地に上陸し、濠洲東岸全部をニュー・サウス・ウェールズと命名し、ここに英人による濠洲侵略史の第一頁が始められたのである。
一七八三年アメリカの独立により囚人の流刑地をも失った英国は、穢らわしくもこのアジアの処女地をその代替地と定め、一七八八年罪人並びにこれが秩序維持の任に当たるべき若干の軍人をまずボタニー湾に上陸せしめ、次いでシドニーの地を卜(ぼく:占い)してこれを彼らの農業植民地たらしめたのである。
英国が濠洲に植民地を形成するにあたり、その原住民に対してとった政策はここに特筆さるべきものである。英国の植民は原住民を使嗾することによって部族間相互の闘争を惹起せしめ、加えるに彼等自身の手による戦慄すべき虐殺を敢えてして、以てその絶滅をはかったのである。原住民は英人渡来当時、宣教師グリブルの評価によれば約百万を算したのであったが、現在残存するもの僅かに五万二千余人に過ぎず、しかもその大部分は熱帯に追いやられているのである。
濠洲の南、タスマニア――それもオランダ人探検家タスマンの名を以てかく呼ばれているのである――には同じくタスマニアの原住民がいたのであるが、これまたほとんど全部英国人によって虐殺せられ、一八七六年最後の一人が死んだ時、この民族は永劫にこの地球上よりその影を没したのである。かかる英人の戦慄すべき原住民虐殺行為は、英米人の世界侵略史上特筆さるべき非道の一で、これを日本の台湾領有後本島人が著しく増加しつつある事実と対照する時、われわれは日英両国の政治に天地霄壌(てんちそうじょう:甚だしい相違)もただならざる差異の存することを悟るのである。
英国は濠洲の原住民に対してその絶滅政策なる非道の政策をとるとともに、外部に対しては濠洲をしてかの白濠主義を唱えしめることによって全有色人種の進出を防止したのである。これが老獪にして利己的なる英国によってとられた天人ともに許さざる対濠洲政策だったのである。
小牧実繁 著『地政学上より見たる大東亜』日本放送出版協会 昭和17年刊 p.59~61
かつてアメリカ大陸はイギリス囚人の流刑地であったのだが、アメリカが独立したためにイギリスは新しい流刑地が必要となり、オーストラリアに目をつけた。当時オーストラリアには「アボリジニ」という原住民が住んでいたのだが、イギリスは彼らを大量に虐殺していったのである。
イギリスはこの広い大陸を開発するために道路工事、鉱山開発には支那人労働者を用い、甘藷栽培は日本人を用いたという。しかしながらイギリスは、濠洲開発に貢献した東洋人を追い出してしまったのだ。どうやって追い出したのであろうか。
しかるに濠洲人労働者を煽動して東洋人の排斥を行わしめた挙句、ついに白濠主義を標榜せしめて全有色人の入国を禁止せしめたものが、卑屈にして利己的なる英国であったのである。白濠主義、それは濠洲をめぐる英国的利己主義の別名である。利己主義の鉄面皮、それを美粧する白粉料、それが、かの白濠主義だったのである。…中略…白濠主義は全有色人の入国を禁じ、更に英系ならざるヨーロッパ人の入国をも制限しているのである。加えるに濠洲の人口増加率は、一九二一年一.五一%より一九三八年〇.六%に減少している状態である。白人濠洲の完全なる国防国家への発展は、白濠主義の標榜せられる限り永久に不可能なのである。しかして、それこそまた国防上よりも濠洲を英本国に緊縛するゆえんとなっていたのである。
老獪英国の手は極めて周到なるものであった。濠洲を、一朝有事の際英国艦隊によって防御せざるを得ない如き状態に緊縛しておいたのが英国であったが、英本国有事の際、濠洲が命の綱とたのむ英本国を援助のため忠誠を尽くす如く仕向けたのも英国であったのである。
同上書 p.61~62
濠洲には豊富な天然資源があり、農産物生産に適した土地もあったのだが、イギリスはこれらを開発しないまま放置した。現地人が進んで開発行為を行うことも拒んだという。イギリスは現地人が豊かになることを許さなかったのである。
英国によるニュージーランド侵略
オーストラリアの東のニュージーランドの原住民は、ポリネシア族の一派であるマオリ族で、白人に対しては抵抗してきた歴史がある。一六四二年にオランダ人タスマンが、白人として最初にニュージーランドに到達したのだが、オランダ人は貿易を主とする本国の都合から、このマオリ族の住む国を占領しなかった。しかし、それから百年余が経過して、イギリスがこの島を発見してマオリ族の生活が一変した。
一七六八年「未だヨーロッパ人によって占領せられざる国土を発見し、英国皇帝の名のもとにこれが領有を宣言すべし」との密命をおびたキャプテン・ゼームス・クックが、当時海軍中尉の身を以て軍艦エンデヴァー号を指揮し、タヒチ島における金星軌道の観測に名を借り、太平洋の探索に乗り出し、翌一七六九年十月七日にここニュージーランドをいわゆる「発見」するのである。彼は同月九日その北島の一湾に上陸し、これをボヴァティ湾と命名し、ついにこの島をキング・ジョージ三世の名のもとに英国領と宣言したのである。
原住民マオリに対する暴虐、民族離間の奸策による部族相互の殺戮、また自らの手による虐殺、それがここニュージーランドにおいてもとられた英国の常套手段であったのである。そして一八四〇年二月六日、それは、これより二十一年前英国がシンガポールを領有した記念日にあたるのであるが、この日、甘言を以てマオリの酋長達と結んだワイタンギ条約の結果、ニュージーランドを完全なる英領となすことを改めて中外に宣言したのである。
同上書 p.69~70
海上貿易の要衝地としての「大東亜海」
結局オーストラリアやニュージーランドは日本が統治することはなかったのだが、南アジア大陸からオーストラリアにかけてはフィリピン島、ボルネオ島、スマトラ島など多くの島が浮かんでおり古くから海上交通の要衝で、わが国が鎖国するまでは盛んに交易をし、日本人町も栄えていた。
戦前期にはこの海域を「濠亜地中海」と呼ばれていたが、「大東亜戦争」中に「大東亜海」と名付けられたようだ。
アジアの海太平洋、アジアの海インド洋なる二つの大洋の間、アジアの本家と南アジア大陸との間に介在するのが大東亜海である。しからば則ちその世界交通上に占める地位の重要性については最早ここに喋々を要しないはずである。世界交通上のこの要地を求めて、古来幾多の勢力が角逐闘争した事実は歴史の証明するところである。既に漢代支那の勢力は安南に及び、しかして古代ローマの使節もまたここに来航した。ここを経由するアジアとヨーロッパの交通はかくも古いのである。殊に古代インド文明のこの地域への浸透は一層広汎であった。それはほとんどこの地域の全面を覆うたのである。かくして東亜とインドとの交通が、この地域を通じて開かれたのである。
