明治時代

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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

石川県が明治九年に日本最大の県となった事情~~北陸2

明治九年に全国規模で大規模な府県統合が二度にわたり行われ、石川県は四月に新川県(現在の富山県)を併合し、八月には敦賀県(現在の福井県)の一部を合併して、旧石高二百二十万石の日本最大の県となっている。旧石川県のみならず、新川県(富山県)も敦賀県もいろいろ問題の多い県であり、それまでに大きな文化破壊が行われ、後には暴動が起きて多くの者が処刑された歴史がある。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

金沢県を石川県に改称し県庁を金沢から美川町に移した事情~~北陸1

明治四年七月の廃藩置県では金沢藩は金沢県、大聖寺藩は大聖寺県となり、十一月二十日に両県は廃止され金沢県が置かれ、能登半島のある北部を分離して七尾県が新たに設置されたのだか、翌年二月二日には金沢県は石川県と県名を変え、五月五日に県庁を石川郡美川町に移している。なぜ金沢から海辺の小さな町に移されたのかを調べると不平士族の問題に突き当たる。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鳥取県の再設置の経緯と北海道開拓に送り込まれた鳥取士族たち~~鳥取県再設置2

明治九年の九月に鳥取県は島根県に併合されたのだが、藩政時代に於いて山陰で最大の藩は鳥取藩であり、格下の松江藩に吸収されたことは鳥取県人にとって屈辱的であった。併合後は鳥取の経済は衰退し、商家・士族の倒産が続出し、足立長郷が共斃社を設立し、鳥取県復県を内務省に建議したが、過激な活動をしていた彼らの案は受け入れられず、岡崎平内が愛護会を結成し、鳥取県再置を山縣有朋に嘆願した。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鳥取県が消滅し、鳥取城が破壊され、鳥取最大の祭も失われた~~鳥取県再設置1

旧藩時代において鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治九年九月六日に、格下であったはずの島根県の県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのだが、主に鳥取の士族はこの命令に憤った。それから五年間にわたり「鳥取県」が地図から消え、その間に鳥取城が破壊された。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

奈良県が消滅し再設置されるまでの経緯

古い貴重な文化財が数多く残されている奈良県は、明治9年に堺県に編入されて消滅し、さらに14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。その後旧奈良県住民にとって重要な予算が削られることが相次いで、奈良県再設置運動が動き出す。しかし内務省で却下され、その後太政官、元老院に提出した請願書も認められず、明治20年の4度目の請願書でようやく再設置が決定した。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

廃藩置県で政府は県名や県庁所在地をどういう基準で決めたのか

明治四年七月に廃藩置県が行われた時は、藩名をそのまま府県名に読み替えて、府県の数が全部で三府三百二県であったのだが、その後わずか一年で八割近い県が消滅した。政府はどういう基準で新しい県名を決めたのかについて、宮武外骨が『府藩県制史』で朝敵藩・曖昧藩は従来の藩名をそのまま県名としなかったことを指摘している。宮武は賞罰的な意味合いがあったと書いているが、そうではない可能性もある。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか

政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには薩長の力に頼るしかなかった。薩摩藩の島津久光は廃藩置県に反対であったが、上京した西郷隆盛はそれに賛同し、不平士族による反乱の鎮圧を引き受けることによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

明治二年から四年にかけての明治政府はいつ崩壊してもおかしくなかった~~廃藩置県への道

版籍奉還後の鹿児島藩、山口藩の混乱  前回記事で、明治二年(1869年)に行われた版籍奉還のことを書いた。伊藤博文や大隈重信は、これを機に封建的支配体制を一気に解体し、郡県制を布いて中央の統制権を高めることを望んだのだが、当時の情勢...
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

版籍奉還で封建制度を廃滅させようと考えた伊藤博文と大隈重信

木戸孝允は藩主・毛利敬親に面謁して版籍奉還を急ぐべきことを説き、さらに大久保利通等を説得して、薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還を上奏することで話がまとまった。四藩のあと各藩から奉還上表が提出されたのち版籍奉還が勅許され、旧藩主をそのまま藩知事としたが、政府によって任命される地方長官と位置付け、旧藩主と旧藩士との主従関係が建ち切られたことに意義があった。
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東京奠都とその影響

