外交

白柳秀湖

日本を弱体化させた資本主義的外交心理 白柳秀湖『日本外交の血路』を読む4

経済界が日米外交に多大な影響を与えて来た  前回に引き続き白柳秀湖の『日本外交の血路』(GHQ焚書)の一部を紹介させていただく。前回は、わが国の外交が経済界の意向を受けてワシントン会議(1921~22年)以降に方針転換がなされたことを書いた...
白柳秀湖

経済界が歪めた戦前の対米外交 白柳秀湖『日本外交の血路』を読む3

前回記事で大正十年(1921年)のワシントン軍縮条約や昭和三年(1928年)のパリ不戦条約が締結されて以降、わが国の外交当局や新聞記者、思想界が、経済界の意向を受けて軍部を悪しざまに罵るようになり、五・一五事件で軍部の不満が爆発したという内...
白柳秀湖

「五・一五事変の史的考察」 白柳秀湖『日本外交の血路』を読む2

武士・兵士の生活の途を奪うということ 五・一五事件を報じる東京朝日新聞号外 Wikipediaより  今回も引き続き『日本外交の血路』(GHQ焚書)の内容紹介だが、「五・一五事変の史的考察」との題で書かれた白柳の文章をほぼ全文紹介させていた...
白柳秀湖

戦前の日本外交は何を誤ってきたのか……白柳秀湖『日本外交の血路』を読む1

白柳秀湖(しらやなぎ しゅうこ)は、早稲田大学文学部哲学科に在学中に堺利彦・幸徳秋水らの影響を受け社会主義思想に接近し、プロレタリア文学運動の先駆となる作品をいくつか残したが、大逆事件以後社会主義とは縁を切り、文学ともはなれ、在野の歴史家、...
欧米の外交

フランス人が書いた英国の戦争方法~~『ヨーロッパの悲劇』を読む

イギリスの真の姿とはいかなるものかを描いた本  GHQは外国人の著作も数多く焚書処分したのだが、今回は『ヨーロッパの悲劇―英国の戦争方法―』という本を紹介させていただく。 著者のドクター・フランツ・グローセという人物についてはネットで調べて...
日清戦争・日露戦争

『日露戦役の思ひ出』を読む~~日露戦争に関するGHQ焚書3

かつて陸軍省の中に「つはもの編輯部」という部署があり、兵士や国民向けに、兵士の書いた文章などを集めた「つはもの叢書」というシリーズ本が昭和8年から12年までに14点が出版され、そのうち3点がGHQ焚書に指定されている。今回は『日露戦役の思ひ...
義和団の乱から日露戦争

なぜ米大統領は金子堅太郎に日露開戦当初から日本が勝つと明言したのか

金子堅太郎が渡米して大統領の口から「今度の戦いは日本が勝つ」との発言が出たのに金子は驚いた。後日金子は旧友のヘンリー・アダムス宅の晩餐会に招かれ、アダムスよりアメリカの考えを詳しく聞く機会を得た。軍事力を比較するとロシアの方が優勢であったが、一年日本が頑張ればロシアで内乱が起きてもおかしくなく、どうすれば勝てるという秘策まで授かっている。
義和団の乱から日露戦争

日露開戦を決定した直後に戦争を終わらせる準備を怠らなかった伊藤博文

明治37年2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定した夕刻に、伊藤博文は金子堅太郎を呼び、すぐに渡米してほしいと告げた。伊藤はこれから戦争が何年続くかわからないが、もし勝敗が決しなければ両国の間に立って調停する国が必要となる。頼むところはアメリカしかない。君は大統領のルーズベルトと懇意の仲であり、直ちにそのことを依頼してほしいと告げた。
義和団の乱から日露戦争

満州占領のあと韓国を占領しようとしたロシア

ロシアは満州から撤退するという清との約束を履行せず、むしろ満韓国境方面に兵力を増強し、さらに韓国の龍岩浦を占領し、要塞工事に取り掛かった。満韓に対する侵略の意図を隠さないロシアの動きは、俄然わが国の国論を硬化させた。伊藤博文や桂首相らは出来得る限り外交により解決を図ろうとしたが、ロシアは既に対日作戦計画を立案して裁可を得、極東艦隊が旅順を出港した。
義和団の乱から日露戦争

義和団による暴動をチャンスとし、満州占領に動いたロシア

義和団が天津や北京で暴れ、八ヵ国連合軍が義和団の暴徒らと戦っている最中に、ロシアは満州に大軍を送り込んでいる。ロシア軍は十月には全満州を占領してしまうのだが、満州におけるロシア軍は、ブラゴチェンスク居住の支那人三千人を虐殺し、黒龍江(アムール川)に沈めるなどひどいものであり、日本人に大きな衝撃を与えた。
戦争文化叢書