このいわゆる濠亜地中海の地形をさらに眼近く凝視するとき、それは東側においては比較的漠然と太平洋に連なるのに反して、西側においてはマレー半島およびスンダ列島によって比較的明瞭にインド洋と境し、マラッカ海峡をその西の門戸としているのを見る。古来この地方が交通上の要地として著され、中世以降アラビア回教徒の活躍、支那人商舶の遠征等がいずれも基地をここに求めたのは当然である。また近世初頭ヨーロッパ人の東洋侵略にあたり、ポルトガルのアルブケルケも喜望峰を廻ってインドに出るや、直ちにマラッカを拠点としてさらに香料の島モルッカ諸島に進出したのであった。しかしてやがてオランダ、イギリス、フランス等諸国がここに覇を争ったのであるが、結局その支配権を掌握したのが英国であったのである。しかして英国により、事実上この南洋の中心たらしめられたのがマレー半島のシンガポールであったのである。
かくの如く古来幾多の勢力が、競ってこの地域に進出し、死力を尽くしてその支配を争ったのは、結局この地域が東西交通、否、世界交通の要衝たる性格を有するからにほかならない。しかしてまたそれが無限の宝庫たる大東亜への関門に当たったが故にほかならない。
この意味において、この南の海路はまさにアジア大陸の中央部を経由する絹の道(シルクロード)と全くその意義を同じくするのである。しかも中央アジアのこの通路が、嶮山と砂漠の荒涼たる南路であったのに対して、この南の海路は行く手を遮るものなき容易な道であった上に、それ自体が熱帯の富饒なる大生産地帯をなし、かくしてここが今日に至るまで東西交通の大動脈をなしてきたのである。殊に近代世界交通の発展に伴い、スエズとパナマの両運河が開鑿せられると、この地域の重要性は一層その大を加え、さらに航空運送においても、亜欧連絡の空路はこの地を以て支那、濠洲、ならびに比島(フィリピン)経由北米への分岐点をなしていたのである。この地域が如何に大なる交通的価値を有するかについては、もはや多言を要しないであろう。
同上書 p.73~75
わが国が北進論でなく南進論を選択した背景には、ソ連を守ろうとした尾崎秀実らの工作もあったのだが、この広大な地域を守ることができなければ、わが国は連合国からもっと厳しい経済封鎖を受けていたことが確実であったとの視点も必要である。
GHQに焚書処分された地政学の本
GHQ焚書リストの中から地政学に関する本を集めてみました。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
アウタルキーと地政治学 | ヨハンネス・シュトイエ | 科学主義工業社 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和16 |
欧州の現勢 戦局の展望と地政学 上 | 金生喜造 | 古今書院 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和15 |
国民地政学 | 岩田孝三 | 帝国書院 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和18 |
世界新秩序建設と地政学 | 小牧実繁 | 旺文社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275970 | 昭和19 |
大東亜地政治学 | カール・ハウス・ホーファー | 投資経済社 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和16 |
大東亜地政学と青年 | 金生喜造 | 潮文閣 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和18 |
大東亜地政学新論 | 小牧実繁 | 星野書店 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和18 |
大南方地政論 | 小牧実繁 室賀信夫 | 太平洋書館 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和20 |
地政学概説 | 吉村 正 | 広文堂書店 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和17 |
地政学上より見たる大東亜 | 小牧実繁 | 日本放送出版協会 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272668 | 昭和17 |
地政学と東亜共栄圏の諸問題 | 国松久弥 | 開成館 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459144 | 昭和19 |
地政学論集 | 日本地政学協会 編 | 帝国書院 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和18 |
地政論的新考日本史 | 前田虎一郎 | 二松堂 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和19 |
東亜地政学序説 | 米倉二郎 | 生活社 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和16 |
東南アジア地政治学 | クルト・ヴィールスビツキイ | 科学主義工業社 | 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 | 昭和16 |
日本地政学覚書 | 小牧実繁 | 秋田屋 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272716 | 昭和19 |
ハウスホーファーの太平洋地政学解説 | 佐藤荘一郎 | 六興出版部 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438943 | 昭和19 |
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