歴史ノート

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キリスト教問題

明治六年に政府がキリスト教禁教の高札を撤去した経緯

明治政府は浦上の隠れキリシタン百余名を津和野藩などに移送させたのち、さらに明治二年十月に約三千人を捕えて、金沢以下十余藩に移している。各国公使は流罪の中止を強く主張し、政府内部の考え方も変化していった。明治四年に岩倉使節団が欧米視察に出たが行く先々でキリシタン流罪を非難され、今の考えでは、諸外国との条約交渉などができるはずがない事を認識した。
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キリスト教問題

キリスト教禁止と教徒処分問題で諸外国から激しい抗議を受けた明治新政府

五榜の掲示  前回の「歴史ノート」で、慶応元年(1865年)に長崎の浦上村で大量の隠れキリシタンがフランスの宣教師により発見され、慶応三年(1867年)になって宣教師による教導が行われていたことが発覚し、六月に六十余人の信徒が捕えら...
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キリスト教問題

幕末に大量の隠れキリシタンが長崎で出現した経緯と幕府の対応

江戸幕府は安政五年に五か国と修好通商条約を締結し、神奈川・長崎など五港の開港と居留地内における外国人の信仰の自由を認めたことから、教会の建設が始まった。慶応元年に完成した長崎の天主堂に隠れキリシタンが訪ね、それ以来2年間にわたり宣教師との極秘の交流が続いていたが、慶応三年に発覚し、信徒が大量に捕縛されたことが、外交問題に発展する。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治六年に軍の派遣を要請し、ようやく鎮圧された越前護法大一揆

明治政府は浄土真宗の強い地域では、寺院の統廃合は難しいことを悟り、明治五年に神祇省を廃し教部省を設置し、僧侶を教導職に起用して組織的な国民教化を推進しようとしたが、敦賀県に送り込んだ教部省の役人の発した言葉が僧侶・門徒を刺激し、大規模な一揆が発生している。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治政府の宗教政策に抵抗した浄土真宗の僧侶や門徒たち…大濱騒動のこと

浄土真宗はこれまで他教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶とともに共有し、新政府の宗教政策に抵抗した歴史がある。三河でおきた大浜騒動についてまとめました。
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廃仏毀釈・神仏分離

藩主自らが率先して廃仏毀釈を推進した苗木藩の事情

苗木藩の遠山家はわずか一万石の譜代大名であったが、幕末期は幕府の要請により大阪警備や第二次長州征伐に兵を出し、藩主遠山友禄は若年寄を勤めたりした。しかし鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府の施策を率先して行うことで新政府に対し従順であることを示し、なんとかして生き延びようと考え、平田派の復古神道の考えを藩内に浸透させ、徹底的な廃仏毀釈を行った。
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廃仏毀釈・神仏分離

伊勢神宮神領地域の廃仏毀釈と、長期間の遷宮の中断に終止符を打った慶光院

伊勢神宮の神領地域に多数の寺があった  伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀り、歴史的に皇室・朝廷との結びつきの深い神社であるが、かつてこの神社は仏教との関係が深く、周辺に多くの寺が存在したという。 伊勢神宮 外宮正宮 2...
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廃仏毀釈・神仏分離

明治新政府の役人に社殿焼き払いを命じられた厳島神社

江戸時代までの厳島の歴史  厳島神社は宮城県の松島、京都府の天橋立とともに日本三景の一つでもあり、1996年には世界遺産にも登録されている観光名所である。前回の「歴史ノート」では日本三大弁天のひとつである琵琶湖の竹生島にある宝厳寺の...
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廃仏毀釈・神仏分離

竹生島で強行された神仏分離と宝厳寺に残された本尊の弁財天像

竹生島と弁財天信仰  琵琶湖の北に竹生島という小さな島がある。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きさの島なのだが、周囲は2km、面積は0.14㎢しかないという。その島に西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社があ...
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令のあと徹底的に破壊された鶴岡八幡宮

明治維新までの鶴岡八幡宮は神仏習合で多くの仏堂や大塔が存在し、源治の菩提寺として栄え、当時の境内は外国人のスケッチや写真で知ることができる。しかし、新政府により神仏分離令が出されると、それまで全山を取り仕切っていた十二坊の社僧全員が復飾して神主となり、神奈川県の命令によりすべての仏堂・大塔を取り払い、仏像・仏具を売却或いは焼却した。
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令のあと金毘羅大権現の仏像・仏具が徹底的に破壊された経緯