戦前の欧州をめぐる世界情勢をどう理解するべきか~~「戦争文化叢書」を読む7

前回に引き続き「戦争文化叢書」のGHQ焚書を紹介したい。今回紹介するのは白鳥敏夫 著『欧洲を繞(めぐ)る世界情勢』という本である。 著者の白鳥敏夫はWikipediaによると、「大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派...
朝鮮半島情勢と日清戦争

江華島事件と李氏朝鮮の開国

明治八年に朝鮮国を開国させようとする交渉が難航したため、威嚇することを目的に五月に軍艦雲揚を釜山に向かわせた。その後九月に再び雲揚が情報収集で朝鮮半島に向かうと、江華島沖で朝鮮軍からの砲撃を受けた。日本軍は応戦し永宗島を陥れた。この事件を機に政府は黒田清隆を全権として条約締結に持ち込もうとした。
征韓論から士族の反乱

大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

明治4年に宮古島の船が台湾に漂着して、船員の衣類が略奪され54名が虐殺される事件があった。その後も同様の事件が続き、台湾を膺懲せよとの世論が高まって行った。大久保利通は明治六年に征韓論に反対し、西郷隆盛らが下野する原因を作った人物だが、その4か月後に、木戸孝允の反対を押し切って征台論を主張し、台湾出兵を実行した。
国会図書館デジタルコレクション

徳富蘇峰が立ち上げた『国民新聞社』の出版物を読む~~『日本野球史』『霞ヶ関を衝く:弱体外交の実相暴露』

『国民新聞』は徳富蘇峰が明治二十三年(1890年)に創刊した日刊紙で、日清戦争後に蘇峰が桂太郎に接近し、明治三十八年(1905年)には日露講和条約賛成を唱えたために、講和反対を叫ぶ暴徒の焼討ちに遭ったり(日比谷焼討ち事件)、大正二年(191...
国会図書館デジタルコレクション

戦前・戦中に出版されたわが国の外交に関する本を読む~~『日英外交裏面史』、『日支交渉史話』

「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている、外交に関する本には興味深いことが書かれている本が多い。  最初に紹介する本は、GHQ焚書の柴田俊三 著『日英外交裏面史』の一節だが、戦後の通史などでは絶対に採りあげないことが記さ...
欧米の植民地統治

GHQが戦後の日本人に封印したフィリピンの歴史~~奈良静馬『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』

今から六年ほど前に奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』という本を「国立国会図書館デジタルコレクション」で見つけて読んだときに、倭寇や豊臣秀吉に対する見方が変わってしまった。この本には、戦後の歴史叙述...
GHQ焚書

GHQにより焚書処分された、外交に関する書籍~~白柳秀湖 『日本外交の血路』

GHQが没収・廃棄した書籍の中には、日本と他国、あるいは他国同士の外交や関係史について書かれた本が少なからずある。  今回紹介する本の著者は、在野の歴史家である白柳秀湖(しらやなぎ しゅうこ)で、彼は島崎藤村を愛読し早稲田大学文学部に進学し...
日清戦争・日露戦争

GHQが焚書処分した日清戦争・日露戦争関連書籍~~時事新報社 編『日露戦争を語る. 外交・財政の巻』

明治時代にわが国が国運をかけて戦った日清戦争や日露戦争については、戦後は日本史の概説書か小説の世界でしかお目にかからなくなっているのが現状だが、戦前には当時の世界情勢から詳しく解き明かした本や、詳しい戦記が多数出版されていた。残念ながら、そ...
安政の大獄から桜田門外の変

無勅許で安政五カ国条約を締結したことと安政の大獄

安政の五カ国条約を無勅許で締結した幕府だが、実際に港の近くに外国人が居住するようになると攘夷熱が高まってきた。将軍継嗣問題で敗れた一橋派は、条約勅許問題で朝廷を巻き込み、井伊大老に圧力をかけようとした。「戊午の密勅」のあと井伊はその禍源が水戸藩にあるとにらみ、尊攘派や一橋派の大名・公卿・志士などを捕縛し厳しく処罰した。
開国前後

将軍継嗣問題の対立が深まるなかで、相次いで無勅許で結ばれた安政五カ国条約

安政五年四月に日米修好通商条約の勅許取得に失敗した堀田正睦が江戸に戻ると、南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり幕府の主導権を握った。イギリスが通商条約締結のために日本に向かっているとの情報が入り、急遽日米修好通商条約を締結。その後蘭、露、英、仏と相次いでどう同様な条約を結んだが、勅許を得ずに調印を進めたことで朝幕間の対立が深まり、攘夷派の幕府攻撃が過激化した。
開国前後

『日米通商修好条約』が無勅許で調印された経緯

ハリスの演説後老中堀田正睦は外国掛の井上清直、岩瀬忠震に通商条約交渉を開始させ、条文が完成すると、調印の前に勅許を得ようとしたのだが、孝明天皇に却下されてしまった。その後彦根城主の井伊直弼が大老職に就き、下田にいたハリスにアロー戦争で英国が清国に大勝し、その勢いで日本に向かうとの情報が齎される。岩瀬忠震らは井伊大老に無勅許での調印を迫り、井伊はやむを得なければ調印も可と返答した。
開国前後

