明治初年の外国人殺傷事件

明治初年の外国人殺傷事件

知恩院からイギリス公使パークス襲撃事件の現場を訪ねて

慶応四年二月三十日に英公使パークス襲撃事件が起きたが、一行は知恩院を出発して新橋通りを直進し、縄手通りを右折するところで二人の凶漢に襲われた。実際に知恩院から襲撃地点まで歩き、犯人の墓を訪ねてみた。 犯人の一人はその場で首を斬られ、もう一人の三枝蓊は武士の身分を剥奪された上で斬首されたが、二人は霊山墓地に「神霊」と彫られた墓に眠っている。
明治初年の外国人殺傷事件

相次いだ外国人殺傷事件と五箇条の御誓文

五箇条の御誓文は大政奉還から五か月近くも経過してから発布されている。当時は新政府周辺に外国との交際を拒絶する者が少なくなく、「開国和親」という方針が決定してもそれに抵抗する動きが強かった。しかし、その後も外国人襲撃事件が相次ぎ新政府の危機を経験したタイミングで木戸孝允が動き、由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されている。
明治初年の外国人殺傷事件

天皇の謁見を賜う途上で起きたイギリス公使・パークス暗殺未遂事件

堺事件が解決した後、慶応四年二月三十日に天皇が各国公使を謁見することが決定し、英仏蘭の公使が御所に向かったが、英公使のパークスが皇居に向かう途中で難に遭った。パークスは中井弘蔵、後藤象二郎の奮闘で無事であったが、11名が負傷した。仏公使のロッシュは宴席でその情報を聞き、直ちにパークスを見舞いに行き、共に徳川を支援しようと声をかけたがパークスは断った。
明治初年の外国人殺傷事件

神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件

神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵とフランス人とのトラブルが発生し、11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。
明治初年の外国人殺傷事件

鳥羽伏見の戦いの数日後に神戸で起きた備前藩兵と外国軍との間の銃撃戦~~神戸事件

鳥羽伏見の戦いが終わった直後に、備前藩兵が今の三宮神社近辺で偶々この隊列を横切ろうとした外国人とトラブルが発生し、拳銃を構えた外国人に発砲したことから、外国軍も交えての銃撃戦が始まった。死者はなかったが、外国人は新政府に対し、責任者の厳罰を要求した。新政府は「開国和親」に舵を切り、備前藩に責任者の切腹を要求。瀧善三郎は全てを引受け、外国人の目の前で割腹し、この事件が解決した。
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