京都は東京奠都のあとの衰退をいかに乗り越えたか~~東京奠都4

首都の機能が東京に移転してしまえば、皇族や公卿や各藩の屋敷の大半が空家となり、多くの人々が、京都を去ることにより人口が急激に減少し、武家や宮家や公卿が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して京都の賑わいは消え、荒廃していくことにならざるを得なかった。槇村正直は、明治二年にわが国最初の学区制小学校64校を開校させたほか、京都復興のために尽力した。
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東京奠都とその影響

東京に都を移さなければクーデターが起きてもおかしくなかった~~東京奠都3

江戸城開城後旧幕臣は各地に移転し、各藩の大名屋敷も空家となり、市街の商店等も店を畳んで、江戸は荒廃していった。市民の生活は苦しくなるばかりで、薩長二藩を伐って政権を奪取しようと企てる者が全国各地にいて、皇族の中にも賀陽宮朝彦親王は薩長政府を打倒しようと画策していたことが露見し、仲間と共に捕えられた。当時の国内情勢を考えると東京に都を移すことは必要なことであった。
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東京奠都とその影響

東京遷都を警戒したが最後は政府に騙された京都の人々~~東京奠都2

明治二年に再び天皇が御東幸することが決まると、京都市民らが、東京遷都の決行であると考えて中止を請願したのだが、二度目の御東幸は強行され、九月には皇后の東京行啓が決定された。京都の人々は再び動揺し行啓の中止を嘆願したが、大嘗会でまた天皇が還幸されると説得されている。しかし、大嘗会は明治四年に東京で行われ、京都の人々は完全に政府に騙されたと言える。
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東京奠都とその影響

明治新政府が戊辰戦争の最中に江戸を都にすることを決めた経緯~~東京奠都1

大久保利通は鳥羽伏見の戦いから三週間もたたない時期に、人心一新のために大阪遷都の建白をしたが、反対が多く決議されなかった。その後前島密らが江戸遷都論を唱えたが、江戸城が無血開城したのち江藤新平・大木喬任が江戸城を以て東京と定め、東西両京の間に鉄道を開通させよという案を提出し、この案が決議されている。明治天皇は「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発したが、どこにも遷都の文字はない。
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キリスト教問題

明治六年に政府がキリスト教禁教の高札を撤去した経緯

明治政府は浦上の隠れキリシタン百余名を津和野藩などに移送させたのち、さらに明治二年十月に約三千人を捕えて、金沢以下十余藩に移している。各国公使は流罪の中止を強く主張し、政府内部の考え方も変化していった。明治四年に岩倉使節団が欧米視察に出たが行く先々でキリシタン流罪を非難され、今の考えでは、諸外国との条約交渉などができるはずがない事を認識した。
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キリスト教問題

キリスト教禁止と教徒処分問題で諸外国から激しい抗議を受けた明治新政府

五榜の掲示  前回の「歴史ノート」で、慶応元年(1865年)に長崎の浦上村で大量の隠れキリシタンがフランスの宣教師により発見され、慶応三年(1867年)になって宣教師による教導が行われていたことが発覚し、六月に六十余人の信徒が捕えら...
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キリスト教問題

幕末に大量の隠れキリシタンが長崎で出現した経緯と幕府の対応

江戸幕府は安政五年に五か国と修好通商条約を締結し、神奈川・長崎など五港の開港と居留地内における外国人の信仰の自由を認めたことから、教会の建設が始まった。慶応元年に完成した長崎の天主堂に隠れキリシタンが訪ね、それ以来2年間にわたり宣教師との極秘の交流が続いていたが、慶応三年に発覚し、信徒が大量に捕縛されたことが、外交問題に発展する。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治六年に軍の派遣を要請し、ようやく鎮圧された越前護法大一揆

明治政府は浄土真宗の強い地域では、寺院の統廃合は難しいことを悟り、明治五年に神祇省を廃し教部省を設置し、僧侶を教導職に起用して組織的な国民教化を推進しようとしたが、敦賀県に送り込んだ教部省の役人の発した言葉が僧侶・門徒を刺激し、大規模な一揆が発生している。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治政府の宗教政策に抵抗した浄土真宗の僧侶や門徒たち…大濱騒動のこと

