征韓論から士族の反乱

征韓論から士族の反乱

石川県の不平士族らによる大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)

石川県の士族たちの明治政府に対する不満は大きく、島田一良らは西南戦争の際に西郷等に呼応して現政権を倒そうと考えたが、メンバーの説得に失敗し挙兵のタイミングを失してしまった。そこで彼等は要人の暗殺に方針を変更し、明治11年5月に大久保利通の暗殺に成功している。彼らの斬奸状には「有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し」とあるが、事件の二か月後に三新法が公布され、府県会の選挙が行われることとなった。
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赤坂喰違の変で岩倉具視はいかにして難を逃れたか

明治六年の政変で士族たちが絶大な信頼を置いていた西郷らが下野したことで、政府に対する不平不満は烈しいものとなり、各地で士族の不満が爆発しそうな不穏な情勢となっていた。翌年の一月に岩倉具視を乗せた馬車が赤坂喰違坂で九名の高知県士族に襲われたのだが、いかにして難を逃れたか。
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西南戦争がはじまると高知県でも政府転覆に動く計画が動き出した

西南戦争が始まると高知県でも政府転覆に起ち上ろうとする動きがあった。元高知県令の林有造は、多くの兵士が西南戦争に集められてわずかの留守番兵が残っている大阪鎮台を乗っ取ろうと考え、帰郷して多くの兵士を集め、大江卓らは木戸孝允の暗殺を計画した。
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西郷隆盛は何のために起ち上がったのか~~西南戦争2

西郷軍は2月15日に鹿児島を発って最初に熊本城を目指したが、鎮台兵は西郷軍が想定していた以上に強く、最大の激戦地となった田原坂で西郷軍は敗色濃厚となる。西郷は官軍の包囲から脱出するため可愛岳突破し、鹿児島に向かった。しかし鹿児島到着後総勢7万の官軍の兵士が372人の西郷軍を取り囲み、西郷は最後の決戦を挑んでいる。
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西南戦争が起こる前の鹿児島県は如何なる状況であったのか~~西南戦争1

明治六年政変で西郷隆盛が下野した以降の鹿児島は、一種の独立国のようになった。西郷は私学校を創設し、県令の大山綱吉は西郷が戻ってからは新政府に租税を納めていなかった。大久保利通は、薩摩を政府の統制下に据えるためな役人の異動を行おうとし、スパイを鹿児島に送り込んだのだが、激昂した私学校党の青年たちは火薬庫を襲撃し武器を奪い取った。西郷は政府と闘う肚を固めた。
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大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

明治4年に宮古島の船が台湾に漂着して、船員の衣類が略奪され54名が虐殺される事件があった。その後も同様の事件が続き、台湾を膺懲せよとの世論が高まって行った。大久保利通は明治六年に征韓論に反対し、西郷隆盛らが下野する原因を作った人物だが、その4か月後に、木戸孝允の反対を押し切って征台論を主張し、台湾出兵を実行した。
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前原一誠と萩の乱

福岡の秋月の乱の翌日に山口で前原一誠らが起ちあがった。前原は維新後参議を務めた人物だが、「国民皆兵」の徴兵制路線や奇兵隊の処分を主張した木戸孝允と意見が対立し、明治三年九月に官を辞して萩に帰郷していた。前原は明治九年十月に、熊本で神風連、福岡で秋月の乱が起きた情報が入ると、二十七日に萩の不平士族たちを明倫館の講堂に招集し決起することを決定した。
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神風連の乱の三日後に起きた秋月の乱

熊本の神風連が蹶起すると聞き、福岡の秋月も挙兵を決めた。秋月で集まったのは百五十人程度であったが、挙兵に加わる約束をしていた旧黒田藩に裏切られて何とか危地を脱したものの、食糧も乏しくなり、多くの者が脱落していった。今村百太郎がわずか十七名で最後の決戦を試みた。
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廃刀令が出た半年後に起きた熊本神風連の乱

明治維新後士族を取り巻く環境が激変し収入も激減していたのだが、明治九年の廃刀令で不平士族の不満が爆発した。熊本では神風連の党員約170名が新政府施政の過ちを正そうと起ちあがり、熊本鎮台司令官宅、熊本県令宅、熊本鎮台などを襲撃した。翌日鎮圧されたが、この事件に呼応して、秋月の乱、萩の乱が起きている。
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江藤新平と佐賀の乱~~戦争煽動責任は政府にあるのではないか

明治六年の政変の後、政府に対する不満が各地で爆発し、七年一月には岩倉具視が襲われる事件が起きた。岩倉は無事であったが、公務を休んで療養中に佐賀の乱が起きている。佐賀では征韓論中止に士族たちが激昂していた。江藤は佐賀の不穏な空気を鎮めようと急いで帰郷したのだが、こともあろうに政府は内乱が起きてもいない佐賀に軍隊を送りこみ、江藤らは政府軍との戦いを余儀なくされる。
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征韓論が生まれた背景と明治六年の政変

江戸時代に於ける李氏朝鮮との交渉は対馬国守の宗氏が窓口となり、釜山浦草梁に倭館が置かれて貿易などが行われていたのだが、明治維新後は新政府を交渉の窓口とすべく何度か使節を送ったのだが、当時の同国は大院君による極端な排外主義的政策がとられていて、わが国の使節は侮辱され、国書も斥けられる始末であった。わが国では征韓論が起こり、西郷隆盛は自らが丸腰で交渉に行くことを主張した。