江戸時代中期以降金毘羅信仰が広まり金毘羅参りが盛んにおこなわれたが、金毘羅とは仏教の守護神であり、金毘羅大権現を祀っていたのは松尾寺という真言宗の寺院であった。明治新政府が神仏分離令を出すと、松尾寺は金毘羅大権現は日本古来の神ではないと上申したが、新政府から圧力がかかり、仏教的な建物や仏像仏具の取払いを約束させられている。
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廃仏毀釈・神仏分離

新政府の仇敵である徳川家の聖地・日光東照宮が残された経緯

日光山の歴史と戊辰戦争  日光山内の社寺は二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。日光東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社だが、二荒山神社と日光山輪王寺は山岳信...
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廃仏毀釈・神仏分離

東本願寺がなぜ北海道開拓にかかわることになったのか

東本願寺は徳川幕府との親密な関係が続いていたのだが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利すると東本願寺の焼き払いを決定した。東本願寺は新政府にどんな協力も行うとの誓約書を提出し、献金などを始めたが、明治二年に北海道開拓を命じられている。三年から工事が開始され、今日「本願寺道路」と呼ばれる4つの道路を開削した。そのことにより東本願寺は北海道での教勢拡大のきっかけをつかんだ。
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廃仏毀釈・神仏分離

北野天満宮の神仏分離と、菅原道真の御神体として祀られてきた仏舎利の行方

菅原道真が左遷された後に903年に大宰府にて没したが、その後、道真の政敵に相次いで不幸が起こり、洪水や大火などの災害が続いたため、道真の怨霊を鎮めるために道真を祀る北野天満宮が造営された。今では神社であるが、明治初期までは神仏混淆で、境内に多くの仏堂が存在した。神仏分離令が出て社僧たちはすぐに復飾を決めたが、すべての仏堂や仏像などを処理しなければならなかった。
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廃仏毀釈・神仏分離

石清水八幡宮の廃仏毀釈と本尊・薬師如来の行方

石清水八幡宮は皇室・朝廷、武士の尊崇を集めていたが、幕末までは全山を僧侶が取り仕切り、神職は使用人のような身分で奉仕していた。しかし神仏混淆禁止の沙汰が下りて、全山の仏教的なものが排除されることが決まり、社僧たちは復飾して護国寺などの施設が破壊された。護国寺の本尊と十二神将像は、淡路島の東山寺に遷された。
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廃仏毀釈・神仏分離

祇園感神院(八坂神社)の神仏分離と祇園祭への影響

日本三大祭りの一つである「祇園祭」は八坂神社のお祭りだが、この神社は明治の初めまでは祇園感神院という名の神仏習合の寺院であり、祇園精舎の守護神とされた牛頭天王を祀っていた。しかし新政府が神仏分離令を出し、神仏習合を認めなかったのだが、その年の祇園祭を円滑に進めるためなのか、祇園社は急遽主祭神を変更し、僧侶の復飾に応じ、仏像仏具の撤去も進めている。
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廃仏毀釈・神仏分離

一度神社にされたのち寺院に戻った吉野金峯山寺

明治元年六月に吉野全山に対し、蔵王権現を神号とし僧侶は復飾神勤めすることが命じられた。僧侶たちは抵抗したが、四年には上地令が出て所領地が取り上げられ、翌年には修験道廃止令が出され、七年には金峯神社を本社と定め山上と山下の蔵王堂をそれぞれ奥ノ宮、口ノ宮とし、僧侶は復飾し、仏像仏具は取り払うことが命じられた。その後参拝者が激減し、金峯山寺は十九年に寺に戻っている。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治二年に談山神社になった多武峰妙楽寺

奈良県桜井市にある談山神社は、かつて寺領三千石、四十二坊の堂宇が存在する寺院で妙楽寺と称したが、明治元年に神仏分離令が出て、藤原鎌足を神格化していたことから、寺院になるか神社となるかで一山大衆は二派に分かれ、全員復飾して大織冠の神前に奉仕することとなり、不要となった仏像などを二束三文で売却した。その後上地令が出て収入源が断たれ、その後苦しい生活を余儀なくされた。
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廃仏毀釈・神仏分離