浄土真宗はこれまで他教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶とともに共有し、新政府の宗教政策に抵抗した歴史がある。三河でおきた大浜騒動についてまとめました。
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廃仏毀釈・神仏分離

藩主自らが率先して廃仏毀釈を推進した苗木藩の事情

苗木藩の遠山家はわずか一万石の譜代大名であったが、幕末期は幕府の要請により大阪警備や第二次長州征伐に兵を出し、藩主遠山友禄は若年寄を勤めたりした。しかし鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府の施策を率先して行うことで新政府に対し従順であることを示し、なんとかして生き延びようと考え、平田派の復古神道の考えを藩内に浸透させ、徹底的な廃仏毀釈を行った。
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廃仏毀釈・神仏分離

伊勢神宮神領地域の廃仏毀釈と、長期間の遷宮の中断に終止符を打った慶光院

伊勢神宮の神領地域に多数の寺があった  伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀り、歴史的に皇室・朝廷との結びつきの深い神社であるが、かつてこの神社は仏教との関係が深く、周辺に多くの寺が存在したという。 伊勢神宮 外宮正宮 2...
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廃仏毀釈・神仏分離

明治新政府の役人に社殿焼き払いを命じられた厳島神社

江戸時代までの厳島の歴史  厳島神社は宮城県の松島、京都府の天橋立とともに日本三景の一つでもあり、1996年には世界遺産にも登録されている観光名所である。前回の「歴史ノート」では日本三大弁天のひとつである琵琶湖の竹生島にある宝厳寺の...
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廃仏毀釈・神仏分離

竹生島で強行された神仏分離と宝厳寺に残された本尊の弁財天像

竹生島と弁財天信仰  琵琶湖の北に竹生島という小さな島がある。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きさの島なのだが、周囲は2km、面積は0.14㎢しかないという。その島に西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社があ...
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令のあと徹底的に破壊された鶴岡八幡宮

明治維新までの鶴岡八幡宮は神仏習合で多くの仏堂や大塔が存在し、源治の菩提寺として栄え、当時の境内は外国人のスケッチや写真で知ることができる。しかし、新政府により神仏分離令が出されると、それまで全山を取り仕切っていた十二坊の社僧全員が復飾して神主となり、神奈川県の命令によりすべての仏堂・大塔を取り払い、仏像・仏具を売却或いは焼却した。
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令のあと金毘羅大権現の仏像・仏具が徹底的に破壊された経緯

江戸時代中期以降金毘羅信仰が広まり金毘羅参りが盛んにおこなわれたが、金毘羅とは仏教の守護神であり、金毘羅大権現を祀っていたのは松尾寺という真言宗の寺院であった。明治新政府が神仏分離令を出すと、松尾寺は金毘羅大権現は日本古来の神ではないと上申したが、新政府から圧力がかかり、仏教的な建物や仏像仏具の取払いを約束させられている。
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廃仏毀釈・神仏分離

新政府の仇敵である徳川家の聖地・日光東照宮が残された経緯

日光山の歴史と戊辰戦争  日光山内の社寺は二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。日光東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社だが、二荒山神社と日光山輪王寺は山岳信...
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廃仏毀釈・神仏分離

東本願寺がなぜ北海道開拓にかかわることになったのか

東本願寺は徳川幕府との親密な関係が続いていたのだが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利すると東本願寺の焼き払いを決定した。東本願寺は新政府にどんな協力も行うとの誓約書を提出し、献金などを始めたが、明治二年に北海道開拓を命じられている。三年から工事が開始され、今日「本願寺道路」と呼ばれる4つの道路を開削した。そのことにより東本願寺は北海道での教勢拡大のきっかけをつかんだ。
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廃仏毀釈・神仏分離

北野天満宮の神仏分離と、菅原道真の御神体として祀られてきた仏舎利の行方

菅原道真が左遷された後に903年に大宰府にて没したが、その後、道真の政敵に相次いで不幸が起こり、洪水や大火などの災害が続いたため、道真の怨霊を鎮めるために道真を祀る北野天満宮が造営された。今では神社であるが、明治初期までは神仏混淆で、境内に多くの仏堂が存在した。神仏分離令が出て社僧たちはすぐに復飾を決めたが、すべての仏堂や仏像などを処理しなければならなかった。
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廃仏毀釈・神仏分離

