歴史ノート

満州事変から国際連盟脱退

リットン調査団は満州でトラブル続きだった

前回の「歴史ノート」で、「リットン報告書」の内容はどのようなものであったかについて書いたのだが、調査団が決して公平中立的な立場で情報収集していなかったことは、当時の新聞にもしっかりと報じられている。戦前の日本人なら誰しも憤慨したであろう重要...
満州事変から国際連盟脱退

「リットン報告書」には何が書かれていたか

リットン調査団の派遣  一九三一年昭和六年九月十八日に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きたのだが、その三日後に支那政府は紛争の拡大防止を国際連盟に提訴している。それを受けて国際連盟理事会が開かれたのは九月三十日のことで、この時には支那の...
満州事変から国際連盟脱退

中国が満州国を「偽満州国」「傀儡国」と呼んだ事情

満州はいつから漢民族が支配するようになったのか  紀元前三世紀に中国を統一した秦の始皇帝は、遊牧民が生活していた満州・蒙古を統一することが出来ず、彼らによる北方からの侵入を防ぐために万里の長城を建設している。このことは二千年前において満州・...
満州事変から国際連盟脱退

満州各地で独立運動が起きたのはなぜか

張学良軍が総崩れとなった理由  一九三一年九月十八日、奉天から北東に八キロ程の柳条湖で、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破された。この付近の警備に当たっていた関東軍守備隊は大隊本部と特殊機関に報告をし、関東軍はこれを張学良率いる東北軍の仕...
満州事変から国際連盟脱退

米国外交官が記した柳条湖事件の真実

柳条湖事件が起きるまでに満鉄施設が何度支那人に襲われたか  このブログで何度か昭和六年(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件のことを書いてきた。 繰り返しになって申し訳ないが、満州事変に関するわが国の戦後の歴史叙述では、昭和三十一...
満州事変から国際連盟脱退

満州民族の故地・満州の人口の九割が漢民族となった経緯

前回記事で、満州は満州族の故地で漢民族はかつてわずかしか居住していなかったのだが、清末以降に大量の漢民族が満州に移り住むようになって、一九三八年頃には満州の人口の九割が漢民族となったことを書いた。今回はこの点についてもう少し詳しく書くことと...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が開拓した満州を狙っていた国々

わが国が「満州」の開拓を始めた歴史的経緯  「満州」という言葉は「州」の字が付くことから、地名と誤解されることが多いのだが、中国語では土地の名前ではなく民族名、即ち満州民族を意味している。しかしながら、清国を支配した満州族の居住地域を、英語...
満州事変から国際連盟脱退

戦後「満州」「満州国」に関する多くの真実が封印されてきた

戦前のわが国や世界で、満州についてどのように論じられていたか  現在の中国東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)、及び内蒙古、熱河省を領土として一九三二年(昭和7年)に「満州国」という国が成立したのだが、戦後のわが国においてマスコミや書物など...
フィリピン

日本陸海軍がレイテ島で脆くも敗れた背景

ラウレル政権の正体 ホセ・ラウレル 1943年  前回の記事で、フィリピン第二共和国のホセ・ラウレル大統領は日本の傀儡ではないことを書いたのだが、ラウレルは回顧録を残しており、十月に挙行される建国式典の直前に日本を訪問して東條首相らと会談し...
フィリピン

日本軍がフィリピン人の親日派から支持を失っていったのはなぜか

日本軍政時代の写真  前回の記事で、わが国は昭和十八年(1943年)五月の御前会議でフィリピンを独立させることを決定し、十月にホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が誕生したことを書いたが、日本軍によるフィリピン占領からフィリピン...
フィリピン

コレヒドール要塞攻略

コレヒドール要塞  バターン半島の沖合にコレヒドール島があり、そこにはスペイン統治時代からマニラ湾を守るための要塞が築かれていたのだが、フィリピンがアメリカ領となったのちアメリカはその補強工事を行い、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲...
フィリピン