法隆寺における廃仏毀釈・神仏分離の危機

聖徳太子ゆかりの法隆寺は、神仏分離令には大きなダメージはなかったが、元禄期に大修理がなされてから百五十年を経過して伽藍は相当傷んでいたうえに、明治四年と七年に上地令が出て、寺領を失いさらに寺録をも失い、修理どころか、僧侶の日々の生活にも困る状態に陥った。明治五年に法隆寺の一﨟職となった千早定朝は、寺の復興のため諸策を講じ、明治十一年に法隆寺の宝物類を皇室に献納することで下賜された一円で財政を立て直した。
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廃仏毀釈・神仏分離

東大寺の廃仏毀釈・神仏分離の危機と倒壊の危険があった大仏殿

明治初期の神仏分離で東大寺は鎮守八幡宮と分離させられ、廃仏毀釈で末寺の眉間寺を撤廃されるなどした。当時大仏殿は相当傷んでおり倒壊する危険が高かったのだが、新政府は社寺建造物の修理再建などを名目とする集金行為を禁止し、さらに上地令により知行地を没収し東大寺は大きな収入源が断たれてしまい、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態に陥っていた。
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廃仏毀釈・神仏分離

廃仏毀釈で寺宝を奪い取り、売却して私腹を肥やした県令がいた

廃藩置県により旧藩主は知藩事を解任されて東京移住を強制され、県の行政は新政府が送り込んだ県令に委ねられて全国各地で開明的な施策が行われて、多くの古いものが破壊されたり売却されたりしたのだが、県令の中には権力を用いて文化財を私物化するものもいた。堺の県令であった税所篤は奈良の古寺の文化財や古墳の埋蔵物を奪い取り、売却して蓄財したことが疑われている。
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廃仏毀釈・神仏分離

文明開化と廃仏毀釈

明治四年に政府内で平田派が失脚したが、それ以降に廃仏毀釈が全国に広がった。同年に実施された廃藩置県でそれまで知藩事として藩の行政を担当した旧藩主は失職し、新政府から県令が派遣され、彼らが新政府の意向を受けて開明的な諸政策を実施し、寺の仏像や仏具は無用の長物と見なし、寺を学校にしたり、仏像などを売却して学校の設立資金に充てたりした。
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廃仏毀釈・神仏分離

「西の日光」と呼ばれていた奈良の大寺が明治初期に破壊されたこと~~内山永久寺の廃仏毀釈

内山永久寺は「西の日光」と呼ばれていた大寺院であったが、1868年に神仏分離令が出されると、この寺の僧侶は全員が還俗し、寺は無人となった。堂塔坊舎の打ち毀しが始められ、付近住民の建築材や燃料となり、仏像・仏具・経典・文書の類は多くが焼かれ、石垣、石段の石材も多くは運び出されて、数年のうちにすべてが破壊しつくされ境内は耕地に変貌してしまった。
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廃仏毀釈・神仏分離

失われた興福寺の文化財と残された文化財~~興福寺2

明治の廃仏毀釈で興福寺の書庫にあった万巻の書籍は運び出されて焼き捨てられた。後に興福寺の再興が嘆願され、明治14年に管理権が返還されたが、再興のための資金捻出のため貴重な仏像が売却されて流出した。現在国宝の無著菩薩立像も一時外国人の手に渡ったのだが、その後古社寺保存の機運が盛り上がっていくこととなる。
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廃仏毀釈・神仏分離

興福寺は廃寺となり、五重塔は売りに出された~~興福寺1

『神仏分離史料第二巻』に仏教史学者・大屋徳城の「奈良における神仏分離」という論考が収められていて、そこには「奈良における神仏分離・廃仏毀釈は興福寺が最も激烈であった」と記されている。興福寺は政治政府の神仏分離令が出た後、全員が復飾して春日大社の神官となることを選択し、無人となった興福寺はまたたく間に荒れ果てて行った。
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廃仏毀釈・神仏分離

水戸藩の徳川光圀と徳川斉昭による廃仏毀釈とその目的

水戸藩では徳川光圀および徳川斉昭が藩主であった時代に他藩に先んじて廃仏政策が行われた。光圀は当時乱立していた怪しげな寺院を整理したが、斉昭は藤田東湖らの進言を受け入れ、国防強化のため寺の梵鐘や仏像を鋳潰して大砲を造り、約二百の寺院が処分されている。
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廃仏毀釈・神仏分離