石清水八幡宮の廃仏毀釈と本尊・薬師如来の行方

石清水八幡宮は皇室・朝廷、武士の尊崇を集めていたが、幕末までは全山を僧侶が取り仕切り、神職は使用人のような身分で奉仕していた。しかし神仏混淆禁止の沙汰が下りて、全山の仏教的なものが排除されることが決まり、社僧たちは復飾して護国寺などの施設が破壊された。護国寺の本尊と十二神将像は、淡路島の東山寺に遷された。
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廃仏毀釈・神仏分離

祇園感神院(八坂神社)の神仏分離と祇園祭への影響

日本三大祭りの一つである「祇園祭」は八坂神社のお祭りだが、この神社は明治の初めまでは祇園感神院という名の神仏習合の寺院であり、祇園精舎の守護神とされた牛頭天王を祀っていた。しかし新政府が神仏分離令を出し、神仏習合を認めなかったのだが、その年の祇園祭を円滑に進めるためなのか、祇園社は急遽主祭神を変更し、僧侶の復飾に応じ、仏像仏具の撤去も進めている。
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廃仏毀釈・神仏分離

一度神社にされたのち寺院に戻った吉野金峯山寺

明治元年六月に吉野全山に対し、蔵王権現を神号とし僧侶は復飾神勤めすることが命じられた。僧侶たちは抵抗したが、四年には上地令が出て所領地が取り上げられ、翌年には修験道廃止令が出され、七年には金峯神社を本社と定め山上と山下の蔵王堂をそれぞれ奥ノ宮、口ノ宮とし、僧侶は復飾し、仏像仏具は取り払うことが命じられた。その後参拝者が激減し、金峯山寺は十九年に寺に戻っている。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治二年に談山神社になった多武峰妙楽寺

奈良県桜井市にある談山神社は、かつて寺領三千石、四十二坊の堂宇が存在する寺院で妙楽寺と称したが、明治元年に神仏分離令が出て、藤原鎌足を神格化していたことから、寺院になるか神社となるかで一山大衆は二派に分かれ、全員復飾して大織冠の神前に奉仕することとなり、不要となった仏像などを二束三文で売却した。その後上地令が出て収入源が断たれ、その後苦しい生活を余儀なくされた。
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廃仏毀釈・神仏分離

法隆寺における廃仏毀釈・神仏分離の危機

聖徳太子ゆかりの法隆寺は、神仏分離令には大きなダメージはなかったが、元禄期に大修理がなされてから百五十年を経過して伽藍は相当傷んでいたうえに、明治四年と七年に上地令が出て、寺領を失いさらに寺録をも失い、修理どころか、僧侶の日々の生活にも困る状態に陥った。明治五年に法隆寺の一﨟職となった千早定朝は、寺の復興のため諸策を講じ、明治十一年に法隆寺の宝物類を皇室に献納することで下賜された一円で財政を立て直した。
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廃仏毀釈・神仏分離

東大寺の廃仏毀釈・神仏分離の危機と倒壊の危険があった大仏殿

明治初期の神仏分離で東大寺は鎮守八幡宮と分離させられ、廃仏毀釈で末寺の眉間寺を撤廃されるなどした。当時大仏殿は相当傷んでおり倒壊する危険が高かったのだが、新政府は社寺建造物の修理再建などを名目とする集金行為を禁止し、さらに上地令により知行地を没収し東大寺は大きな収入源が断たれてしまい、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態に陥っていた。
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廃仏毀釈・神仏分離

廃仏毀釈で寺宝を奪い取り、売却して私腹を肥やした県令がいた

廃藩置県により旧藩主は知藩事を解任されて東京移住を強制され、県の行政は新政府が送り込んだ県令に委ねられて全国各地で開明的な施策が行われて、多くの古いものが破壊されたり売却されたりしたのだが、県令の中には権力を用いて文化財を私物化するものもいた。堺の県令であった税所篤は奈良の古寺の文化財や古墳の埋蔵物を奪い取り、売却して蓄財したことが疑われている。
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廃仏毀釈・神仏分離

