柴五郎

義和団の乱から日露戦争

義和団の乱鎮圧に貢献し軍紀の厳正さにおいても世界から評価された日本軍

明治33年6月に北京の各国公使館区域が20万人を超えるという義和団に包囲され、さらに清軍が加わって列国に対して宣戦布告するに至った。公使館区域に残る約4千人を救出するため、各国が増援軍を派遣したが、約2万人の総兵力の半数が日本兵であった。8月14日に各国軍は北京に入城し籠城者を救出したが、日本軍の活躍とその軍紀の厳正さを世界が称賛した。他国軍は掠奪、暴行などの悪事が記録されている。
義和団の乱から日露戦争

義和団の暴徒に囲まれた北京の各国公使館区域全滅の危機

日清戦争に大敗した清国に対し、列強諸国が利権獲得に動き出した。自国の中を外国人勢力が跋扈するようになると、1899年に山東省に起こった義和団は「扶清滅洋」を唱えて排外活動を始め、それが瞬く間に清国全土に拡がっていった。攘夷主義者の西太后は、義和団に北京の公使館区域を襲わせたため、区域に住む約四千人が孤立無援の状態になってしまった。
徴兵令と士族の没落

静岡に移住した旧幕臣や、下北半島に移住した旧会津藩士たちの悲惨な暮らし

徳川の家臣たちの半数以上が駿府移住を希望したが、その多くは無禄移住となり、彼らの生活は非常に厳しいものとなった。旧幕臣の父らともに移住した塚原渋柿園の記録では非番の時に海や山で食糧を探す生活で、中には家族全員が餓死した家もあったという。 戊辰戦争で敗れた会津藩は下北半島の斗南藩に移封となり、極寒の入植先での生活は悲惨なものがあった。