明治時代

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朝鮮半島情勢と日清戦争

朝鮮半島を狙ったロシア・イギリスと李氏朝鮮の国情

甲申事件の後明治十八年に日清間で締結された天津条約によって日清両軍は朝鮮より撤兵したが、今度はロシアや英国が朝鮮半島に進出しようとし、英国は巨文島を占領した。朝鮮国の近代化を図ろうとした朝鮮独立党の金玉均は甲申事変ののち日本に亡命したが、のちに上海に呼び出されて暗殺された。この暗殺に清国政府が関わっていたことは明らかであり、日本国内で暴支膺懲の声が高まった。
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朝鮮半島情勢と日清戦争

開国後の朝鮮国をめぐる日本・清国の対立

日朝修好通商条規締結後の朝鮮は、金弘集の進言により積極的開国に転じるようになった。しかし1882年に旧軍兵が政権に不満を抱く下層市民を巻きこむ大暴動(壬午事変)が起き、この鎮圧を清国軍に頼ったことからその後ソウルに清国軍が駐留し、清国は軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出した。金玉均らが清国に阿る守旧派一掃を企てて甲申事変を起こすが失敗した。
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朝鮮半島情勢と日清戦争

江華島事件と李氏朝鮮の開国

明治八年に朝鮮国を開国させようとする交渉が難航したため、威嚇することを目的に五月に軍艦雲揚を釜山に向かわせた。その後九月に再び雲揚が情報収集で朝鮮半島に向かうと、江華島沖で朝鮮軍からの砲撃を受けた。日本軍は応戦し永宗島を陥れた。この事件を機に政府は黒田清隆を全権として条約締結に持ち込もうとした。
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征韓論から士族の反乱

石川県の不平士族らによる大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)

石川県の士族たちの明治政府に対する不満は大きく、島田一良らは西南戦争の際に西郷等に呼応して現政権を倒そうと考えたが、メンバーの説得に失敗し挙兵のタイミングを失してしまった。そこで彼等は要人の暗殺に方針を変更し、明治11年5月に大久保利通の暗殺に成功している。彼らの斬奸状には「有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し」とあるが、事件の二か月後に三新法が公布され、府県会の選挙が行われることとなった。
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征韓論から士族の反乱

赤坂喰違の変で岩倉具視はいかにして難を逃れたか

明治六年の政変で士族たちが絶大な信頼を置いていた西郷らが下野したことで、政府に対する不平不満は烈しいものとなり、各地で士族の不満が爆発しそうな不穏な情勢となっていた。 翌年の一月に岩倉具視を乗せた馬車が赤坂喰違坂で九名の高知県士族に襲われたのだが、いかにして難を逃れたか。
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征韓論から士族の反乱

西南戦争がはじまると高知県でも政府転覆に動く計画が動き出した

西南戦争が始まると高知県でも政府転覆に起ち上ろうとする動きがあった。元高知県令の林有造は、多くの兵士が西南戦争に集められてわずかの留守番兵が残っている大阪鎮台を乗っ取ろうと考え、帰郷して多くの兵士を集め、大江卓らは木戸孝允の暗殺を計画した。
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征韓論から士族の反乱

西郷隆盛は何のために起ち上がったのか~~西南戦争2

西郷軍は2月15日に鹿児島を発って最初に熊本城を目指したが、鎮台兵は西郷軍が想定していた以上に強く、最大の激戦地となった田原坂で西郷軍は敗色濃厚となる。西郷は官軍の包囲から脱出するため可愛岳突破し、鹿児島に向かった。しかし鹿児島到着後総勢7万の官軍の兵士が372人の西郷軍を取り囲み、西郷は最後の決戦を挑んでいる。
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征韓論から士族の反乱

西南戦争が起こる前の鹿児島県は如何なる状況であったのか~~西南戦争1

明治六年政変で西郷隆盛が下野した以降の鹿児島は、一種の独立国のようになった。西郷は私学校を創設し、県令の大山綱吉は西郷が戻ってからは新政府に租税を納めていなかった。 大久保利通は、薩摩を政府の統制下に据えるためな役人の異動を行おうとし、スパイを鹿児島に送り込んだのだが、激昂した私学校党の青年たちは火薬庫を襲撃し武器を奪い取った。西郷は政府と闘う肚を固めた。
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征韓論から士族の反乱

