木戸孝允

明治初期の暗殺事件

明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか

明治十七年(1884年)に山崎之人が著した『維新元勲十傑論』という本がある。この本において著者は明治維新に尽力した志士の十人として、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、江藤新平、横井平四郎(小楠)、大村益次郎、小松帯刀、前原一誠、廣澤兵助(眞臣...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

旧長州の奇兵隊が明治新政府に反旗を翻した事情

骨抜きされた木戸孝允の「版籍奉還論」  教科書などでは明治維新がスムーズに行われたかのように描かれているのだが、幕府が倒れて政権が朝廷に戻ったといっても当初において朝廷は軍隊を持っておらず、戊辰戦争の征東軍は勤王諸藩から兵を借りて、藩の軍費...
征韓論から士族の反乱

西南戦争がはじまると高知県でも政府転覆に動く計画が動き出した

西南戦争が始まると高知県でも政府転覆に起ち上ろうとする動きがあった。元高知県令の林有造は、多くの兵士が西南戦争に集められてわずかの留守番兵が残っている大阪鎮台を乗っ取ろうと考え、帰郷して多くの兵士を集め、大江卓らは木戸孝允の暗殺を計画した。
征韓論から士族の反乱

大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

明治4年に宮古島の船が台湾に漂着して、船員の衣類が略奪され54名が虐殺される事件があった。その後も同様の事件が続き、台湾を膺懲せよとの世論が高まって行った。大久保利通は明治六年に征韓論に反対し、西郷隆盛らが下野する原因を作った人物だが、その4か月後に、木戸孝允の反対を押し切って征台論を主張し、台湾出兵を実行した。
征韓論から士族の反乱

前原一誠と萩の乱

福岡の秋月の乱の翌日に山口で前原一誠らが起ちあがった。前原は維新後参議を務めた人物だが、「国民皆兵」の徴兵制路線や奇兵隊の処分を主張した木戸孝允と意見が対立し、明治三年九月に官を辞して萩に帰郷していた。前原は明治九年十月に、熊本で神風連、福岡で秋月の乱が起きた情報が入ると、二十七日に萩の不平士族たちを明倫館の講堂に招集し決起することを決定した。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

版籍奉還で封建制度を廃滅させようと考えた伊藤博文と大隈重信

木戸孝允は藩主・毛利敬親に面謁して版籍奉還を急ぐべきことを説き、さらに大久保利通等を説得して、薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還を上奏することで話がまとまった。四藩のあと各藩から奉還上表が提出されたのち版籍奉還が勅許され、旧藩主をそのまま藩知事としたが、政府によって任命される地方長官と位置付け、旧藩主と旧藩士との主従関係が建ち切られたことに意義があった。
キリスト教問題

明治六年に政府がキリスト教禁教の高札を撤去した経緯

明治政府は浦上の隠れキリシタン百余名を津和野藩などに移送させたのち、さらに明治二年十月に約三千人を捕えて、金沢以下十余藩に移している。各国公使は流罪の中止を強く主張し、政府内部の考え方も変化していった。明治四年に岩倉使節団が欧米視察に出たが行く先々でキリシタン流罪を非難され、今の考えでは、諸外国との条約交渉などができるはずがない事を認識した。
明治初年の外国人殺傷事件

相次いだ外国人殺傷事件と五箇条の御誓文

五箇条の御誓文は大政奉還から五か月近くも経過してから発布されている。当時は新政府周辺に外国との交際を拒絶する者が少なくなく、「開国和親」という方針が決定してもそれに抵抗する動きが強かった。しかし、その後も外国人襲撃事件が相次ぎ新政府の危機を経験したタイミングで木戸孝允が動き、由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されている。