歴史ノート

英領インド

GHQが焚書処分したイギリスのインド統治に関する本には何が書かれていたのか

GHQが焚書処分にした、ラス・ビハリ・ボースの『インドの叫び』には、戦後の日本人に知らされなかった、イギリスのインド統治の実態が記されている。かっては読み書きできる国民が多かったが9割以上が文盲となり、重税が課されて毎年のように飢饉が起きた。1919年4月には無辜のインド人数百名が虐殺された。
GHQ占領下

GHQの定めた検閲指針がわが国のマスコミなどで今も実質的に守られている理由

GHQの検閲指針が定められた1946年11月25日付の公文書に、GHQが「削除または掲載発行禁止」とした30項目が掲げられている。戦勝国に対する批判だけでなく、中国、朝鮮人に対する批判までもがその対象と明記されている。GHQは、撤退した後も日本人の歴史観が連合国にとって望ましいものでありつづけるためにこの項目を付加し、さらに公職追放により、マスコミや教育機関などから保守の有力者を排除した。
GHQ占領下

GHQは日本人にどのような歴史を封印しようとしたのか

GHQは昭和20年9月10日に「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)を発令し、その日から新聞や雑誌などの検閲を開始し、すぐに同盟通信社と朝日新聞が連合国を批判したとして二日間の業務停止命令を受けている。さらにGHQは「新聞遵則」などを定め、雑誌や書籍、映画、放送などの検閲も開始し、没収された書籍を見ると、中世、近世、近現代の歴史研究書までがリストアップされている。
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織田信長

信長が最後にイエズス会と敵対する行動を取ったのはなぜか

本能寺の変の前に宣教師たちを激怒させた信長の行為  前回の記事で、イエズス会の宣教師たちが信長を利用して寺社破壊を推進したことを書いた。信長は、布教を許したもののキリスト教に対する信仰はなく、後にはイエズス会にとって厄介な存在になっ...
キリスト教布教とその影響

宣教師が信長を利用して寺社破壊を推進したのではなかったか

イエズス会宣教師たちの書翰を読むと、神が「信長を用いて」寺社を破壊させたとの記載があり、宣教師たちは信長を利用して寺社破壊を推進した可能性を感じる。比叡山の焼討ちの前から信長はキリスト教の庇護者となっており、信長は南蛮渡来の品々に興味を抱いていただけでなく、自身に敵対する仏教勢力と戦うために、仏教勢力の敵であるキリシタンを利用しようとしたが、宣教師たちが望んでいた寺社破壊を一気に進めることとなった。
キリスト教布教とその影響

高山右近は北摂の寺社破壊を推進したのか

高山右近が高槻城主であった時代に破壊されたという伝承のある寺社が北摂地区には多数存在する。ルイス・フロイスの記録にも、右近が領内の寺社を破壊したことが書かれている。当時、イエズス会で近畿地区の布教にあたっていたオルガンティノは、寺社の破壊を「善き事業」と書いている。宣教師たちが一般の信者を教唆して寺社破壊の糸を引いていたのではないだろうか。
キリスト教布教とその影響

大友宗麟による寺社破壊と、島津との戦いののち海外に売られていった豊後の人々

大友宗麟はキリスト教に入信する前から日向国の寺社や仏像を破壊した。その後正式にキリスト教徒となった後も彦山焼打ちなどをおこなったが、家臣たちの多くが離反していくなかで島津軍から攻められ、滅亡寸前の所を豊臣軍の支援で乗り切り、豊後領は安堵された。しかし長年の戦乱で豊後の人々は疲弊し、海外に奴隷として売られた人が多かった。。
キリスト教布教とその影響

最初のキリシタン大名となった大村純忠は洗礼を受けた時に司祭と何を約束したか

キリスト教が広まっていった多くの地域で寺社や仏像の破壊が行われている。長崎ではキリスト教に転宗しないものは領外に退去を命ぜられ、神社仏閣はすべて焼き払われた。領主の大村純忠は永禄六年に洗礼を受けキリシタン大名となったが、宣教師から社寺や仏像の破壊を約束していたのである。
キリスト教布教とその影響

仏像を「悪魔」と呼んだフランシスコ・ザビエル

キリスト教は一神教であり、唯一絶対神以外を崇めてはならず、偶像崇拝をタブーとしている。ところが、ザビエルが布教に来た日本は偶像崇拝の国であり、ザビエルの書翰には「この国は、偶像崇拝と、キリスト教の敵の土地」で仏像を「悪魔」と記し、それに勝利しなければならないと書いている。
キリスト教布教とその影響