「バターン死の行進」を考える

バターン半島攻略戦  前回記事で1942年3月11日にマッカーサーがフィリピンを脱出したことを書いたが、その後日本軍は砲兵隊、航空部隊を増強し、3月24日から攻撃機によるバターン半島の爆撃が開始され、4月3日から地上部隊による総攻撃が開始さ...
フィリピン

日本軍のバターン半島攻略戦でフィリピンを脱出したマッカーサー司令官

フリーメーソンの資格を与えられたマッカーサー  前回の記事で、ダグラス・マッカーサーが一九三五年にフィリピン軍の軍事顧問に就任したことを書いたが、『マッカーサー回想記』を読むとマニラ到着後母が亡くなり、その後フリーメーソンの資格が与えられた...
フィリピン

アメリカによるフィリピン統治とマッカーサー家

米西戦争から米比戦争  1898年2月、キューバの港ハヴァナで何者かにメイン号が爆破されて多くの死者が出たことをきっかけに、「メイン号を忘れるな!」(リメンバー・ザ・メイン)の戦争国民標語はたちまち全米を風靡して交戦ムードが高まり、アメリカ...
廃仏毀釈・神仏分離

但馬妙見山の妙見信仰と神仏分離

但馬妙見山の妙見信仰  昨年の秋にこのブログで大阪府にある能勢妙見山のことを書いたが、この能勢妙見山は、福島県相馬市の相馬中村神社、熊本県八代市の八代神社とともに日本三大妙見の一つに数えられている。しかしながら、かつては兵庫県八鹿にある但馬...
明治初期の暗殺事件

明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか

明治十七年(1884年)に山崎之人が著した『維新元勲十傑論』という本がある。この本において著者は明治維新に尽力した志士の十人として、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、江藤新平、横井平四郎(小楠)、大村益次郎、小松帯刀、前原一誠、廣澤兵助(眞臣...
明治初期の暗殺事件

明治二年九月に大村益次郎の命が狙われた経緯

大村益次郎  前回は明治二年一月に起きた横井小楠の暗殺事件について書いたが、その八か月後に大村益次郎暗殺事件が起きている。今回は大村益次郎がどのような人物であり、暗殺された経緯について記すことと致したい。 幕末の大村益次郎  大村益次郎は文...
明治初期の暗殺事件

明治二年正月の横井小楠暗殺を追う

前回の記事で奇兵隊が明治二年(1869年)に政府に反旗を翻したことを書いたが、明治の初期には政府の要人が相次いで暗殺されている。同じ明治二年の一月に参与の横井小楠(よこい しょうなん)が暗殺され、九月には兵部大輔の大村益次郎、明治四年(18...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

旧長州の奇兵隊が明治新政府に反旗を翻した事情

骨抜きされた木戸孝允の「版籍奉還論」  教科書などでは明治維新がスムーズに行われたかのように描かれているのだが、幕府が倒れて政権が朝廷に戻ったといっても当初において朝廷は軍隊を持っておらず、戊辰戦争の征東軍は勤王諸藩から兵を借りて、藩の軍費...
関東大震災

関東大震災の悲惨な状況を伝えた関西の新聞記者

前回の記事で少し触れたが、東京や横浜に本社を構えていた新聞社は各社とも大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で壊滅的な被害を受けたために、関西の新聞記者が関東に出張して各地の情報を収集して報じている。最も早い記事は関東大震災翌日付の大...
関東大震災

関東大震災の「火災旋風」を報じた新聞記事

このブログで関東大震災について五回に分けて書いたことがある。東京では銀座も日本橋も焼け、神田も浅草も焦土となったのだが、最大の被害が出た場所は本所区本所横綱町(現在の墨田区横綱)にあった本所被服廠跡(現:横綱公園、両国中学、日大第一中・高等...
歴史ノート

布教権を中国市場開拓の武器とした米国に関する新聞記事を読む

中外商業新報「支那に於ける米国勢力」を読む  前回の記事で、中国に利権を得た欧米列強が宣教師を送り込み学校や病院を建設した一方、わが国は清国との条約上布教の自由が認められていたにもかかわらず、欧米の圧力に屈した支那政府から拒絶され、我が政府...
尼港事件

