山縣有朋

征韓論から士族の反乱

西郷隆盛は何のために起ち上がったのか~~西南戦争2

西郷軍は2月15日に鹿児島を発って最初に熊本城を目指したが、鎮台兵は西郷軍が想定していた以上に強く、最大の激戦地となった田原坂で西郷軍は敗色濃厚となる。西郷は官軍の包囲から脱出するため可愛岳突破し、鹿児島に向かった。しかし鹿児島到着後総勢7万の官軍の兵士が372人の西郷軍を取り囲み、西郷は最後の決戦を挑んでいる。
徴兵令と士族の没落

明治政府が士族中心の軍隊を否定した経緯と徴兵制に対する国民の反応

山縣有朋は、中央軍隊の編成を大久保利通らは薩摩・長州・土佐の三藩の藩兵を主体とする主張を退け、「四民平等、国民皆兵」の徴兵制を採用し、明治六年に徴兵令が発布された。しかし、当初は徴兵を忌避する者が多くて、兵を集めるのに随分苦労している。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鳥取県の再設置の経緯と北海道開拓に送り込まれた鳥取士族たち~~鳥取県再設置2

明治九年の九月に鳥取県は島根県に併合されたのだが、藩政時代に於いて山陰で最大の藩は鳥取藩であり、格下の松江藩に吸収されたことは鳥取県人にとって屈辱的であった。併合後は鳥取の経済は衰退し、商家・士族の倒産が続出し、足立長郷が共斃社を設立し、鳥取県復県を内務省に建議したが、過激な活動をしていた彼らの案は受け入れられず、岡崎平内が愛護会を結成し、鳥取県再置を山縣有朋に嘆願した。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

奈良県が消滅し再設置されるまでの経緯

古い貴重な文化財が数多く残されている奈良県は、明治9年に堺県に編入されて消滅し、さらに14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。その後旧奈良県住民にとって重要な予算が削られることが相次いで、奈良県再設置運動が動き出す。しかし内務省で却下され、その後太政官、元老院に提出した請願書も認められず、明治20年の4度目の請願書でようやく再設置が決定した。
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか

政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには薩長の力に頼るしかなかった。薩摩藩の島津久光は廃藩置県に反対であったが、上京した西郷隆盛はそれに賛同し、不平士族による反乱の鎮圧を引き受けることによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。