大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

明治4年に宮古島の船が台湾に漂着して、船員の衣類が略奪され54名が虐殺される事件があった。その後も同様の事件が続き、台湾を膺懲せよとの世論が高まって行った。大久保利通は明治六年に征韓論に反対し、西郷隆盛らが下野する原因を作った人物だが、その4か月後に、木戸孝允の反対を押し切って征台論を主張し、台湾出兵を実行した。
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征韓論から士族の反乱

前原一誠と萩の乱

福岡の秋月の乱の翌日に山口で前原一誠らが起ちあがった。前原は維新後参議を務めた人物だが、「国民皆兵」の徴兵制路線や奇兵隊の処分を主張した木戸孝允と意見が対立し、明治三年九月に官を辞して萩に帰郷していた。前原は明治九年十月に、熊本で神風連、福岡で秋月の乱が起きた情報が入ると、二十七日に萩の不平士族たちを明倫館の講堂に招集し決起することを決定した。
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征韓論から士族の反乱

神風連の乱の三日後に起きた秋月の乱

熊本の神風連が蹶起すると聞き、福岡の秋月も挙兵を決めた。秋月で集まったのは百五十人程度であったが、挙兵に加わる約束をしていた旧黒田藩に裏切られて何とか危地を脱したものの、食糧も乏しくなり、多くの者が脱落していった。今村百太郎がわずか十七名で最後の決戦を試みた。
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征韓論から士族の反乱

廃刀令が出た半年後に起きた熊本神風連の乱

明治維新後士族を取り巻く環境が激変し収入も激減していたのだが、明治九年の廃刀令で不平士族の不満が爆発した。熊本では神風連の党員約170名が新政府施政の過ちを正そうと起ちあがり、熊本鎮台司令官宅、熊本県令宅、熊本鎮台などを襲撃した。翌日鎮圧されたが、この事件に呼応して、秋月の乱、萩の乱が起きている。
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征韓論から士族の反乱

江藤新平と佐賀の乱~~戦争煽動責任は政府にあるのではないか

明治六年の政変の後、政府に対する不満が各地で爆発し、七年一月には岩倉具視が襲われる事件が起きた。岩倉は無事であったが、公務を休んで療養中に佐賀の乱が起きている。佐賀では征韓論中止に士族たちが激昂していた。江藤は佐賀の不穏な空気を鎮めようと急いで帰郷したのだが、こともあろうに政府は内乱が起きてもいない佐賀に軍隊を送りこみ、江藤らは政府軍との戦いを余儀なくされる。
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征韓論から士族の反乱

征韓論が生まれた背景と明治六年の政変

江戸時代に於ける李氏朝鮮との交渉は対馬国守の宗氏が窓口となり、釜山浦草梁に倭館が置かれて貿易などが行われていたのだが、明治維新後は新政府を交渉の窓口とすべく何度か使節を送ったのだが、当時の同国は大院君による極端な排外主義的政策がとられていて、わが国の使節は侮辱され、国書も斥けられる始末であった。わが国では征韓論が起こり、西郷隆盛は自らが丸腰で交渉に行くことを主張した。
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徴兵令と士族の没落

徳川家旧幕臣らが茶畑の開墾を始めた牧之原台地

明治二年七月に静岡藩知事徳川家達の命が出て、牧之原台地の開墾のために中條・大草ら旧幕臣の二百余名が士族という身分を捨てて、牧之原台地の開墾のために動きだした。当時の牧之原は古代に堆積した礫土によって地元の農民も寄り付かない原生林であった。そこに道路・水路を作り開墾していった。広大な牧之原の大茶園は全国の生産面積の1/4に及ぶが、その礎を気付いたのは徳川家臣であった。
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徴兵令と士族の没落

