尼港事件で生き残った毛皮商人の証言
前回の「歴史ノート」で大正九年(1920年)に尼港に居住していた七百数十名の日本人の殆んどが共産パルチザンによって殺害されてしまった尼港事件のことを書いたが、この事件でわずかながら生存者がいた。毛皮商人であった井上雅雄氏の妻子三名は虐殺されてしまったのだが、本人は万死に一生を得て帰国し、六月二十三日付の神戸新聞に井上氏がこの事件について語った記事が掲載されている。
三月二日に在留邦人が命の綱と頼んでいた無線通信の設備がパルチザンにより破壊され、次の日には「日本人を鏖殺せよ」との貼紙が市中到る所の電柱に貼られていたそうだ。
三月十一日の夕方に所用があり自己所有の鉱山に向かったが、行ってみるとわずかのメンバーが残っているだけだったという。井上氏は不穏な空気を感じて、翌日早朝に起床してニコラエフスク(尼港)に向かったのだが、そこは惨憺たる修羅場と化していた。この場面から記事を引用させていただく。
その当時の光景を追想するだに私は戦慄を禁じ得ない。
黒竜江の河口から河に沿って長方形なる尼港市街は、この時河口の方から紅蓮の焔がメロメロと市街を西北に舐めつつあった。何しろパルチザンの悪鬼共が手に手に石油缶を提げて屋内に投込つつ放火して歩くのだから火の手の早い事夥しい。パチパチと鳴る機関銃の音河口から打出す砲声(河口には支那の巡洋艦及駆逐艦二隻碇泊し之がパルチザンに加担して市街に砲火を浴せかけた)日本の軍隊は陸軍が二個中隊いたが領事館を囲んでいるので居留民の援護は出来なかったらしい。又海軍は河口閉塞の任に就(つい)ているのでこの渦中に飛び込めなかったものと見える。
この時領事館も既に紅蓮(ぐれん)の焔に包まれていた。その光景を眺めた時、私はもういよいよ駄目だと思った。けれども私の店は西北隅にあったから、まだこの火焔に包まれておらぬを幸い、妻子の安否如何と飛ぶように帰って来た。
私の店は階下が三間に台所、階上が同じく三間の西洋館であるが、妻子はその時奥の間に顫(ふる)えながら私の帰りを待ちわびているところだった。私は妻子が散り散りになって逃げる事を決心し、その支度をしている折柄入口にヌッと一人の露人がやって来た。私は拒むと悪いと思ったので直ぐに扉を開けてやると、彼は片手に剣の抜身を提げながら『缶詰はあるか』と血眼で言った。私は何でも皆な持って行ってくれと答えた。するとその後から俄(にわか)に五六十人の露人がドヤドヤと入って来た。彼等は悉(ことごと)くパルチザンの一味であった。その時私の家の後は既に炎々たる焔(ほのお)に包まれて、到底裏から逃げる事は出来なかった。前川の虎後門の狼とは真にこの事であろう。
私は三人の妻子に別れ別れになれと命じたが、彼等は一緒に固まって動かなかった。する内に五六十人の露人の後から機関銃がバラバラ鳴り出した。
私はその時も護身用の六連発を握っていたが、放すと弾丸が無くなるので容易に放さなかった。その内に表から撃出した機関銃のため、真先に入った露人はバッタリ私の膝の上に倒れ懸った。私は慄然として拳短を取直した。
その時露人の群はサッと屋内に殺到したが、私は私の妻子が機関銃の為めバタバタとその場に打倒れたのを見て、もう気も漫(そぞ)ろに拳短を乱射した。
敵の弾丸は私の左腕の外套(私はその時鉱山から帰った儘の姿だった)を貫き臀部を擦過したけれども幸か不幸か大した傷も負わなかった。その内に私の弾丸にあたって敵は二人まで倒れた。敵はそれに怯(ひる)んでサッと退却したため、私は硝子の壊れている間から身を以て屋外に遁(のが)れた。
屋外は煙に包まれて全然見えない。けれども私は夢中になって街路を走った。路上には死屍累々算を乱して横たわっていたが、彼等の死に得ざる者は私の足に纏(まと)わりついて『助けてくれ、助けてくれ』と泣き縋(すが)った。けれども私は(今考えると無情にも)それらの手を振切り振切り駆抜けた。十一丁ばかりも逃げた時、既にそこは街外れで丘に続く道があった。そこまで逃げて私はホッとした。私は後ろを振返ったその時、私の頬にポタリと落ちたものがある。血潮だった。見上げるとそこの樹の上に十五六の娘が裸体のままひっかかって死んでいるではないか。多分銃剣で突刺されて抛(ほお)り上げられたものだろう。それを見ると私は又夢中になって駆出した。
