石川県

征韓論から士族の反乱

石川県の不平士族らによる大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)

石川県の士族たちの明治政府に対する不満は大きく、島田一良らは西南戦争の際に西郷等に呼応して現政権を倒そうと考えたが、メンバーの説得に失敗し挙兵のタイミングを失してしまった。そこで彼等は要人の暗殺に方針を変更し、明治11年5月に大久保利通の暗殺に成功している。彼らの斬奸状には「有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し」とあるが、事件の二か月後に三新法が公布され、府県会の選挙が行われることとなった。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

大久保利通暗殺事件と石川県の三分割 ~~北陸3

明治11年5月に、石川県の不平士族らが大久保利通を襲い殺害する事件が起き、その二か月後に町村編制法・府県会規則・地方税規則(「三新法」)が公布され、府県会の選挙が行われることとなった。その後各地で分県に関する議論に火が付き、14年に石川県から福井県が分離することが決まり、16年には富山県が分離することが決定した。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

石川県が明治九年に日本最大の県となった事情~~北陸2

明治九年に全国規模で大規模な府県統合が二度にわたり行われ、石川県は四月に新川県(現在の富山県)を併合し、八月には敦賀県(現在の福井県)の一部を合併して、旧石高二百二十万石の日本最大の県となっている。旧石川県のみならず、新川県(富山県)も敦賀県もいろいろ問題の多い県であり、それまでに大きな文化破壊が行われ、後には暴動が起きて多くの者が処刑された歴史がある。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

金沢県を石川県に改称し県庁を金沢から美川町に移した事情~~北陸1

明治四年七月の廃藩置県では金沢藩は金沢県、大聖寺藩は大聖寺県となり、十一月二十日に両県は廃止され金沢県が置かれ、能登半島のある北部を分離して七尾県が新たに設置されたのだか、翌年二月二日には金沢県は石川県と県名を変え、五月五日に県庁を石川郡美川町に移している。なぜ金沢から海辺の小さな町に移されたのかを調べると不平士族の問題に突き当たる。