徳川家臣団による「士族の商法」

駿府に移住せずに江戸に残って商人になった旧幕臣は少なくなく、汁粉屋や団子屋や古道具屋、金貸し業などを始めたが、ほとんどの者は商売の基本がわからずに赤字を垂れ流して失敗している。 駿府に移ってから商売を始めた者もいたが、一部は成功した者もいたが大半は失敗した。
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徴兵令と士族の没落

静岡に移住した旧幕臣や、下北半島に移住した旧会津藩士たちの悲惨な暮らし

徳川の家臣たちの半数以上が駿府移住を希望したが、その多くは無禄移住となり、彼らの生活は非常に厳しいものとなった。旧幕臣の父らともに移住した塚原渋柿園の記録では非番の時に海や山で食糧を探す生活で、中には家族全員が餓死した家もあったという。 戊辰戦争で敗れた会津藩は下北半島の斗南藩に移封となり、極寒の入植先での生活は悲惨なものがあった。
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徴兵令と士族の没落

家禄が大幅に削減された士族のなかでも特に悲惨な目にあった徳川の旧幕臣たち

明治維新で封建制が瓦解し、徴兵制が発布されて士族がその存在意義を失い、深刻な生活問題に直面した。最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣で、徳川慶喜は江戸城明け渡しの後、八百万石を七十万石に減らされて駿府に移封され、多くの家臣が無禄で静岡に移住した。静岡藩は移住希望者を運ぶためにチャーターした船は、奴隷を運ぶのと同様の方法で家臣団を運んでいる。
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徴兵令と士族の没落

明治政府が士族中心の軍隊を否定した経緯と徴兵制に対する国民の反応

山縣有朋は、中央軍隊の編成を大久保利通らは薩摩・長州・土佐の三藩の藩兵を主体とする主張を退け、「四民平等、国民皆兵」の徴兵制を採用し、明治六年に徴兵令が発布された。しかし、当初は徴兵を忌避する者が多くて、兵を集めるのに随分苦労している。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

徳島県が名東県と名称を変えたのち高知県に吸収され、その後再設置されるまで~~四国2

庚午事変の処分が終わり、明治四年十一月の第一次府県統合で徳島県は名東県に名称が変更され、二年後には香川県を併合した。しかしながら明治九年八月に名東県は廃止され、阿波国は高知県へ、淡路国は兵庫県に併合された。この措置によって阿波国人の受けた不利益は、言語に絶するものがあった。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

徳島藩蜂須賀家が治めていた淡路島がなぜ兵庫県に移されたのか~~四国1

明治政府にとって難治県とされた徳島県  上の図は四国の県の変遷をまとめたものだが、何度も県の統廃合が行われていて結構ややこしい。「淡路国」というのは現在の「淡路島」を意味するが、明治の初期に於いては、兵庫県ではなく徳島県の一...
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鹿児島県に合併されてすぐ西南の役に巻き込まれた宮崎県の再設置運動

宮崎県の誕生  上の図は何度か紹介させて頂いた明治十二年(1879年)の日本地図だが、九州の南部に宮崎県が存在していなかったことがわかる。今回は宮崎県が鹿児島県に吸収合併されたのち復活に至るまでの経緯について書くこととしたい...
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

大久保利通暗殺事件と石川県の三分割 ~~北陸3

明治11年5月に、石川県の不平士族らが大久保利通を襲い殺害する事件が起き、その二か月後に町村編制法・府県会規則・地方税規則(「三新法」)が公布され、ようやく府県会の選挙が行われることとなり、自由民権運動が活発化して、各地で分県に関する議論に火が付いた。14年に石川県から福井県が分離することが決まり、16年には富山県が分離することが決定した。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

石川県が明治九年に日本最大の県となった事情~~北陸2

明治九年に全国規模で大規模な府県統合が二度にわたり行われ、石川県は四月に新川県(現在の富山県)を併合し、八月には敦賀県(現在の福井県)の一部を合併して、旧石高二百二十万石の日本最大の県となっている。旧石川県のみならず、新川県(富山県)も敦賀県もいろいろ問題の多い県であり、それまでに大きな文化破壊が行われ、後には暴動が起きて多くの者が処刑された歴史がある。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

