奈良県

奈良

月ケ瀬梅林から柳生の里と近隣の寺社を巡る旅

月ケ瀬梅林  そろそろ梅の花が見ごろを迎えたので、二月二十八日に月ケ瀬梅林から柳生の里を散策し、その後柳生街道沿いの寺社を訪ねてきた。 月ケ瀬梅林入り口  月ケ瀬梅林は奈良県の北東の端にあり、京都府や三重県の県境に近い場所なのだが、平成十七...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

奈良県が消滅し再設置されるまでの経緯

古い貴重な文化財が数多く残されている奈良県は、明治9年に堺県に編入されて消滅し、さらに14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。その後旧奈良県住民にとって重要な予算が削られることが相次いで、奈良県再設置運動が動き出す。しかし内務省で却下され、その後太政官、元老院に提出した請願書も認められず、明治20年の4度目の請願書でようやく再設置が決定した。
廃仏毀釈・神仏分離

一度神社にされたのち寺院に戻った吉野金峯山寺

明治元年六月に吉野全山に対し、蔵王権現を神号とし僧侶は復飾神勤することが命じられた。僧侶たちは抵抗したが、四年には所領地が取り上げられ、翌年には修験道廃止令が出され、七年には金峯神社を本社と定め山上と山下の蔵王堂をそれぞれ奥ノ宮、口ノ宮とし、僧侶は復飾し、仏像仏具は取り払うことが命じられた。
廃仏毀釈・神仏分離

明治二年に談山神社になった多武峰妙楽寺

奈良県桜井市にある談山神社は、かつて寺領三千石、四十二坊の堂宇が存在する寺院で妙楽寺と称したが、明治元年に神仏分離令が出て、藤原鎌足を神格化していたことから、寺院になるか神社となるかで一山大衆は二派に分かれ、全員復飾して大織冠の神前に奉仕することとなり、不要となった仏像などを二束三文で売却した。
廃仏毀釈・神仏分離

法隆寺における廃仏毀釈・神仏分離の危機

法隆寺は神仏分離令には大きなダメージはなかったが、もともと伽藍は相当傷んでいたうえに、明治四年と七年に上地令が出て、寺領を失いさらに寺録をも失い、僧侶の日々の生活にも困る状態に陥った。明治五年に千早定朝は、寺の復興のため諸策を講じ、明治十一年に宝物類を皇室に献納し下賜された一円で法隆寺を立て直した。
廃仏毀釈・神仏分離

東大寺の廃仏毀釈・神仏分離の危機と倒壊の危険があった大仏殿

明治初期の神仏分離で東大寺は鎮守八幡宮と分離させられ、廃仏毀釈で末寺の眉間寺を撤廃されるなどした。当時大仏殿は相当傷んでおり倒壊する危険が高かったが、新政府は修理再建などを名目とする集金行為を禁止し、さらに上地令により東大寺の収入源を断ち、東大寺は堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態に陥った。
廃仏毀釈・神仏分離

廃仏毀釈で寺宝を奪い取り、売却して私腹を肥やした県令がいた

廃藩置県により旧藩主は知藩事を解任されて東京移住を強制され、県の行政は新政府が送り込んだ県令に委ねられて各地で開明的な施策が行われた。多くの文化財が破壊されたり売却されたりしたが、県令の中には文化財を私物化する者もいた。堺の県令であった税所篤は奈良の古寺等の文化財を売却して蓄財したと言われている。
廃仏毀釈・神仏分離

「西の日光」と呼ばれていた奈良の大寺が明治初期に破壊されたこと~~内山永久寺の廃仏毀釈

内山永久寺は「西の日光」と呼ばれていた大寺院であったが、1868年に神仏分離令が出されると、この寺の僧侶は全員が還俗し寺は無人となった。堂塔坊舎の打ち毀しが始められ、付近住民の建築材や燃料となり、仏像・仏具・経典等の多くが焼かれ、石垣、石段の石材も運び出されて、数年のうちに総てが破壊され境内は耕地に変貌した。
廃仏毀釈・神仏分離

失われた興福寺の文化財と残された文化財~~興福寺2

明治の廃仏毀釈で興福寺の書庫にあった万巻の書籍は運び出されて焼き捨てられた。後に興福寺の再興が嘆願され、明治14年に管理権が返還されたが、再興のための資金捻出のため貴重な仏像が売却されて流出した。現在国宝の無著菩薩立像も一時外国人の手に渡ったのだが、その後古社寺保存の機運が盛り上がっていくこととなる。
廃仏毀釈・神仏分離

興福寺は廃寺となり、五重塔は売りに出された~~興福寺1

『神仏分離史料第二巻』に仏教史学者・大屋徳城の「奈良における神仏分離」という論考が収められていて、そこには「奈良における神仏分離・廃仏毀釈は興福寺が最も激烈であった」と記されている。興福寺は政治政府の神仏分離令が出た後、全員が復飾して春日大社の神官となることを選択し、無人となった興福寺はまたたく間に荒れ果てた。