ジョン・ニール

攘夷の実行と諸外国の動き

英国艦隊に多大の損傷を与え上陸を許さなかった薩摩が、英国との和解交渉を進めた理由~~薩英戦争3

薩英戦争で英艦隊は薩摩軍の砲撃をまともに受け多くの犠牲者が出たために、上陸することもなく錦江湾を去った。薩摩藩はたまたま戦果をあげることができたが、藩の中からこの戦いを冷静に振り返り、兵器の格差は歴然としており、次回では勝てる見込みがなく英国と和解しようとする動きが出て来た。和解は成立し、薩摩は幕府から借りた金で賠償金を支払った。
攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩軍の砲撃で多くの戦艦に損傷を受け、上陸せずに退却した英艦隊~~薩英戦争2

文久三年七月一日、国書に対する薩摩藩の回答に納得できないニール代理公使は、軍事力行使を決意し、湾内の藩船三艘を拿捕し掠奪を開始した。すると薩摩藩の大砲が火を噴き、対戦準備が整っていない英艦船の大半が大砲の直撃を食らっている。英艦は大砲から距離をとり、薩摩の砲台を破壊していったが、人的被害は英国軍の方が大きく、翌日英艦隊は上陸せずに横浜に向かった。
攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩藩は七隻のイギリス艦船を奪い取り、代理公使を捕虜にしようとした~~薩英戦争1

幕府との交渉を成功させたのち、ニールは7隻の軍艦とともに鹿児島に向かい、薩摩藩に生麦事件の実行犯の処刑と賠償金獲得を要求したが、薩摩藩はいずれも応じず、わが国で合法な行為が認められない条約を締結した幕府に責任があると回答した。武力行使を決意したニールは報復措置として湾内の汽船を拿捕を開始したが、薩摩藩の設置した全砲台が英艦に向かって火ぶたを切った。
攘夷の実行と諸外国の動き

生麦事件の償金を得るための英国の砲艦外交と、攘夷実行を迫られていた幕府の対応

生麦事件のあと英代理公使のニールは、本国からの指令に基づき賠償金10万£の支払いを薩摩藩ではなく幕府に求め、横浜港に12隻の大艦隊を集結させ、拒絶する場合は武力行使を明言し圧力をかけた。その時将軍家茂は攘夷実行の期限を約束することを迫られており、老中小笠原長行は英国が武力行使する寸前に賠償金を支払った。
攘夷の実行と諸外国の動き

外国人襲撃事件が頻発する中で起きた生麦事件と英国人らの反応

坂下門外の変後幕府は閣老らを大幅に入れ替え、従来の格式を打ち破って参勤交代の頻度を減らすなど大名の負担を軽減し、朝廷の機嫌をとったりしたのだが、その結果幕府の力はさらに弱まり、過激分子が外国人を襲撃する事件が多発するようになった。生麦事件の後、幕府に対する外国人の不満が爆発し、薩摩藩に復讐する意見が盛り上がったのだが、ニール英国代理公使の発言で武力衝突が避けられた。