すべての寺院を破壊した鹿児島藩の廃仏毀釈~~鹿児島藩2

鹿児島藩には島津家の菩提寺を初め古い寺が多かったのだが、明治維新の廃仏毀釈で藩内の千六十六の寺すべてを破壊してしまった。慶応元年に藩の若手が、水戸藩に倣って寺院の廃合を実施し、梵鐘・仏具は武器に変え、僧侶は兵士や教員に任用することを提案し、久光が調査を指示。鳥羽伏見の戦いで勝利した後、すべての寺と仏像仏具の処分が決定した。
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廃仏毀釈・神仏分離

鹿児島県・宮崎県の寺に、国宝・重要文化財がほとんどないのはなぜか~~鹿児島藩1

江戸時代の『薩藩名勝志』や『三国名勝図会』には鹿児島県・宮崎県に多くの社寺仏閣が記されているのだが、いずれの県も寺社に文化財らしきものが皆無に近い。その理由は廃仏毀釈にある。薩摩藩には平田派の復古神道が盛んで仏教を排除せよという考えが強かった。島津斉彬が藩主の時代に毀鐘鋳砲を実行しようとして集めた梵鐘仏具は、忠義の時代に鋳潰されて大砲だけでなく贋金作りに用いられた。
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廃仏毀釈・神仏分離

神仏分離令を出した神祇事務局の役人が主導した日吉大社の廃仏毀釈

慶応四年三月十三日に王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告されている。そして、三月十七日には神祇事務局から全国の神社に宛てて神社における僧侶の復飾が命じられ、三月二十八日には「神仏判然令」と呼ばれる命令が出されている。そしてその命令に関与した神祇官事務局の樹下茂国が、日吉社の仏像仏具を焼き払った。その後も新政府により神仏分離は推進された。
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明治初年の外国人殺傷事件

知恩院からイギリス公使パークス襲撃事件の現場を訪ねて

慶応四年二月三十日に英公使パークス襲撃事件が起きたが、一行は知恩院を出発して新橋通りを直進し、縄手通りを右折するところで二人の凶漢に襲われた。実際に知恩院から襲撃地点まで歩き、犯人の墓を訪ねてみた。 犯人の一人はその場で首を斬られ、もう一人の三枝蓊は武士の身分を剥奪された上で斬首されたが、二人は霊山墓地に「神霊」と彫られた墓に眠っている。
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明治初年の外国人殺傷事件

相次いだ外国人殺傷事件と五箇条の御誓文

五箇条の御誓文は大政奉還から五か月近くも経過してから発布されている。当時は新政府周辺に外国との交際を拒絶する者が少なくなく、「開国和親」という方針が決定してもそれに抵抗する動きが強かった。しかし、その後も外国人襲撃事件が相次ぎ新政府の危機を経験したタイミングで木戸孝允が動き、由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されている。
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明治初年の外国人殺傷事件

天皇の謁見を賜う途上で起きたイギリス公使・パークス暗殺未遂事件

堺事件が解決した後、慶応四年二月三十日に天皇が各国公使を謁見することが決定し、英仏蘭の公使が御所に向かったが、英公使のパークスが皇居に向かう途中で難に遭った。パークスは中井弘蔵、後藤象二郎の奮闘で無事であったが、11名が負傷した。仏公使のロッシュは宴席でその情報を聞き、直ちにパークスを見舞いに行き、共に徳川を支援しようと声をかけたがパークスは断った。
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明治初年の外国人殺傷事件

神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件

神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵とフランス人とのトラブルが発生し、11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。
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明治初年の外国人殺傷事件

鳥羽伏見の戦いの数日後に神戸で起きた備前藩兵と外国軍との間の銃撃戦~~神戸事件

鳥羽伏見の戦いが終わった直後に、備前藩兵が今の三宮神社近辺で偶々この隊列を横切ろうとした外国人とトラブルが発生し、拳銃を構えた外国人に発砲したことから、外国軍も交えての銃撃戦が始まった。死者はなかったが、外国人は新政府に対し、責任者の厳罰を要求した。新政府は「開国和親」に舵を切り、備前藩に責任者の切腹を要求。瀧善三郎は全てを引受け、外国人の目の前で割腹し、この事件が解決した。
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戊辰戦争

英公使パークスの激怒と江戸城無血開城との関係

慶応四年三月十五日に江戸城を総攻撃することが決まり、木梨精一郎(長州藩士)が東海道先鋒参謀・西郷隆盛の命を受けて三月十四日に、横浜の英国公使館を訪ねている。木梨は、明日以降の傷病者の手当てをパークス公使に要請したのだが、パークスの怒りが爆発した。この怒りにより、江戸城総攻撃の中止とは無関係ではない。
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戊辰戦争

