徳川慶喜

キリスト教問題

幕末に大量の隠れキリシタンが長崎で出現した経緯と幕府の対応

江戸幕府は安政五年に五か国と修好通商条約を締結し、神奈川など五港の開港と居留地内における外国人の信仰の自由を認めて教会の建設が始まった。慶応元年に完成した長崎の天主堂に隠れキリシタンが訪ね、それ以来2年間にわたり宣教師との極秘の交流が続いたが、慶応三年に発覚し、信徒が大量に捕縛されたことから外交問題となる。
戊辰戦争

慶喜がひたすら恭順を示したにもかかわらず江戸城総攻撃に向かう東征軍

徳川慶喜は慶応四年一月六日に大坂城を脱出し十二日に江戸城に入ったが、ここでも家臣の大半が主戦論を主張し、勘定奉行の小栗忠順は、海軍力と伝習隊で勝利する作戦まで提案し、ロッシュ仏公使からは武力支援の申し出があったが、慶喜には戦う選択肢はなく、徹底して恭順の姿勢を示そうとした。東征軍が江戸に向かう途中で西郷の指示で木梨精一郎がパークス英公使に向かうが、パークスは激怒した。
戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍が敗れた理由

大坂城内の兵士らが叫ぶ「討薩」の声が一段と大きくなり、慶応四年一月元旦に慶喜は討薩の表を携えて上京することを命じている。二日に大坂城を出発したが、朝廷からも上洛の催促があったので、戦うことは想定していなかった。しかし途中で薩摩軍が道を阻み、夕刻にいきなり大砲を発射したのである。兵の数では旧幕府軍が優ったが、最新兵器を大量に持つ薩長相手に総崩れとなる。
王政復古の大号令

王政復古の大号令が発せられた直後の情勢

王政復古の大号令の後に開かれた小御所会議で慶喜の辞官納地が決定した情報が瞬く間に広がり、慶喜のいる二条城に旗本や諸藩の武士が集まった。城内は殺気立ち、武力衝突の危険を避けるために慶喜は大坂城に退いた。その後岩倉は、慶喜の官位問題に妥協的な姿勢を示したが、西郷・大久保はそれを許さなかった。江戸で暴行盗難事件を仕掛けて、薩摩藩邸が焼き打ちにされたことから事態が動き出す。
王政復古の大号令

大政奉還から王政復古の大号令までの公議政体派と討幕派の動き

英仏公使は慶喜が大政奉還したことを評価し、その後も慶喜が主導権と取ると予想したが、朝廷が諸大名を招集して衆議公論により王政復古の策を定めようとしたが、大名が集まらない。一方薩摩藩・長州藩には「討幕の密勅」が渡されており、薩摩、長州、芸州の三藩が政変の為の出兵同盟を締結し、兵を送り込んでいる。「ええじゃないか」騒動と龍馬の暗殺はこの頃に起きている。
最後の将軍・慶喜の時代

徳川慶喜は大政奉還後も主導権を握ることができると考えていた

土佐藩は将軍慶喜に大政奉還を建白することを決定し、後藤象二郎が京都に向かった。徳川慶喜は以前から政権を奉還をする考えがあり、土佐藩の建白を機にそれを決断して大政奉還上表文を十月十四日に朝廷に提出した。慶喜は大政奉還後も大名の大半は幕府支持であり、その後も主導権がとれると考えてその決断をしたのが、討幕派は討幕の密勅を出し、武力を背景にして政権を奪い取ろうとした。
最後の将軍・慶喜の時代

倒幕派とイギリス、及び大政奉還の建白書を提出した土佐藩の動き

薩摩藩の倒幕派は英国パークス公使が慶喜を高く評価していることに危機感を覚えていて、西郷隆盛がサトウを挑発して英仏を離間させることに成功した。しかしながら、倒幕派には幕府を倒すだけの軍事力が不足しており、諸藩の大半が「佐幕勤王」であった。一方土佐藩では後藤象二郎が幕府が大政奉還を行う考えを述べるようになり、それが土佐藩の藩論となり将軍に建白書を提出することとなった。
最後の将軍・慶喜の時代

フランスの指導により軍隊改造に取り組んだ幕府が倒幕派に勝てなかった事情

慶応二年六月より始まった第二次長州征伐の前に、長州藩は英国の武器商人グラバーより大量の最新鋭武器を入手している。この銃の銃身にはライフリングが施され、椎の実型の銃弾を用いるもので、射程距離は従来の銃の数倍あり命中精度も高かった。幕府軍は人数では長州軍を圧倒したが連戦連敗し、将軍慶喜はフランスの指導による軍制改革を決意したが、倒幕の機運の高まりを抑えきれなかった。
最後の将軍・慶喜の時代

英国公使が幕府支持に傾いた理由と倒幕を急ごうとした在京の薩摩藩士

慶応三年一月に孝明天皇が崩御され、徳川慶喜は大坂城に四カ国の代表を引見し、その席で兵庫開港を含む条約義務の遵守を約束した。慶喜は各国公使から高く評価されたが、兵庫開港については薩摩藩の事前工作があり大揉めにもめ、なんとか勅許を得た慶喜は、兵庫開港に向け動き出した。一方在京の薩摩藩士は、兵庫開港までの倒幕を決意した。
幕末と英仏の動き

薩長を支援したイギリスと、幕府に接近し助言し続けたフランス

フランス公使のロッシュは就任早々幕府と親交を深め、幕府からの要請を受けて製鉄所・造船所建築の為の技師や、軍事顧問団を派遣し、パリ万博に参加を推薦したり、イギリスの動きをいち早く幕府に伝えその対応策まで伝授している。徳川慶喜が兵庫港開港を決断したのもロッシュの献策による。イギリス外交官のサトウは、兵庫開港が実現すると革命のチャンスを失うと西郷にけしかけている。