歴史ノート

支那排日

支那の排日運動はどのように変化していったか 支那排日4

大正八年(1919年)の排日運動  前回の歴史ノートで西安事件で蒋介石が張学良に拉致されたあと第二次国共合作が成立したことを書いたが、今回はそれまでの排日運動で実際にどのようなことが起こっていたかについて、当時の記録を紹介しながらまとめるこ...
支那排日

日貨排斥から抗日戦へ 支那排日3 

前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まって以降日貨排斥が行われることになり、そのやり方が次第に過激になっていったことを述べたが、昭和十年(1935年)以降になると排日運動は次第に局面が変わっていくことになる。 北支問題を契機に抗日運動が...
支那排日

支那の排日運動の主役が共産勢力に変わった 支那排日2

前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で、当時北京の支那人の家に下宿した長野朗の『支那三十年』(GHQ焚書)によると、初期における支那の排日運動の背後には英米が動いていたことなどを紹介させていただいた。 次...
支那排日

支那の排日運動は英米が仕掛けて広がった 支那排日1

五四運動から支那の排日運動が始まった  支那の排日運動が本格化したのは大正八年(1919年)からなのだが、中国研究者の長野朗が昭和十七年に著した『支那三十年』に、支那で排日運動が起こった事情が記されている。長野は当時北京の中国人の家に一人で...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑧ その後の張学良・蒋介石の動き

総会決議前後の張学良の動き  前回の記事で一九三三年二月二十四日に国際連盟総会において松岡洋右が最後の演説を行い、そのあとで満州問題に関する報告書草案の採決が行われ、賛成四十二票、反対一票で可決されたことを書いた。草案には、国際連盟は満州の...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑦ 最後の松岡演説と連盟脱退

前回に引き続き、一九三三年二月二十四日に開かれた国際連盟特別総会に於ける、報告書草案採決直前の松岡の最後の演説の紹介を続けることしたい。 国際連盟の満州認識について  松岡はリットン報告書における満州理解の誤りについて以下のように述べている...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑥ 総会を意識した張学良の動きと最後の松岡演説前半

運命の国連総会の日が決まる  前回の「歴史ノート」で、昭和八年の正月以降の支那やアメリカ、国連事務局等の動きを書いたが、アメリカが圧力をかけたことで国際連盟の委員会の流れが一気に変わり、満州国を承認しない方向に傾いていったことを書いた。 「...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑤ 山海関事件とアメリカの干渉で流れが変わった

山海関事件 「神戸大学新聞記事文庫」外交122-3  前回の「歴史ノート」で、一九三二年十二月八日の国際連盟総会における松岡洋右の演説とその直後の支那の動きを書いたのだが、一九三三年の正月早々に万里の長城の東端の山海関さんかいかんにある日本...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯④ 論戦では松岡が圧倒したが多数派工作が始まった

11/23国際連盟理事会における松岡演説  前回、前々回の歴史ノートで昭和七年(1932年)十一月二十一日の国際連盟理事会における松岡洋右の演説のポイントを纏めてみたが、その日に中国代表の顧維鈞こいきんも演説を行っている。そして十一月二十三...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯③ 我々は侵略者ではない

前回の「歴史ノート」で国際連盟理事会でわが国の全権松岡洋右が昭和七年十一月二一日に演説をした内容の前半部分のポイント部分を紹介させていただいたが、今回はその後半部分について書くこととしたい。 満州事変は不戦条約違反ではない  リットン報告書...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯② 支那の内乱と排日運動の実態

「リットン報告書」に批判的な海外論調が少なくなかった  前回の記事で、一九三二年十月一日に「リットン報告書」が国際連盟に提出され、わが国はその内容を不服として意見書を提出したのだが、満州事変以降の日支紛争について国連総会が開かれることが決定...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯① 満州国独立承認と「リットン報告書」に反論

前回の歴史ノートで、「リットン報告書」はその調査姿勢にそもそも問題があり、予想されていた通り報告書は支那に有利な内容となったのだが、世界の論調はこの報告書に批判的なものが少なくなかったことを紹介させていただいた。今回は、わが国と国連との間で...
満州事変から国際連盟脱退

リットン調査団は満州でトラブル続きだった

前回の「歴史ノート」で、「リットン報告書」の内容はどのようなものであったかについて書いたのだが、調査団が決して公平中立的な立場で情報収集していなかったことは、当時の新聞にもしっかりと報じられている。戦前の日本人なら誰しも憤慨したであろう重要...
満州事変から国際連盟脱退

「リットン報告書」には何が書かれていたか

リットン調査団の派遣  一九三一年昭和六年九月十八日に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きたのだが、その三日後に支那政府は紛争の拡大防止を国際連盟に提訴している。それを受けて国際連盟理事会が開かれたのは九月三十日のことで、この時には支那の...
満州事変から国際連盟脱退