私の家から凡そ二十丁もある丘上に駆上った時私は初めて我に返ったような心地がした。妻子の死!あの無残なる死!それを考えると私はもう生きて居られなかった。私も死のう、一緒に死んで妻子の霊に追付こうと思って、私は拳短の筒先を右の耳下に当て思い切って曳金を外した。然るに何事ぞ、弾丸は今一発残っていると思ったのが、既に全部撃尽されて私は遂に死にも得なかった。
遥かに尼港市街を瞰(みおろ)すと全市は炎々たる猛火に包まれ、邦人の逃げる者は一人も無い。私の目撃しただけでも邦人の大半は真裸体にされ多く背中の皮を剥がれていた。剣で削られたものであろう。『日本人は一人も残さず殺せ』との声を私は路上で聞いた。私はその時ふっと考え付いた。『若し尼港在留邦人が悉く殺されたとするとこの椿事を故国へ報告する者は誰だ?』私はその使命を自分に与えられたような気がした。この時午後四時頃だったろうと記憶する。
大正九年六月二十三日 神戸新聞 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
井上氏は何とか生きて帰国することを決心し、敵に発見される怖れの少ない山中を分けてハルピンに逃げた。途中で一人のロシア人に組みつかれたが、柔道経験のある井上氏はその腕を組んで背負い投げし、石でその男を殴り倒して夢中で逃げたそうだ。
八日間飲まず食わずで歩き続けて眼も見えなくなったが、イギリスかアメリカの老人に一斤のパンを与えられ、さらに六日歩いて土人の部落に入り指輪を馬に変えたりして、なんとかハルピンに到着したのは、事件があってから三十六日目のことであったという。
ハルピンの領事館に辿りついて事情を説明したのち、極度の疲労から病に陥り医師の手当てを受け、漸く体調が回復した後ようやくわが国の土を踏んだのが六月二十日と述べているので、その三日後にこの記事が掲載されたことになる。
事件を目撃した海軍士官の手記
また、同年四月二十日付の大阪毎日新聞にこの事件を目撃し、非常な辛苦の末ウラジオストックに脱出した日本の海軍士官の手記が掲載されていて、中村粲氏の『大東亜戦争への道』に引用されているので紹介したい。
彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、徹底的画策の下に実行されたものとす。すなわち左のごとし。
第一段行動として、露国資産階級の根本的壊滅に着手し、所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然と略奪したる後、老幼男女問わず家人ことごとくを家屋内に押しこめ、外部より各出口を厳重に閉塞し、これに放火し、容赦なく火中に鏖殺し尽くしたり。
第二段の行動として、親日的知識階級に属する官公吏と私人とを問わず、容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の極を尽くし、第三段行動として獰猛なる彼らの毒牙は着々我が同胞日本人に及びたるなり。
ここにこれが実例を指摘せんとするに当り、惨虐なる暴戻ほとんど言うに忍びざるものあり、敢えてこれを書く所以のもの、すなわち犠牲者の尊き亡霊が全世界上、人道正義のため公言するものなり。深くこれを諒せよ。公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱かしめて獣欲を満し、なほ飽く処を知らず指を切り、腕を放ち、足を絶ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど言外の屈辱を与え、残酷なる弄り殺しをなせり。
またはなはだしきに至っては馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌ひなく両足を彼この馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞭を与えるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最後を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼してこれに和するに至っては、野獣にもあるまじき凶悪の蛮行にして言語に絶す。世界人類の公敵として天下誰か、これを許すものぞ、いはんや建国以来の民族血族においてをや。
帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、深く決する所あり。死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼相携へ相扶け、やうやう身を以て領事館に避難し、その後市街における同胞日本人に属する全財産の掠奪はもちろん、放火、破壊その他暴状至らざるなし。しかりといへども軍人云わず領事館民と云わず飽くまで彼等と衝突を避くる事に注意し、切歯扼腕、堪忍自重す。しかるに彼等過激派はますます増長し、ついに領事館に向かって砲撃を加え、我が領事館は砲火のため火災を起こすに至り、もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。
これまでなりと自覚するや、居留民男女を問わず一斉に蹶起して、自衛上敵対行動をとるに決し、男子と云う男子は総員武器を把って護衛軍隊と協心戮力、頑強に防戦し、また婦人も危険を厭わず、敵の毒手に斃れんよりは潔く軍人の死出の途づれ申さんと、一同双手をあげて決死賛同し、にはかに活動を開始す。
しかし、全員いかに努力奮戦するも衆寡敵すべくもあらず、刻一刻味方の減少するのみ、ついには繊弱なる同胞婦人に至るまで、戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込めるものぞ、銃はいかに射つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ。かくてもはや人尽き、弾丸尽き、力尽き、人力のいかにすべきやうもなくなお生存の健気なる婦人または身働きの出来る戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱を受けるものかと、共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最期を遂げたり
中村粲『大東亜戦争への道』展転社 p.168
こんな事件があったことが信じられない方は、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの『新聞記事文庫』の簡易検索を用いて「尼港事件」をキーワードで検索すれば五百七十七件もの記事がヒットする。そのうちのいくつかの記事を読めば、この事件がわが国にいかに大きな衝撃を与えたかが誰でもわかるだろう。
Wikipediaによると、この尼港事件で殺されたのは日本人だけではなく、ニコラエフスクの総人口のおよそ半分に及ぶ六千名を超える市民が虐殺され、日本人犠牲者総数は判明しているだけで七百三十一名だという。
実は、この事件のように多くの日本人が虐殺された事件は他にもあるのだが、残念なことに戦後になってこのような史実がマスコミなどで詳しく伝えられることは皆無と言って良い。
戦前の日本人なら誰でも知っていたような重大事件が、なぜ戦後の日本人には伝えられないのかと誰でも不思議に思うところなのだが、その理由は、もしわが国の教科書に「尼港事件」や「通州事件」のような史実が記されていたらどうなっていたかを考えるとある程度察しが付く。
もし、コミンテルンやその指示で動いていた共産勢力の悪事の数々を知れば、ほとんどの日本人が、今日マスコミや教育機関から垂れ流されている歴史観に違和感を覚えることになることは確実だ。
このブログで何度も書いているように、『戦勝国にとって都合の良い歴史』は、わが国だけが悪者でなければストーリーが成り立たないし、教科書やマスコミが語る歴史叙述は、そのような歴史観で国民を洗脳するために編集されているといっても過言ではない。そのために、日本人が被害者となる史実は封印され、加害者となる話は真実でもないことを誇大に描かれるのだ。
戦後GHQは日本人に自虐史観を植え付けることに成功したことは確かだが、そのような歴史観に矛盾する史実をいくつも日本人が知ることになると、史実に基づかない歴史叙述は急激に支持を失っていくことにならざるを得ないだろう。
つい最近までは御用学者やマスコミなどが、『戦勝国、特に共産国にとって都合の悪い真実』を伝えない権利を堂々と行使していたために多くの国民が騙されてきたのだが、ネットで真実が一気に拡散される今の社会ではこれまでのようにはいかないことは、昨今のマスコミの凋落ぶりを見れば明らかである。
国民が自虐史観の洗脳から解放され、中韓が声高に主張する歴史が嘘ばかりであることが広く認識されて、歴史が全面的に書き替えられる日が来ることを祈りたい。
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