金沢県を石川県に改称し県庁を金沢から美川町に移した事情~~北陸1

明治四年七月の廃藩置県では金沢藩は金沢県、大聖寺藩は大聖寺県となり、十一月二十日に両県は廃止され金沢県が置かれ、能登半島のある北部を分離して七尾県が新たに設置されたのだか、翌年二月二日には金沢県は石川県と県名を変え、五月五日に県庁を石川郡美川町に移している。なぜ金沢から海辺の小さな町に移されたのかを調べると不平士族の問題に突き当たる。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鳥取県の再設置の経緯と北海道開拓に送り込まれた鳥取士族たち~~鳥取県再設置2

明治九年の九月に鳥取県は島根県に併合されたのだが、藩政時代に於いて山陰で最大の藩は鳥取藩であり、格下の松江藩に吸収されたことは鳥取県人にとって屈辱的であった。併合後は鳥取の経済は衰退し、商家・士族の倒産が続出し、足立長郷が共斃社を設立し、鳥取県復県を内務省に建議したが、過激な活動をしていた彼らの案は受け入れられず、岡崎平内が愛護会を結成し、鳥取県再置を山縣有朋に嘆願した。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鳥取県が消滅し、鳥取城が破壊され、鳥取最大の祭も失われた~~鳥取県再設置1

旧藩時代において鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治九年九月六日に、格下であったはずの島根県の県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのだが、主に鳥取の士族はこの命令に憤った。それから五年間にわたり「鳥取県」が地図から消え、その間に鳥取城が破壊された。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

奈良県が消滅し再設置されるまでの経緯

古い貴重な文化財が数多く残されている奈良県は、明治9年に堺県に編入されて消滅し、さらに14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。その後旧奈良県住民にとって重要な予算が削られることが相次いで、奈良県再設置運動が動き出す。しかし内務省で却下され、その後太政官、元老院に提出した請願書も認められず、明治20年の4度目の請願書でようやく再設置が決定した。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

廃藩置県で政府は県名や県庁所在地をどういう基準で決めたのか

明治四年七月に廃藩置県が行われた時は、藩名をそのまま府県名に読み替えて、府県の数が全部で三府三百二県であったのだが、その後わずか一年で八割近い県が消滅した。政府はどういう基準で新しい県名を決めたのかについて、宮武外骨が『府藩県制史』で朝敵藩・曖昧藩は従来の藩名をそのまま県名としなかったことを指摘している。宮武は賞罰的な意味合いがあったと書いているが、そうではない可能性もある。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか

政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには薩長の力に頼るしかなかった。薩摩藩の島津久光は廃藩置県に反対であったが、上京した西郷隆盛はそれに賛同し、不平士族による反乱の鎮圧を引き受けることによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

明治二年から四年にかけての明治政府はいつ崩壊してもおかしくなかった~~廃藩置県への道

版籍奉還後の鹿児島藩、山口藩の混乱  前回記事で、明治二年(1869年)に行われた版籍奉還のことを書いた。伊藤博文や大隈重信は、これを機に封建的支配体制を一気に解体し、郡県制を布いて中央の統制権を高めることを望んだのだが、当時の情勢...
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

版籍奉還で封建制度を廃滅させようと考えた伊藤博文と大隈重信

木戸孝允は藩主・毛利敬親に面謁して版籍奉還を急ぐべきことを説き、さらに大久保利通等を説得して、薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還を上奏することで話がまとまった。四藩のあと各藩から奉還上表が提出されたのち版籍奉還が勅許され、旧藩主をそのまま藩知事としたが、政府によって任命される地方長官と位置付け、旧藩主と旧藩士との主従関係が建ち切られたことに意義があった。
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東京奠都とその影響

京都は東京奠都のあとの衰退をいかに乗り越えたか~~東京奠都4

首都の機能が東京に移転してしまえば、皇族や公卿や各藩の屋敷の大半が空家となり、多くの人々が、京都を去ることにより人口が急激に減少し、武家や宮家や公卿が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して京都の賑わいは消え、荒廃していくことにならざるを得なかった。槇村正直は、明治二年にわが国最初の学区制小学校64校を開校させたほか、京都復興のために尽力した。
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東京奠都とその影響