中国が満州国を「偽満州国」「傀儡国」と呼んだ事情

満州はいつから漢民族が支配するようになったのか  紀元前三世紀に中国を統一した秦の始皇帝は、遊牧民が生活していた満州・蒙古を統一することが出来ず、彼らによる北方からの侵入を防ぐために万里の長城を建設している。このことは二千年前において満州・...
満州事変から国際連盟脱退

満州各地で独立運動が起きたのはなぜか

張学良軍が総崩れとなった理由  一九三一年九月十八日、奉天から北東に八キロ程の柳条湖で、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破された。この付近の警備に当たっていた関東軍守備隊は大隊本部と特殊機関に報告をし、関東軍はこれを張学良率いる東北軍の仕...
満州事変から国際連盟脱退

米国外交官が記した柳条湖事件の真実

柳条湖事件が起きるまでに満鉄施設が何度支那人に襲われたか  このブログで何度か昭和六年(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件のことを書いてきた。 繰り返しになって申し訳ないが、満州事変に関するわが国の戦後の歴史叙述では、昭和三十一...
満州事変から国際連盟脱退

満州民族の故地・満州の人口の九割が漢民族となった経緯

前回記事で、満州は満州族の故地で漢民族はかつてわずかしか居住していなかったのだが、清末以降に大量の漢民族が満州に移り住むようになって、一九三八年頃には満州の人口の九割が漢民族となったことを書いた。今回はこの点についてもう少し詳しく書くことと...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が開拓した満州を狙っていた国々

わが国が「満州」の開拓を始めた歴史的経緯  「満州」という言葉は「州」の字が付くことから、地名と誤解されることが多いのだが、中国語では土地の名前ではなく民族名、即ち満州民族を意味している。しかしながら、清国を支配した満州族の居住地域を、英語...
満州事変から国際連盟脱退

戦後「満州」「満州国」に関する多くの真実が封印されてきた

戦前のわが国や世界で、満州についてどのように論じられていたか  現在の中国東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)、及び内蒙古、熱河省を領土として一九三二年(昭和7年)に「満州国」という国が成立したのだが、戦後のわが国においてマスコミや書物など...
フィリピン

日本陸海軍がレイテ島で脆くも敗れた背景

ラウレル政権の正体 ホセ・ラウレル 1943年  前回の記事で、フィリピン第二共和国のホセ・ラウレル大統領は日本の傀儡ではないことを書いたのだが、ラウレルは回顧録を残しており、十月に挙行される建国式典の直前に日本を訪問して東條首相らと会談し...
フィリピン

日本軍がフィリピン人の親日派から支持を失っていったのはなぜか

日本軍政時代の写真  前回の記事で、わが国は昭和十八年(1943年)五月の御前会議でフィリピンを独立させることを決定し、十月にホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が誕生したことを書いたが、日本軍によるフィリピン占領からフィリピン...
フィリピン

コレヒドール要塞攻略

コレヒドール要塞  バターン半島の沖合にコレヒドール島があり、そこにはスペイン統治時代からマニラ湾を守るための要塞が築かれていたのだが、フィリピンがアメリカ領となったのちアメリカはその補強工事を行い、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲...
フィリピン

「バターン死の行進」を考える

バターン半島攻略戦  前回記事で1942年3月11日にマッカーサーがフィリピンを脱出したことを書いたが、その後日本軍は砲兵隊、航空部隊を増強し、3月24日から攻撃機によるバターン半島の爆撃が開始され、4月3日から地上部隊による総攻撃が開始さ...
フィリピン

日本軍のバターン半島攻略戦でフィリピンを脱出したマッカーサー司令官

フリーメーソンの資格を与えられたマッカーサー  前回の記事で、ダグラス・マッカーサーが一九三五年にフィリピン軍の軍事顧問に就任したことを書いたが、『マッカーサー回想記』を読むとマニラ到着後母が亡くなり、その後フリーメーソンの資格が与えられた...
フィリピン

アメリカによるフィリピン統治とマッカーサー家

米西戦争から米比戦争  1898年2月、キューバの港ハヴァナで何者かにメイン号が爆破されて多くの死者が出たことをきっかけに、「メイン号を忘れるな!」(リメンバー・ザ・メイン)の戦争国民標語はたちまち全米を風靡して交戦ムードが高まり、アメリカ...
廃仏毀釈・神仏分離