尼港事件を目撃して奇しくも生き残った日本人の証言を読む~~尼港事件2

大正九年の尼港事件で、尼港に居住していた七百数十名の日本人の殆んどが共産パルチザンによって殺害されたのだが、わずかながら生き残った日本人がいて、毛皮商人と海軍士官の二人の証言が残されている。
尼港事件

戦後の長きにわたりタブー視されてきた尼港事件の新聞記事を読む~~尼港事件1

黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にあるニコラエフスク(尼港)には7百人を超えるの日本人が住んでいたが、1920年1月に共産パルチザンに市全体が包囲されてしまった。救援隊を要請したのだが、厳冬のため港には砕氷船が近づくことが出来ず、同市にいた日本人の殆んどがパルチザンに殺害されてしまっている。
張作霖爆殺事件

「張作霖爆殺事件」の真相を追う~~その3

ソ連には以前より張作霖暗殺計画が存在した。1926年の時は爆弾が発見されて失敗したが、1928年の計画書には「日本軍に疑いがかかるように行われること」が明記されており、張学良と関東軍を巻き込んで、計画通り張作霖殺害の罪は日本に着せることに成功したことになる。
張作霖爆殺事件

「張作霖爆殺事件」の真相を追う~~その2

張作霖爆殺事件は関東軍大差であった河本大作が殺害を認める発言をし、現場には関東軍がやったと疑われる工作がなされていたことから、政府も関東軍を疑った。しかし、現場に残された状況を調べると河本の証言内容と著しく矛盾していた。
張作霖爆殺事件

「張作霖爆殺事件」の真相を追う~~その1

昭和3年6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い数時間後に死亡した。この事件に関する当時の報道や記録は、戦後のこの事件に関する解説とは大きく異なる。英国の公文書にはソ連に犯罪の責任があると書かれているのだが、最近のロシアの研究者の結論と同じである。
韓国併合への道

韓国の近代化はわが国の資金援助や民間投資がなければ不可能であった

韓国の近代化は、わが国の莫大な資金援助や民間投資がなければ不可能であったのだが、戦後はその史実が殆んど封印されている。 わが国の財政支援が開始されたのは1904年以降のことで、韓国の財政の過半から2/3を日本が支出し、さらに民間投資が積極的に行われ、ダムや鉄道などが建設されていった。
韓国併合への道

一進会の李容九に影響を与えた樽井藤吉の『大東合邦論』

1885年に清国、ロシア、英国が朝鮮を狙う動きがあり、隣国の問題はわが国にとって国防上の危機でもあった。福沢諭吉は『脱亜論』隣国には何もするなと書いたが、樽井藤吉はアジアを白人の侵略から守るためにまず日韓合邦すべきと説き、この考えが一進会の李容九に多大な影響を与えた。
歴史ノート

共産主義に関する戦前期の記事を読む~~「転向」を考える

前回記事で、コミンテルン(1919年にレーニンの指導のもとに創立された共産党の国際組織)による日本赤化(共産主義化)工作が進み、昭和七年に五・一五事件が起きた記事までを紹介した。赤化工作は軍部と青年に向けて重点的に行われていたのだが、対策を...
伊藤博文暗殺

なぜ日本政府は安重根の凶行とすることで幕を引いたのか~~伊藤博文暗殺3

伊藤博文の暗殺事件の犯人は、伊藤の近くにいた室田義文の証言によれば安重根ではありえない。室田の証言が葬り去られた理由は「日ロ国交上」の理由であった。伊藤はロシアにとって日露協商・満韓交換論路線の裏切者であり、ロシアに出向いたことが寿命を縮める原因となった。
歴史ノート

共産主義に関する昭和初期の新聞記事を読む

前回は大正時代の記事を紹介したが、昭和に入り急速にわが国で共産主義思想が広まっていった。 大正十一年(1922年)に堺利彦、山川均、近藤栄蔵らが日本共産党(第一次日本共産党)を設立し、十一月にコミンテルン*に加盟し、「コミンテルン日本支部 ...
伊藤博文暗殺