慶喜がひたすら恭順を示したにもかかわらず江戸城総攻撃に向かう東征軍

徳川慶喜は慶応四年一月六日に大坂城を脱出し十二日に江戸城に入ったが、ここでも家臣の大半が主戦論を主張し、勘定奉行の小栗忠順は、海軍力と伝習隊で勝利する作戦まで提案し、ロッシュ仏公使からは武力支援の申し出があったが、慶喜には戦う選択肢はなく、徹底して恭順の姿勢を示そうとした。東征軍が江戸に向かう途中で西郷の指示で木梨精一郎がパークス英公使に向かうが、パークスは激怒した。
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戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍が敗れた理由

大坂城内の兵士らが叫ぶ「討薩」の声が一段と大きくなり、慶応四年一月元旦に慶喜は討薩の表を携えて上京することを命じている。二日に大坂城を出発したが、朝廷からも上洛の催促があったので、戦うことは想定していなかった。しかし途中で薩摩軍が道を阻み、夕刻にいきなり大砲を発射したのである。兵の数では旧幕府軍が優ったが、最新兵器を大量に持つ薩長相手に総崩れとなる。
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王政復古の大号令

王政復古の大号令が発せられた直後の情勢

王政復古の大号令の後に開かれた小御所会議で慶喜の辞官納地が決定した情報が瞬く間に広がり、慶喜のいる二条城に旗本や諸藩の武士が集まった。城内は殺気立ち、武力衝突の危険を避けるために慶喜は大坂城に退いた。その後岩倉は、慶喜の官位問題に妥協的な姿勢を示したが、西郷・大久保はそれを許さなかった。江戸で暴行盗難事件を仕掛けて、薩摩藩邸が焼き打ちにされたことから事態が動き出す。
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王政復古の大号令

周到に準備された王政復古の大号令

慶喜が大政奉還したのち朝廷より諸侯会議の招集がされたが、上京を辞退する大名が相次ぎ、会議が開催されないまま事態が推移した。その間討幕派は兵を京都に集め、クーデターの準備を進めていた。慶応三年十二月八日の夕方からの朝議が翌朝に終了し、佐幕派の公卿らが退出したのち御所の門が閉じられ、赦免されたばかりの岩倉具視が参内し「王政復古の大号令」を発し、新政府の組織が発表された。
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王政復古の大号令

大政奉還から王政復古の大号令までの公議政体派と討幕派の動き

英仏公使は慶喜が大政奉還したことを評価し、その後も慶喜が主導権と取ると予想したが、朝廷が諸大名を招集して衆議公論により王政復古の策を定めようとしたが、大名が集まらない。一方薩摩藩・長州藩には「討幕の密勅」が渡されており、薩摩、長州、芸州の三藩が政変の為の出兵同盟を締結し、兵を送り込んでいる。「ええじゃないか」騒動と龍馬の暗殺はこの頃に起きている。
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最後の将軍・慶喜の時代

徳川慶喜は大政奉還後も主導権を握ることができると考えていた

土佐藩は将軍慶喜に大政奉還を建白することを決定し、後藤象二郎が京都に向かった。徳川慶喜は以前から政権を奉還をする考えがあり、土佐藩の建白を機にそれを決断して大政奉還上表文を十月十四日に朝廷に提出した。慶喜は大政奉還後も大名の大半は幕府支持であり、その後も主導権がとれると考えてその決断をしたのが、討幕派は討幕の密勅を出し、武力を背景にして政権を奪い取ろうとした。
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最後の将軍・慶喜の時代

倒幕派とイギリス、及び大政奉還の建白書を提出した土佐藩の動き

薩摩藩の倒幕派は英国パークス公使が慶喜を高く評価していることに危機感を覚えていて、西郷隆盛がサトウを挑発して英仏を離間させることに成功した。しかしながら、倒幕派には幕府を倒すだけの軍事力が不足しており、諸藩の大半が「佐幕勤王」であった。一方土佐藩では後藤象二郎が幕府が大政奉還を行う考えを述べるようになり、それが土佐藩の藩論となり将軍に建白書を提出することとなった。
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最後の将軍・慶喜の時代