東京に都を移さなければクーデターが起きてもおかしくなかった~~東京奠都3

江戸城開城後旧幕臣は各地に移転し、各藩の大名屋敷も空家となり、市街の商店等も店を畳んで、江戸は荒廃していった。市民の生活は苦しくなるばかりで、薩長二藩を伐って政権を奪取しようと企てる者が全国各地にいて、皇族の中にも賀陽宮朝彦親王は薩長政府を打倒しようと画策していたことが露見し、仲間と共に捕えられた。当時の国内情勢を考えると東京に都を移すことは必要なことであった。
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東京奠都とその影響

東京遷都を警戒したが最後は政府に騙された京都の人々~~東京奠都2

明治二年に再び天皇が御東幸することが決まると、京都市民らが、東京遷都の決行であると考えて中止を請願したのだが、二度目の御東幸は強行され、九月には皇后の東京行啓が決定された。京都の人々は再び動揺し行啓の中止を嘆願したが、大嘗会でまた天皇が還幸されると説得されている。しかし、大嘗会は明治四年に東京で行われ、京都の人々は完全に政府に騙されたと言える。
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東京奠都とその影響

明治新政府が戊辰戦争の最中に江戸を都にすることを決めた経緯~~東京奠都1

大久保利通は鳥羽伏見の戦いから三週間もたたない時期に、人心一新のために大阪遷都の建白をしたが、反対が多く決議されなかった。その後前島密らが江戸遷都論を唱えたが、江戸城が無血開城したのち江藤新平・大木喬任が江戸城を以て東京と定め、東西両京の間に鉄道を開通させよという案を提出し、この案が決議されている。明治天皇は「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発したが、どこにも遷都の文字はない。
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キリスト教問題

明治六年に政府がキリスト教禁教の高札を撤去した経緯

明治政府は浦上の隠れキリシタン百余名を津和野藩などに移送させたのち、さらに明治二年十月に約三千人を捕えて、金沢以下十余藩に移している。各国公使は流罪の中止を強く主張し、政府内部の考え方も変化していった。明治四年に岩倉使節団が欧米視察に出たが行く先々でキリシタン流罪を非難され、今の考えでは、諸外国との条約交渉などができるはずがない事を認識した。
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キリスト教問題

キリスト教禁止と教徒処分問題で諸外国から激しい抗議を受けた明治新政府

五榜の掲示  前回の「歴史ノート」で、慶応元年(1865年)に長崎の浦上村で大量の隠れキリシタンがフランスの宣教師により発見され、慶応三年(1867年)になって宣教師による教導が行われていたことが発覚し、六月に六十余人の信徒が捕えら...
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キリスト教問題

幕末に大量の隠れキリシタンが長崎で出現した経緯と幕府の対応

江戸幕府は安政五年に五か国と修好通商条約を締結し、神奈川・長崎など五港の開港と居留地内における外国人の信仰の自由を認めたことから、教会の建設が始まった。慶応元年に完成した長崎の天主堂に隠れキリシタンが訪ね、それ以来2年間にわたり宣教師との極秘の交流が続いていたが、慶応三年に発覚し、信徒が大量に捕縛されたことが、外交問題に発展する。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治六年に軍の派遣を要請し、ようやく鎮圧された越前護法大一揆

明治政府は浄土真宗の強い地域では、寺院の統廃合は難しいことを悟り、明治五年に神祇省を廃し教部省を設置し、僧侶を教導職に起用して組織的な国民教化を推進しようとしたが、敦賀県に送り込んだ教部省の役人の発した言葉が僧侶・門徒を刺激し、大規模な一揆が発生している。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治政府の宗教政策に抵抗した浄土真宗の僧侶や門徒たち…大濱騒動のこと

浄土真宗はこれまで他教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶とともに共有し、新政府の宗教政策に抵抗した歴史がある。三河でおきた大浜騒動についてまとめました。
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廃仏毀釈・神仏分離