伊藤博文を撃ったのは安重根だったのか~~~伊藤博文暗殺その2

明治42年の伊藤博文暗殺事件の犯人は安重根というのが定説になっているが、伊藤の随行員として最も近くにいた室田義文は、犯人が別の人物であることを証言している。伊藤の体内に残っていた銃弾は、安重根の放ったものではなく、安重根が真犯人でなかったことは明らかであった。
歴史ノート

共産主義に関する大正時代の新聞記事を読む

今の若い世代には共産主義国家を理想国家と考える人は少ないと思うのだが、現在六十八歳である私の後輩や先輩には、一時期そのような考えに染まった経験を持つ人は少なからずいる。しかしながら、その親の世代である明治末期から昭和初期にかけて生まれた人々...
伊藤博文暗殺

伊藤博文暗殺事件を機に日韓併合が早まった~~~伊藤博文暗殺その1

明治38年に韓国統監府が設置されると伊藤博文はその初代統監に就任し、その後三年間で韓国は大きく近代化していった。しかし明治42年に伊藤はハルビンで暗殺されてしまう。伊藤自身は韓国併合に長らく反対していたが、彼が暗殺された後日韓併合が早まる結果となった。
韓国併合への道

日韓併合前の朝鮮の人々の暮らし~~荒川五郎『最近朝鮮事情』その2

朝鮮では大雨が降ると洪水の危機に曝され、人々は働かない。河川が濁っても、これを濾して用いるという考えもない。また道路については、王道と称えていた京城の道もわずかに牛馬が通行できる程度の広さしかなく、橋梁は極めて少なかった。貨幣制度は頗る紊乱していて、度量衡も地域でバラバラであった。
韓国併合への道

一九〇五年に朝鮮半島を訪れた荒川五郎の『最近朝鮮事情』を読む~~1

1905年に朝鮮半島を視察した荒川五郎が著した『最近朝鮮事情』に、当時の朝鮮社会がどのような状態であったかを詳細に記している。山は禿山ばかりで、川は自然のままに放置されていて何度も洪水を起こしていた。支配階層にも常民にも国のためという考えはなく賄賂が横行し、中央政府も地方政府も腐敗していた。 
歴史ノート

小松緑「赤化運動の経緯」を読む 2

赤化(共産主義化)はどこの国でも起こり得る 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 思想問題(5-007)  前回紹介した小松緑「赤化運動の経緯」(中外商業新報:昭和三年九月二十四日~十月一日)の続きだが、小松は共産主義思想は、資本主義でない...
韓国併合への道

日韓共栄を目指した一進会はなぜ解散させられたのか

わが国が日露戦争で勝利をつづけたことから、これまで両班に搾取されていた平民や知識人たちの多くは、次第に日本に好意を寄せるようになった。李容九は一進会を設立し、日本と韓国が軍事同盟を結びロシアに対抗することを主張し、鉄道建設に協力したほか、1909年に『韓日合邦を要求する声明書』を提出した。
歴史ノート

小松緑「赤化運動の経緯」を読む 1

小松緑は明治大正期の外交官で、アメリカ公使館書記官,朝鮮総督府外務部長など勤め、大正五年(1916年)に退官後は著述家として活躍した。 小松緑(Wikipediaより)  十冊程度の著書を残しているようだが、電子図書で『明治外交秘話』という...
韓国併合への道

日露戦争緒戦で日本軍が勝利したのを見て親日に一変した韓国

日露戦争緒戦で日本が勝利すると韓国は俄に態度を親露から親日に一変させ、日韓議定書が締結され、財政と外交の顧問を受け入れることに同意した。わが国は同国を近代化させるために保護国化したのだが、当時の韓国は非常に貧しく、英米はわが国の対韓措置に異議を挟まなかった。
韓国併合への道