フランスの指導により軍隊改造に取り組んだ幕府が倒幕派に勝てなかった事情

慶応二年六月より始まった第二次長州征伐の前に、長州藩は英国の武器商人グラバーより大量の最新鋭武器を入手している。この銃の銃身にはライフリングが施され、椎の実型の銃弾を用いるもので、射程距離は従来の銃の数倍あり命中精度も高かった。幕府軍は人数では長州軍を圧倒したが連戦連敗し、将軍慶喜はフランスの指導による軍制改革を決意したが、倒幕の機運の高まりを抑えきれなかった。
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最後の将軍・慶喜の時代

英国公使が幕府支持に傾いた理由と倒幕を急ごうとした在京の薩摩藩士

慶応三年一月に孝明天皇が崩御され、将軍・徳川慶喜は大坂城に四カ国の代表を引見し、その席で兵庫開港を含む条約義務の遵守を約束した。慶喜は各国公使から高く評価されたが、兵庫開港については薩摩藩の事前工作があり大揉めにもめたが、なんとか勅許を得た慶喜は、兵庫開港と大坂の開市に向け動き出した。一方在京の薩摩藩士は、兵庫が開港されるまでに幕府を倒す事を決したのである。
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最後の将軍・慶喜の時代

孝明天皇は病死したのか、あるいは毒殺されたのか

孝明天皇の死に関しては、古くから毒殺説があり、英外交官のアーネスト・サトウの著書にもそのような噂があると書いている。天皇の主治医の手記を読むと、天皇の疱瘡は順調に回復しているとの診断後、容体が急変しており、誰かが砒素を盛ったことを疑う理由がある。具体的には岩倉具視や大久保利通が関与したことを疑われているが、いずれも親幕派の天皇の排除を望む理由があった。
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幕末と英仏の動き

薩長を支援したイギリスと、幕府に接近し助言し続けたフランス

フランス公使のロッシュは就任早々幕府と親交を深め、幕府からの要請を受けて製鉄所・造船所建築の為の技師や、軍事顧問団を派遣し、パリ万博に参加を推薦したり、イギリスの動きをいち早く幕府に伝えその対応策まで伝授している。徳川慶喜が兵庫港開港を決断したのもロッシュの献策による。イギリス外交官のサトウは、兵庫開港が実現すると革命のチャンスを失うと西郷にけしかけている。
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幕末と英仏の動き

1867年パリ万国博覧会に薩摩藩は独立国として参加した

慶応三年に開催されるパリ万国博覧会に幕府は参加を決定し、各藩に参加を求めたところ薩摩藩と佐賀藩が応じたのだが、薩摩藩は独自の旗や勲章まで作成し、あくまで独立国として参加する準備を進めた。現地で幕府と薩摩藩は激論し結局幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、ともに日の丸を掲げることで妥協したが、薩摩藩は幕府の権威を低下させることに成功した。
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幕末と英仏の動き

薩長に接近したイギリスは討幕に関与したのか、しなかったのか

アーネスト・サトウは慶応二年四月にジャパン・タイムスに『英国策論』を発表し、和訳されて広く読まれた。そこには天皇を元首とする諸大名による連合政権樹立を唱えている。その後のイギリスの対日政策は、本国からは中立を保持することを指示してきたが、パークス公使等は『英国策論』のシナリオ通りの路線を進めている。
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攘夷の実行と諸外国の動き

兵庫開港と条約勅許等を求めて軍艦九隻を大阪湾に送り込んだ四ヵ国連合~~下関戦争3

1865年7月に第二代公使のパークスが着任した当時、英国は下関戦争の講和にあたり、幕府下関開港ではなく償金支払いを選んだことに不信感を持っていた。英国は下関開港を望み、長州藩もそれを了解していたのだが、幕府は関税収入が長州に入ることを望まなかった。英国は幕府が償金の支払延期を申し出て来たのを機に、九隻の軍艦を大阪湾に向けて兵庫開港、条約勅許、関税引下を迫っている。
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攘夷の実行と諸外国の動き

英米仏蘭四ヵ国艦隊による下関砲撃と三百万ドルの賠償金支払要求~~下関戦争2

英仏蘭米四ヵ国で長州膺懲を決意した英国公使のオールコックは、キューパー提督に送り出動を要請し四ヵ国十七隻の艦隊は横浜から下関を目指した。元治元年八月五日に連合艦隊の砲撃が開始され、八日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。講和が始まり三百万ドルの償金支払いについてオールコックははじめから幕府に支払わせる腹積もりであった。
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