但馬妙見山の妙見信仰と神仏分離

但馬妙見山の妙見信仰  昨年の秋にこのブログで大阪府にある能勢妙見山のことを書いたが、この能勢妙見山は、福島県相馬市の相馬中村神社、熊本県八代市の八代神社とともに日本三大妙見の一つに数えられている。しかしながら、かつては兵庫県八鹿にある但馬...
明治初期の暗殺事件

明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか

明治十七年(1884年)に山崎之人が著した『維新元勲十傑論』という本がある。この本において著者は明治維新に尽力した志士の十人として、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、江藤新平、横井平四郎(小楠)、大村益次郎、小松帯刀、前原一誠、廣澤兵助(眞臣...
明治初期の暗殺事件

明治二年九月に大村益次郎の命が狙われた経緯

大村益次郎  前回は明治二年一月に起きた横井小楠の暗殺事件について書いたが、その八か月後に大村益次郎暗殺事件が起きている。今回は大村益次郎がどのような人物であり、暗殺された経緯について記すことと致したい。 幕末の大村益次郎  大村益次郎は文...
明治初期の暗殺事件

明治二年正月の横井小楠暗殺を追う

前回の記事で奇兵隊が明治二年(1869年)に政府に反旗を翻したことを書いたが、明治の初期には政府の要人が相次いで暗殺されている。同じ明治二年の一月に参与の横井小楠(よこい しょうなん)が暗殺され、九月には兵部大輔の大村益次郎、明治四年(18...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

旧長州の奇兵隊が明治新政府に反旗を翻した事情

骨抜きされた木戸孝允の「版籍奉還論」  教科書などでは明治維新がスムーズに行われたかのように描かれているのだが、幕府が倒れて政権が朝廷に戻ったといっても当初において朝廷は軍隊を持っておらず、戊辰戦争の征東軍は勤王諸藩から兵を借りて、藩の軍費...
関東大震災

関東大震災の悲惨な状況を伝えた関西の新聞記者

前回の記事で少し触れたが、東京や横浜に本社を構えていた新聞社は各社とも大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で壊滅的な被害を受けたために、関西の新聞記者が関東に出張して各地の情報を収集して報じている。最も早い記事は関東大震災翌日付の大...
関東大震災

関東大震災の「火災旋風」を報じた新聞記事

このブログで関東大震災について五回に分けて書いたことがある。東京では銀座も日本橋も焼け、神田も浅草も焦土となったのだが、最大の被害が出た場所は本所区本所横綱町(現在の墨田区横綱)にあった本所被服廠跡(現:横綱公園、両国中学、日大第一中・高等...
歴史ノート

布教権を中国市場開拓の武器とした米国に関する新聞記事を読む

中外商業新報「支那に於ける米国勢力」を読む  前回の記事で、中国に利権を得た欧米列強が宣教師を送り込み学校や病院を建設した一方、わが国は清国との条約上布教の自由が認められていたにもかかわらず、欧米の圧力に屈した支那政府から拒絶され、我が政府...
尼港事件

尼港事件を目撃して奇しくも生き残った日本人の証言を読む~~尼港事件2

大正九年の尼港事件で、尼港に居住していた七百数十名の日本人の殆んどが共産パルチザンによって殺害されたのだが、わずかながら生き残った日本人がいて、毛皮商人と海軍士官の二人の証言が残されている。
尼港事件

戦後の長きにわたりタブー視されてきた尼港事件の新聞記事を読む~~尼港事件1

黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にあるニコラエフスク(尼港)には7百人を超えるの日本人が住んでいたが、1920年1月に共産パルチザンに市全体が包囲されてしまった。救援隊を要請したのだが、厳冬のため港には砕氷船が近づくことが出来ず、同市にいた日本人の殆んどがパルチザンに殺害されてしまっている。
張作霖爆殺事件

「張作霖爆殺事件」の真相を追う~~その3

ソ連には以前より張作霖暗殺計画が存在した。1926年の時は爆弾が発見されて失敗したが、1928年の計画書には「日本軍に疑いがかかるように行われること」が明記されており、張学良と関東軍を巻き込んで、計画通り張作霖殺害の罪は日本に着せることに成功したことになる。
張作霖爆殺事件

「張作霖爆殺事件」の真相を追う~~その2

張作霖爆殺事件は関東軍大差であった河本大作が殺害を認める発言をし、現場には関東軍がやったと疑われる工作がなされていたことから、政府も関東軍を疑った。しかし、現場に残された状況を調べると河本の証言内容と著しく矛盾していた。
張作霖爆殺事件

「張作霖爆殺事件」の真相を追う~~その1

昭和3年6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い数時間後に死亡した。この事件に関する当時の報道や記録は、戦後のこの事件に関する解説とは大きく異なる。英国の公文書にはソ連に犯罪の責任があると書かれているのだが、最近のロシアの研究者の結論と同じである。
韓国併合への道