フランシスコ・ザビエルに、日本行きを決意させた日本人

1549年にザビエルが鹿児島に上陸して、日本にキリスト教を伝えたことは教科書にも出ているが、布教活動を始めるにはまず日本語をある程度理解できることと、日本に関する情報を事前にできるだけ収集しておくことが必要となる。ザビエルの書翰には、マラッカでヤジロウという日本人と逢い、彼の言葉を聞いて日本に行く決心をしたことが記されている。
「鎖国」前後のアジア諸国

台湾からオランダを追い出した、日本人を母に持つ台湾の英雄

寛永十二年に日本人の海外渡航と国外にいる者の帰国が禁じられ、そのため朱印船が台湾に向かうことがなくなり、オランダが台湾を植民地にした。日本人を母に持つ鄭成功は、明を滅ぼした清と戦うため、台湾を拠点にしようとしてオランダ勢力を追い出してしまう。もし鄭氏政権が起こらなければ、おそらく台湾は二次大戦までオランダの植民地であり続けたことであろう。
「鎖国」前後のアジア諸国

台湾を占領したオランダと戦った日本商人・浜田弥兵衛

オランダが侵略する以前の台湾の記録  台湾に関する古い記録を探していると、柴田賢一 著『日本民族海外発展史』の記述が目に止まった。日本人たちは戦国時代から、台湾に勢力を伸ばしていたのである。  支那人はこれを領土と称してはいた...
朱印船貿易と東南アジアの日本人

シャムで活躍した山田長政とアユタヤの日本人町~~朱印船貿易と東南アジアの日本人4

現在のタイ国のアユタヤにも日本人町があった。16世紀の半ばからタイ国との交易が始まりその後日本人が住み着くようになり、寛永の末期には商人や、武勇を買われて王室に仕える者など8千人余の日本人が居住していた。山田長政はソンタム国王に認められ重用された記録があるが、その後江戸幕府が日本人の海外渡航と海外日本人の帰国を禁止し、アユタヤの日本人町は衰頽の一途をたどることとなる。
朱印船貿易と東南アジアの日本人

フィリピンの日本人町はどういう経緯でつくられたのか~~朱印船貿易と東南アジアの日本人3

1571年にスペインはフィリピンを征服し植民地としたが、その時点ですでにマニラには日本人・中国人が貿易の為に居住していた。その後スペインと我が国との交易が始まりマニラの日本人が増加したが、豊臣秀吉がフィリピン総督に降伏勧告状を出したことから、総督は日本人が敵対することを怖れて日本人を一定の場所に居住させた。そうして日本人町が出来た。
朱印船貿易と東南アジアの日本人

秀吉が朱印船貿易を開始する前後のフィリピン~~朱印船貿易と東南アジアの日本人2

日本人は、スペインがフィリピンを植民地とする以前からルソン島に居住しており、日本商人による交易が行われていた。しかしスペインがフィリピンを侵略したため、日本商人は商圏が奪われることとなり、スペイン人と対立することとなる。豊臣秀吉は、フィリピン総督であるスペイン人のダスマリナスに三度にわたり降伏勧告状を送っている。その内容にスペイン人は恐懼している。
朱印船貿易と東南アジアの日本人

秀吉が南蛮貿易を奨励して以降、外国との貿易はどう変わったか~~朱印船貿易と東南アジアの日本人1

秀吉は海外貿易を行う商人に朱印状を与えて貿易の統制をしたが、江戸時代になると、日本との交易が禁じられていた明の商人にも朱印状が発行されている。南蛮貿易も活発化して、東南アジア各地に日本人町が発達し多くの日本人が移り住んだが、ポルトガル船により多くの日本人奴隷も送られた。後に江戸幕府は武器・奴隷・傭兵の禁輸令を出している。
倭寇

後期倭寇の実態はいかなるものであったのか~~倭寇4

明は海禁政策をとり「私貿易」を厳禁した。だが、当時すでに日本に送られる支那の貿易品には生活必需品がかなり含まれており、結果としてわが国の「私貿易」は盛んになったのだが、明の取締りが厳しくなると中国沿海地方の悪徳商人たちが利権を手中に収め、日本商人の利益が損なわれ、王直らが日本商人に食い込んでいった。王直は長崎の五島や平戸に本拠を置いてアジアの商圏を拡大したが、後に明国と戦うこととなる。
倭寇