日本が近代国家に改革しようとした李氏朝鮮を狙ったロシア

李氏朝鮮は当初から中国の属国であり、中国の属邦の中でも貧しく地位も低かったのだが、日清戦争でわが国が勝利して、晴れて独立国家となることができた。しかしながらこの国は兵力も乏しく、いつロシアに占領されてもおかしくなかった。わが国は朝鮮が近代国家に改革され、自立した国家となることを熱望していた。
共産主義関連

蒋介石はいかにして英米を味方につけたのか

蒋介石はドイツ軍事顧問たちのアドバイスを受け、上海の国際租界で日本軍に対する攻撃を仕掛けたが、日本軍は蔣介石の攻撃の意図を理解し、他国の干渉を招く原因となる行動はとらなかった(第二次上海事変)。その後蒋介石はプロパガンダを強化して、嘘で世界のシンパシーを獲得することに成功する。
共産主義関連

当時のアメリカ人ジャーナリストが記した中国の排日・抗日運動

中国で排日運動を英米が仕掛けたことを、当時アメリカ人ジャーナリストであったフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが、1938年11月に出版した”Behind the News in China”(邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)に記している。その後わが国はなぜ日中の戦争に巻き込まれたのか。
共産主義関連

中国の共産主義化と抗日運動

満州国の独立に刺激されて、内蒙古が中国から独立する機運が盛り上がった。蒋介石は八万の大軍を送り込んで内蒙古軍を制圧したが、その際に全国民に対して民族戦の決起を促したために、中国全土で抗日の機運が盛り上がった。中国共産党は蒋介石を監禁して共産党と手を握らせ、共産党殲滅作戦を止めさせるとともに彼を抗日に転換させた。
共産主義関連

英米が仕掛けた「排日」に中国人が積極的に取組み「抗日」に至った経緯

英米が仕掛けた「排日運動」は、日本人に対して長い間民族的嫉妬心を抱いていたに中国人に火をつけ、英米と同様に日貨排斥を行った。当初から排日教育が行なわれて、共産主義青年団員が排日運動をリードするようになると、その後国民党が国策として取り組むようになり、抗日暴動が頻発するようになる。
共産主義関連

中国の排日運動がその後反帝国主義運動となり日本だけが排斥された経緯

中国の排日運動は、当初は英米が中国大陸から日本を排除する目的で仕掛けたものだが、中国大陸の赤化を狙っていたソ連が中国共産党に反帝国主義運動を始めさせ、最初にイギリス租界に鉾先を向けた。イギリスは租界を返還して反英の動きを止め、さらに蒋介石を抱き込んで、鉾先を日本に向けさせた。
共産主義関連

英米が排日運動を仕掛けたのは中国だけではなかった

中国の排日運動の始まりである1919年の「五四運動」に英米人が関与していたことは、当時のわが国の新聞にも多数報道されている。また、朝鮮半島で起きた三・一独立運動も米国宣教師が関与していたと報じられている。これらは、同年一月にわが国がパリ講和会議で人種差別撤廃案を提出したことと無関係だとは思えない。
共産主義関連

北京で排日運動が開始された背後に英米人の煽動があった

1919年のパリ講和会議でわが国が提案した人種差別撤廃案が否決された22日後に、北京で最初の排日運動(五四運動)が行われている。当時北京の民家に下宿していた長野朗が当時のことを記録しているが、支那の排日運動を煽動したのは英米人であった。彼らは黄色人種間の分断と、支那において日本が開拓した市場を狙っていた。
第一次大戦後の米国排日

関東大震災で日本支援に動いたのち米国黒人が白人に抵抗できなくなった経緯

米国黒人たちは彼らの尊厳を認めてくれる日本人を尊敬するようになっていた。1912年に関東大震災が起こり全米で日本に義捐金を送る動きがあったが、黒人向けメディアが日本支援を呼び掛け、貧しい黒人たちも立ち上がった。しかしながら、連邦政府は「排日移民法」を提出し、黒人と日本人とを引き離そうとした。