ハリスが下田に来航後、なかなか通商条約談判を行うことが出来なかった経緯

ハリスは1855年に初代駐日領事に任命され、さらに通商条約締結のために翌年8月下田に来航した。しかし下田奉行は『日米和親条約』を理由に米領事の駐在を認めなかった。ハリスは粘って当面の滞在を許されたが、英国が日本と通商条約交渉を行う動きやアロー号事件の情報をオランダより入手し、老中首座・堀田正睦はハリスを上京させ、通商条約の審議を開始させた。
開国前後

ロシアと交戦していた英国との条約交渉と、わが国に海軍創設を提案したオランダ

1854年にイギリスの軍船が長崎に入港し、もしロシア艦が日本の港内にあれば攻撃することの許可を得たいとの上申書を提出した。長崎奉行・水野忠徳はイギリスも外交交渉に来たものと考えて条約交渉を開始し、日本の沿岸地域や港近辺が戦場とならないようにした。またオランダのファビウスは日本にも海軍を創設することを幕府に提案した。
開国前後

『日露和親条約』締結後閣老から出された無理難題と、ロシア使節の帰国問題

1855年に日露和親条約が締結され、船を失ったロシア使節は日本が建造したヘダ号やアメリカ船に分乗し帰国した。プチャーチンは日本の対応に感謝し二度にわたりロシアは幕府に感謝状を贈っている。明治二十年にはプチャーチンの娘・オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れている。
開国前後

プチャーチンの交渉スタンスが変わり『日露和親条約』が調印されるに至った事情

当時ロシアはクリミア戦争の最中で、プチャーチンはディアナ号単艦で日本に向かった。下田で第一次の談判が行われた翌日に安政東海地震が起こり、ディアナ号は津波で大破した。戸田村で修理することとなったが曳航途中で沈没し、日本の船大工を使ってロシア人指導のもと、西洋型帆船にとりかかった。プチャーチンは日本側の対応に感激し、以後の交渉はスムーズに進んで、日露和親条約の調印に至る。
開国前後

幕府に鉄道模型や電信機などを贈ったペリーとその後の幕府との交渉の行方

ペリーは日本との交渉を有利に進めるために大量の贈物を用意し、嘉永七年二月十五日に幕府側の委員に渡している。特に蒸気機関車の模型や電気通信機などには日本人は強い関心を持った。幕府もその返礼として、漆器類、陶器類、米などのほか火縄銃、日本刀、通貨などを贈っている。以後の交渉で、ペリーは要望していた即時開港をあきらめている。
開国前後

日米和親条約の締結とその和文・英文の重大な相違点

米初代大統領の誕生日に百発の祝砲が放たれたのち会見の場所が横浜に決定した。幕府は石炭、薪水、食料の供給や破船の難民救助については了解し、開港については議論を先延ばそうとしたのだが、ペリーは早期に五港を開くことを要求し、協議の結果下田と箱館二港の開港が決定した。日米和親条約が締結されたが、領事設置の条件に関わる11条については英文と和文で意味が異なっている。
開国前後

二度目のペリー来航が、約束していた時期より随分早まった経緯

ペリーの二度目の来日はかなり早まった。それはロシアのプチャーチンが長崎に来訪したとの情報を掴んだことによる。琉球ではオランダの総督より書状が届き、将軍が崩御したため幕府の要望により再来日を遅らせて欲しい旨が書かれていたが、ペリーは無視して江戸に向かう。江戸湾に入り艦隊を碇泊させ、幕府は浦賀で会見を行う旨主張したがペリーは拒否し、結局碇泊場に近い横浜村で行うことになった。
開国前後

久里浜会見の後ペリーはどう動き、幕府は開国の問題をどう解決しようとしたか

久里浜会見の後ペリー艦隊は東に向かい、三日間にわたり堂々と江戸湾を測量して琉球に向かった。琉球では強引に交易の自由を認めさせ、用地を取得して貯炭場を完成させている。一方幕府では米国大統領国書にどう対応するか意見が募られ、国防力を高めるために品川沖に海上砲台が建設され、軍艦の建造が奨励された。
開国前後

嘉永六年(1853年)のペリー浦賀来航

ペリー艦隊は戦闘準備を整えて嘉永六年六月三日に相模湾に入った。幕府役人は長崎に廻航する旨要請するも、ペリーは大統領の国書を将軍に渡すので長崎に向かう意思はなく、この文書を受納すべき人物を選任しないなら、武力をもって上陸し捧呈すると強硬に主張した。老中阿部正弘は戦争を回避するために国書を受取る判断を下した。