「前期倭寇」の活動が鎮まった経緯と「後期倭寇」が発生するまで~~倭寇3

南北朝の統一がなったのち足利義満は明国に対し強硬な態度で臨むことを改め、まるで明国に媚びを売る姿勢て外交に臨み、明との勘合貿易が開始されて次第に倭寇は減少していく。その後幕府の財政難から大内氏や細川氏に貿易船を出すことが許されるようになると、その利権を巡り大内・細川両氏の争いが熾烈化し、公貿易が中止となる。その後私貿易・密貿易が行われ、後期倭寇が急増する。
倭寇

「前期倭寇」を考える ~~ 倭寇2

前期倭寇が頻発していた時代の大部分はわが国の南北朝時代にあたっている。そして急激に件数が増加したのは、足利直義と高師直が対立し、政争に敗れた直義が南朝に帰順した以降のことである。同じ時期に中国では朱元璋が明を起こして元を北に追いやり、朝鮮半島では李成桂がクーデターを起こして李氏朝鮮を成立させた。
倭寇

倭寇はなぜ元寇のあとから頻発するようになったのか~~倭寇1

9世紀から11世紀にかけて、九州沿岸地方には外国の海賊による襲撃・略奪を何度も受けた記録が残されている。特に有名な事件が刀伊の入寇であり、13世紀に元寇があって、多くの住民が虐殺され拉致された。倭寇は元寇の復讐との見方があるが、南朝勢力が倭寇に関わっていたという記録もある。
元寇

弘安の役で元軍を襲った台風の後も続いた死闘とその後の元の日本侵攻計画~~元寇5

弘安の役で台風が襲来したことは事実だが、東路軍の被害は比較的少なく高麗軍は7割以上が帰国している。江南軍の船は多くが沈んだが、多くの将兵は無事でまだ戦える戦力は保持していたのだが、司令官や将校たちは数万の兵卒を見捨てて船に乗って逃げて行った。その後両軍が博多湾と鷹島沖で激しい掃討戦が行われた。
元寇

弘安の役における武士たちの活躍~~元寇4

弘安の役における東征軍は東路軍と江南軍の二軍編成で、総数は14万人を超える大規模なものであった。東路軍が先に合浦を出港し、6月6日に博多湾に現れたが、防塁が築かれていたための博多湾内の上陸はできず、志賀島に一部の船を上陸させたが、日本武士たちは何度も夜襲をかけて東路軍の進撃を阻んだ。東路軍は一旦壱岐に退き江南軍との合流をし、いよいよ大軍が博多湾に向かうこととなる。
元寇

北条時宗は文永の役のあと次の元寇に備えてどう動いたのか~~元寇3

第一回目の日本征伐が失敗し、元のフビライは日本再征を決断し、文永の役の翌年に使者を送り込んだが執権北条時宗は使者の斬首を命じ、次回の元寇に備えて博多湾に防塁を建設し、要衝に兵を駐在させて国の守りを強化した。一方、元は次回の元寇で必ず日本を征伐するため二十一万の大軍を送もうとしていた。
元寇

文永の役で優勢に戦っていた元・高麗連合軍の船団がなぜ博多湾から消えたのか~~元寇2

文永の役で元・高麗連合軍が一夜のうちに博多湾から消えたのは、元や高麗の正史では、兵力が不足し、矢も不足していたことが記されている。彼らの撤退は予定の行動であったのだが、鎌倉幕府や朝廷は有名な寺社に「蒙古退散」の祈祷を依頼していたことから、寺社側は祈祷の効果があったと主張した。敵軍が撤退した後に高波で座礁した船が壱岐近辺に多かった記録も残されている。
元寇

GHQに焚書処分された北条時宗に関する書籍に何が書かれているか~~元寇1

北条時宗に関する書籍がGHQによって焚書処分されている。現状の教科書には北条時宗について,元のフビライの朝貢要求を無視したとだけ書かれているのだが、GHQ焚書処分された本には、北条時宗や元寇について何が書かれているのだろうか。文永の役では対馬や壱岐で多くの島民が略奪され虐殺され奴隷にされていることや、博多に上陸されたのち多くの犠牲者が出たことが詳しく書かれている。
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