藩主自らが率先して廃仏毀釈を推進した苗木藩の事情

苗木藩の遠山家はわずか一万石の譜代大名であったが、幕末期は幕府の要請により大阪警備や第二次長州征伐に兵を出し、藩主遠山友禄は若年寄を勤めたりした。しかし鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府の施策を率先して行うことで新政府に対し従順であることを示し、なんとかして生き延びようと考え、平田派の復古神道の考えを藩内に浸透させ、徹底的な廃仏毀釈を行った。
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廃仏毀釈・神仏分離

伊勢神宮神領地域の廃仏毀釈と、長期間の遷宮の中断に終止符を打った慶光院

伊勢神宮の神領地域に多数の寺があった  伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀り、歴史的に皇室・朝廷との結びつきの深い神社であるが、かつてこの神社は仏教との関係が深く、周辺に多くの寺が存在したという。 伊勢神宮 外宮正宮 2...
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廃仏毀釈・神仏分離

明治新政府の役人に社殿焼き払いを命じられた厳島神社

江戸時代までの厳島の歴史  厳島神社は宮城県の松島、京都府の天橋立とともに日本三景の一つでもあり、1996年には世界遺産にも登録されている観光名所である。前回の「歴史ノート」では日本三大弁天のひとつである琵琶湖の竹生島にある宝厳寺の...
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廃仏毀釈・神仏分離

竹生島で強行された神仏分離と宝厳寺に残された本尊の弁財天像

竹生島と弁財天信仰  琵琶湖の北に竹生島という小さな島がある。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きさの島なのだが、周囲は2km、面積は0.14㎢しかないという。その島に西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社があ...
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令のあと徹底的に破壊された鶴岡八幡宮

明治維新までの鶴岡八幡宮は神仏習合で多くの仏堂や大塔が存在し、源治の菩提寺として栄え、当時の境内は外国人のスケッチや写真で知ることができる。しかし、新政府により神仏分離令が出されると、それまで全山を取り仕切っていた十二坊の社僧全員が復飾して神主となり、神奈川県の命令によりすべての仏堂・大塔を取り払い、仏像・仏具を売却或いは焼却した。
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令のあと金毘羅大権現の仏像・仏具が徹底的に破壊された経緯

江戸時代中期以降金毘羅信仰が広まり金毘羅参りが盛んにおこなわれたが、金毘羅とは仏教の守護神であり、金毘羅大権現を祀っていたのは松尾寺という真言宗の寺院であった。明治新政府が神仏分離令を出すと、松尾寺は金毘羅大権現は日本古来の神ではないと上申したが、新政府から圧力がかかり、仏教的な建物や仏像仏具の取払いを約束させられている。
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廃仏毀釈・神仏分離

新政府の仇敵である徳川家の聖地・日光東照宮が残された経緯

日光山の歴史と戊辰戦争  日光山内の社寺は二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。日光東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社だが、二荒山神社と日光山輪王寺は山岳信...
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廃仏毀釈・神仏分離

東本願寺がなぜ北海道開拓にかかわることになったのか

東本願寺は徳川幕府との親密な関係が続いていたのだが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利すると東本願寺の焼き払いを決定した。東本願寺は新政府にどんな協力も行うとの誓約書を提出し、献金などを始めたが、明治二年に北海道開拓を命じられている。三年から工事が開始され、今日「本願寺道路」と呼ばれる4つの道路を開削した。そのことにより東本願寺は北海道での教勢拡大のきっかけをつかんだ。
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廃仏毀釈・神仏分離

北野天満宮の神仏分離と、菅原道真の御神体として祀られてきた仏舎利の行方

菅原道真が左遷された後に903年に大宰府にて没したが、その後、道真の政敵に相次いで不幸が起こり、洪水や大火などの災害が続いたため、道真の怨霊を鎮めるために道真を祀る北野天満宮が造営された。今では神社であるが、明治初期までは神仏混淆で、境内に多くの仏堂が存在した。神仏分離令が出て社僧たちはすぐに復飾を決めたが、すべての仏堂や仏像などを処理しなければならなかった。
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