文明開化と廃仏毀釈

明治四年に政府内で平田派が失脚したが、それ以降に廃仏毀釈が全国に広がった。同年に実施された廃藩置県でそれまで知藩事として藩の行政を担当した旧藩主は失職し、新政府から県令が派遣され、彼らが新政府の意向を受けて開明的な諸政策を実施し、寺の仏像や仏具は無用の長物と見なし、寺を学校にしたり、仏像などを売却して学校の設立資金に充てたりした。
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廃仏毀釈・神仏分離

「西の日光」と呼ばれていた奈良の大寺が明治初期に破壊されたこと~~内山永久寺の廃仏毀釈

内山永久寺は「西の日光」と呼ばれていた大寺院であったが、1868年に神仏分離令が出されると、この寺の僧侶は全員が還俗し、寺は無人となった。堂塔坊舎の打ち毀しが始められ、付近住民の建築材や燃料となり、仏像・仏具・経典・文書の類は多くが焼かれ、石垣、石段の石材も多くは運び出されて、数年のうちにすべてが破壊しつくされ境内は耕地に変貌してしまった。
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廃仏毀釈・神仏分離

失われた興福寺の文化財と残された文化財~~興福寺2

明治の廃仏毀釈で興福寺の書庫にあった万巻の書籍は運び出されて焼き捨てられた。後に興福寺の再興が嘆願され、明治14年に管理権が返還されたが、再興のための資金捻出のため貴重な仏像が売却されて流出した。現在国宝の無著菩薩立像も一時外国人の手に渡ったのだが、その後古社寺保存の機運が盛り上がっていくこととなる。
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廃仏毀釈・神仏分離

興福寺は廃寺となり、五重塔は売りに出された~~興福寺1

『神仏分離史料第二巻』に仏教史学者・大屋徳城の「奈良における神仏分離」という論考が収められていて、そこには「奈良における神仏分離・廃仏毀釈は興福寺が最も激烈であった」と記されている。興福寺は政治政府の神仏分離令が出た後、全員が復飾して春日大社の神官となることを選択し、無人となった興福寺はまたたく間に荒れ果てて行った。
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廃仏毀釈・神仏分離

水戸藩の徳川光圀と徳川斉昭による廃仏毀釈とその目的

水戸藩では徳川光圀および徳川斉昭が藩主であった時代に他藩に先んじて廃仏政策が行われた。光圀は当時乱立していた怪しげな寺院を整理したが、斉昭は藤田東湖らの進言を受け入れ、国防強化のため寺の梵鐘や仏像を鋳潰して大砲を造り、約二百の寺院が処分されている。
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廃仏毀釈・神仏分離

すべての寺院を破壊した鹿児島藩の廃仏毀釈~~鹿児島藩2

鹿児島藩には島津家の菩提寺を初め古い寺が多かったのだが、明治維新の廃仏毀釈で藩内の千六十六の寺すべてを破壊してしまった。慶応元年に藩の若手が、水戸藩に倣って寺院の廃合を実施し、梵鐘・仏具は武器に変え、僧侶は兵士や教員に任用することを提案し、久光が調査を指示。鳥羽伏見の戦いで勝利した後、すべての寺と仏像仏具の処分が決定した。
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廃仏毀釈・神仏分離

鹿児島県・宮崎県の寺に、国宝・重要文化財がほとんどないのはなぜか~~鹿児島藩1

江戸時代の『薩藩名勝志』や『三国名勝図会』には鹿児島県・宮崎県に多くの社寺仏閣が記されているのだが、いずれの県も寺社に文化財らしきものが皆無に近い。その理由は廃仏毀釈にある。薩摩藩には平田派の復古神道が盛んで仏教を排除せよという考えが強かった。島津斉彬が藩主の時代に毀鐘鋳砲を実行しようとして集めた梵鐘仏具は、忠義の時代に鋳潰されて大砲だけでなく贋金作りに用いられた。
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令を出した神祇事務局の役人が主導した日吉大社の廃仏毀釈

慶応四年三月十三日に王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告されている。そして、三月十七日には神祇事務局から全国の神社に宛てて神社における僧侶の復飾が命じられ、三月二十八日には「神仏判然令」と呼ばれる命令が出されている。そしてその命令に関与した神祇官事務局の樹下茂国が、日吉社の仏像仏具を焼き払った。その後も新政府により神仏分離は推進された。
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明治初年の外国人殺傷事件