韓国の近代化はわが国の資金援助や民間投資がなければ不可能であった

韓国の近代化は、わが国の莫大な資金援助や民間投資がなければ不可能であったのだが、戦後はその史実が殆んど封印されている。 わが国の財政支援が開始されたのは1904年以降のことで、韓国の財政の過半から2/3を日本が支出し、さらに民間投資が積極的に行われ、ダムや鉄道などが建設されていった。
韓国併合への道

一進会の李容九に影響を与えた樽井藤吉の『大東合邦論』

1885年に清国、ロシア、英国が朝鮮を狙う動きがあり、隣国の問題はわが国にとって国防上の危機でもあった。福沢諭吉は『脱亜論』隣国には何もするなと書いたが、樽井藤吉はアジアを白人の侵略から守るためにまず日韓合邦すべきと説き、この考えが一進会の李容九に多大な影響を与えた。
歴史ノート

共産主義に関する戦前期の記事を読む~~「転向」を考える

前回記事で、コミンテルン(1919年にレーニンの指導のもとに創立された共産党の国際組織)による日本赤化(共産主義化)工作が進み、昭和七年に五・一五事件が起きた記事までを紹介した。赤化工作は軍部と青年に向けて重点的に行われていたのだが、対策を...
伊藤博文暗殺

なぜ日本政府は安重根の凶行とすることで幕を引いたのか~~伊藤博文暗殺3

伊藤博文の暗殺事件の犯人は、伊藤の近くにいた室田義文の証言によれば安重根ではありえない。室田の証言が葬り去られた理由は「日ロ国交上」の理由であった。伊藤はロシアにとって日露協商・満韓交換論路線の裏切者であり、ロシアに出向いたことが寿命を縮める原因となった。
歴史ノート

共産主義に関する昭和初期の新聞記事を読む

前回は大正時代の記事を紹介したが、昭和に入り急速にわが国で共産主義思想が広まっていった。 大正十一年(1922年)に堺利彦、山川均、近藤栄蔵らが日本共産党(第一次日本共産党)を設立し、十一月にコミンテルン*に加盟し、「コミンテルン日本支部 ...
伊藤博文暗殺

伊藤博文を撃ったのは安重根だったのか~~~伊藤博文暗殺その2

明治42年の伊藤博文暗殺事件の犯人は安重根というのが定説になっているが、伊藤の随行員として最も近くにいた室田義文は、犯人が別の人物であることを証言している。伊藤の体内に残っていた銃弾は、安重根の放ったものではなく、安重根が真犯人でなかったことは明らかであった。
歴史ノート

共産主義に関する大正時代の新聞記事を読む

今の若い世代には共産主義国家を理想国家と考える人は少ないと思うのだが、現在六十八歳である私の後輩や先輩には、一時期そのような考えに染まった経験を持つ人は少なからずいる。しかしながら、その親の世代である明治末期から昭和初期にかけて生まれた人々...
伊藤博文暗殺

伊藤博文暗殺事件を機に日韓併合が早まった~~~伊藤博文暗殺その1

明治38年に韓国統監府が設置されると伊藤博文はその初代統監に就任し、その後三年間で韓国は大きく近代化していった。しかし明治42年に伊藤はハルビンで暗殺されてしまう。伊藤自身は韓国併合に長らく反対していたが、彼が暗殺された後日韓併合が早まる結果となった。
韓国併合への道

日韓併合前の朝鮮の人々の暮らし~~荒川五郎『最近朝鮮事情』その2

朝鮮では大雨が降ると洪水の危機に曝され、人々は働かない。河川が濁っても、これを濾して用いるという考えもない。また道路については、王道と称えていた京城の道もわずかに牛馬が通行できる程度の広さしかなく、橋梁は極めて少なかった。貨幣制度は頗る紊乱していて、度量衡も地域でバラバラであった。
韓国併合への道

一九〇五年に朝鮮半島を訪れた荒川五郎の『最近朝鮮事情』を読む~~1

1905年に朝鮮半島を視察した荒川五郎が著した『最近朝鮮事情』に、当時の朝鮮社会がどのような状態であったかを詳細に記している。山は禿山ばかりで、川は自然のままに放置されていて何度も洪水を起こしていた。支配階層にも常民にも国のためという考えはなく賄賂が横行し、中央政府も地方政府も腐敗していた。 
歴史ノート

小松緑「赤化運動の経緯」を読む 2

赤化(共産主義化)はどこの国でも起こり得る 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 思想問題(5-007)  前回紹介した小松緑「赤化運動の経緯」(中外商業新報:昭和三年九月二十四日~十月一日)の続きだが、小松は共産主義思想は、資本主義でない...