大阪府

大阪

紫陽花の季節に北摂の久安寺、勝尾寺を訪ねて

「あじさい寺」で有名な北摂の寺院を参拝してきた。池田市の久宝寺は、本坊の門前にある具足池に「あじさいうかべ」が行われている時期が見頃である。「勝ちダルマ」で有名な箕面市の勝尾寺も、境内に三千六百株のあじさいが植えられていて、見頃を迎えている。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

奈良県が消滅し再設置されるまでの経緯

古い貴重な文化財が数多く残されている奈良県は、明治9年に堺県に編入されて消滅し、さらに14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。その後旧奈良県住民にとって重要な予算が削られることが相次いで、奈良県再設置運動が動き出す。しかし内務省で却下され、その後太政官、元老院に提出した請願書も認められず、明治20年の4度目の請願書でようやく再設置が決定した。
廃仏毀釈・神仏分離

廃仏毀釈で寺宝を奪い取り、売却して私腹を肥やした県令がいた

廃藩置県により旧藩主は知藩事を解任されて東京移住を強制され、県の行政は新政府が送り込んだ県令に委ねられて各地で開明的な施策が行われた。多くの文化財が破壊されたり売却されたりしたが、県令の中には文化財を私物化する者もいた。堺の県令であった税所篤は奈良の古寺等の文化財を売却して蓄財したと言われている。
明治初年の外国人殺傷事件

神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件

神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵に11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。
大阪

国史跡日根荘に残された国宝慈眼院多宝塔から七宝瀧寺などを訪ねて~~泉南の神社仏閣その2

国史跡の日根野に慈眼院と日根神社があり、伝承によるといずれも秀吉の紀州攻めで焼かれたとされている。更に山に入ると火走神社があり、さらに進むと七宝瀧寺がある。この寺も秀吉の紀州攻めで焼かれたと伝わっている。なぜこんな山奥の寺までが焼かれたのだろうかと誰でも疑問に思うところだ。
大阪

秀吉の紀州攻めで焼かれたとされる古寺を訪ねて~~泉南の神社仏閣その1

泉南地区の大威徳寺、神於寺、孝恩寺、水間寺を巡って来たが、いずれも秀吉の紀州攻めの際に焼かれた伝承が残されている古刹である。しかしながら、根来衆の防衛ラインの最も東にあった千石堀城の戦いでは城内の根来衆は全滅している。防衛ラインよりも東や北側の寺が焼かれているはなぜなのか。イエズス会のフロイスの記録に着目したい。
豊臣秀吉

秀吉の紀州攻めで多くの寺社が焼かれた理由~~紀州攻め1

天正十二年の小牧・長久手の戦いで秀吉は織田・徳川連合軍と戦ったが、根来・雑賀衆は織田・徳川方につく一方、秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め入り、建築中の大坂城等を破壊した。秀吉は小牧・長久手の戦いを終結させ、根来・雑賀衆を滅ぼすために紀州攻めを決行。その際に多くの寺社が焼かれている。
隠れキリシタン(茨木)

禁教の時代を乗り越えて信仰を繋いできた最後のキリシタン~~隠れキリシタンの里3

茨木市の千提寺地区には、江戸幕府が禁教令を出した以降三百年以上にわたり、秘密を守りながらキリスト教信仰を繋いでいた家があった。聖ザビエル像が発見された大正八年には4軒が存在し、大正15年にローマ教皇庁使節が最期の隠れキリシタンを訪ねた時は、中谷イトさんは「アヴェ・マリアのオラショ(祈り)」を披露したという。
隠れキリシタン(茨木)

聖ザビエル像が山奥で発見されたのち、売却された経緯~~隠れキリシタンの里2

聖フランシスコ・ザビエル像(国重要文化財)は大正九年(1920)に茨木市で発見されたのだが、なぜ山奥の民家でこのような貴重なものが出てきたのだろうか。またザビエル像は今は神戸市立博物館の所蔵品となっているが、どういう経緯で売却されたのであろうか。
隠れキリシタン(茨木)

聖フランシスコ・ザビエル像が北摂の山奥に残された経緯~~隠れキリシタンの里1

今から100年程前に、茨木市千提寺で聖フランシスコ・ザビエル像など貴重なキリシタン遺物が相次いで発見されている。このあたりはかつてキリシタン大名・高山右近が治めた地域なのだが、そののちキリスト教は禁教とされた。山深い地域で貴重な遺物が出てきた経緯を考えてみたい。