戊辰戦争

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英公使パークスの激怒と江戸城無血開城との関係

慶応四年三月十五日に江戸城を総攻撃することが決まり、木梨精一郎(長州藩士)が東海道先鋒参謀・西郷隆盛の命を受けて三月十四日に、横浜の英国公使館を訪ねている。木梨は、明日以降の傷病者の手当てをパークス公使に要請したのだが、パークスの怒りが爆発した。この怒りにより、江戸城総攻撃の中止とは無関係ではない。
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慶喜がひたすら恭順を示したにもかかわらず江戸城総攻撃に向かう東征軍

徳川慶喜は慶応四年一月六日に大坂城を脱出し十二日に江戸城に入ったが、ここでも家臣の大半が主戦論を主張し、勘定奉行の小栗忠順は、海軍力と伝習隊で勝利する作戦まで提案し、ロッシュ仏公使からは武力支援の申し出があったが、慶喜には戦う選択肢はなく、徹底して恭順の姿勢を示そうとした。東征軍が江戸に向かう途中で西郷の指示で木梨精一郎がパークス英公使に向かうが、パークスは激怒した。
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鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍が敗れた理由

大坂城内の兵士らが叫ぶ「討薩」の声が一段と大きくなり、慶応四年一月元旦に慶喜は討薩の表を携えて上京することを命じている。二日に大坂城を出発したが、朝廷からも上洛の催促があったので、戦うことは想定していなかった。しかし途中で薩摩軍が道を阻み、夕刻にいきなり大砲を発射したのである。兵の数では旧幕府軍が優ったが、最新兵器を大量に持つ薩長相手に総崩れとなる。