知恩院からイギリス公使パークス襲撃事件の現場を訪ねて

慶応四年二月三十日に英公使パークス襲撃事件が起きたが、一行は知恩院を出発して新橋通りを直進し、縄手通りを右折するところで二人の凶漢に襲われた。実際に知恩院から襲撃地点まで歩き、犯人の墓を訪ねてみた。 犯人の一人はその場で首を斬られ、もう一人の三枝蓊は武士の身分を剥奪された上で斬首されたが、二人は霊山墓地に「神霊」と彫られた墓に眠っている。
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明治初年の外国人殺傷事件

相次いだ外国人殺傷事件と五箇条の御誓文

五箇条の御誓文は大政奉還から五か月近くも経過してから発布されている。当時は新政府周辺に外国との交際を拒絶する者が少なくなく、「開国和親」という方針が決定してもそれに抵抗する動きが強かった。しかし、その後も外国人襲撃事件が相次ぎ新政府の危機を経験したタイミングで木戸孝允が動き、由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されている。
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明治初年の外国人殺傷事件

天皇の謁見を賜う途上で起きたイギリス公使・パークス暗殺未遂事件

堺事件が解決した後、慶応四年二月三十日に天皇が各国公使を謁見することが決定し、英仏蘭の公使が御所に向かったが、英公使のパークスが皇居に向かう途中で難に遭った。パークスは中井弘蔵、後藤象二郎の奮闘で無事であったが、11名が負傷した。仏公使のロッシュは宴席でその情報を聞き、直ちにパークスを見舞いに行き、共に徳川を支援しようと声をかけたがパークスは断った。
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明治初年の外国人殺傷事件

神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件

神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵とフランス人とのトラブルが発生し、11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。
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明治初年の外国人殺傷事件

鳥羽伏見の戦いの数日後に神戸で起きた備前藩兵と外国軍との間の銃撃戦~~神戸事件

鳥羽伏見の戦いが終わった直後に、備前藩兵が今の三宮神社近辺で偶々この隊列を横切ろうとした外国人とトラブルが発生し、拳銃を構えた外国人に発砲したことから、外国軍も交えての銃撃戦が始まった。死者はなかったが、外国人は新政府に対し、責任者の厳罰を要求した。新政府は「開国和親」に舵を切り、備前藩に責任者の切腹を要求。瀧善三郎は全てを引受け、外国人の目の前で割腹し、この事件が解決した。
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戊辰戦争

英公使パークスの激怒と江戸城無血開城との関係

慶応四年三月十五日に江戸城を総攻撃することが決まり、木梨精一郎(長州藩士)が東海道先鋒参謀・西郷隆盛の命を受けて三月十四日に、横浜の英国公使館を訪ねている。木梨は、明日以降の傷病者の手当てをパークス公使に要請したのだが、パークスの怒りが爆発した。この怒りにより、江戸城総攻撃の中止とは無関係ではない。
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戊辰戦争

慶喜がひたすら恭順を示したにもかかわらず江戸城総攻撃に向かう東征軍

徳川慶喜は慶応四年一月六日に大坂城を脱出し十二日に江戸城に入ったが、ここでも家臣の大半が主戦論を主張し、勘定奉行の小栗忠順は、海軍力と伝習隊で勝利する作戦まで提案し、ロッシュ仏公使からは武力支援の申し出があったが、慶喜には戦う選択肢はなく、徹底して恭順の姿勢を示そうとした。東征軍が江戸に向かう途中で西郷の指示で木梨精一郎がパークス英公使に向かうが、パークスは激怒した。
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戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍が敗れた理由

大坂城内の兵士らが叫ぶ「討薩」の声が一段と大きくなり、慶応四年一月元旦に慶喜は討薩の表を携えて上京することを命じている。二日に大坂城を出発したが、朝廷からも上洛の催促があったので、戦うことは想定していなかった。しかし途中で薩摩軍が道を阻み、夕刻にいきなり大砲を発射したのである。兵の数では旧幕府軍が優ったが、最新兵器を大量に持つ薩長相手に総崩れとなる。
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