ルイス・フロイス

和歌山

高野山は戦国時代の危機を如何に乗り越えたか

織田信長の高野山攻め  戦国時代に多くの寺社が武将の攻撃を受けているのだが高野山も例外ではなく、最初に織田信長の攻撃を受けている。 織田信長  天正六年(1578年)に信長に突如反旗を翻した荒木村重は有岡城に篭城し、織田軍に対し一年間徹底抗...
織田信長

信長が最後にイエズス会と敵対する行動を取ったのはなぜか

本能寺の変の前に宣教師たちを激怒させた信長の行為  前回の記事で、イエズス会の宣教師たちが信長を利用して寺社破壊を推進したことを書いた。信長は、布教を許したもののキリスト教に対する信仰はなく、後にはイエズス会にとって厄介な存在になっていった...
キリスト教布教とその影響

宣教師が信長を利用して寺社破壊を推進したのではなかったか

イエズス会宣教師たちの書翰を読むと、神が「信長を用いて」寺社を破壊させたとの記載があり、宣教師たちは信長を利用して寺社破壊を推進した可能性を感じる。比叡山の焼討ちの前から信長はキリスト教の庇護者となっており、信長は南蛮渡来の品々に興味を抱いていただけでなく、自身に敵対する仏教勢力と戦うために、仏教勢力の敵であるキリシタンを利用しようとしたが、宣教師たちが望んでいた寺社破壊を一気に進めることとなった。
キリスト教布教とその影響

高山右近は北摂の寺社破壊を推進したのか

高山右近が高槻城主であった時代に破壊されたという伝承のある寺社が北摂地区には多数存在する。ルイス・フロイスの記録にも、右近が領内の寺社を破壊したことが書かれており、当時近畿地区の布教にあたっていたオルガンティノは、寺社の破壊を「善き事業」と書いている。宣教師たちが一般の信者を教唆して寺社破壊の糸を引いていたと思われる。
キリスト教布教とその影響

大友宗麟による寺社破壊と、島津との戦いののち海外に売られていった豊後の人々

大友宗麟はキリスト教に入信する前から日向国の寺社や仏像を破壊した。その後正式にキリスト教徒となった後も彦山焼打ちなどをおこなったが、家臣たちの多くが離反していくなかで島津軍から攻められ、滅亡寸前の所を豊臣軍の支援で乗り切り、豊後領は安堵された。しかし長年の戦乱で豊後の人々は疲弊し、海外に奴隷として売られた人が多かった。。
キリスト教布教とその影響

最初のキリシタン大名となった大村純忠は洗礼を受けた時に司祭と何を約束したか

キリスト教が広まっていった多くの地域で寺社や仏像の破壊が行われている。長崎ではキリスト教に転宗しないものは領外に退去を命ぜられ、神社仏閣はすべて焼き払われた。領主の大村純忠は永禄六年に洗礼を受けキリシタン大名となったが、宣教師から社寺や仏像の破壊を約束していたのである。
朱印船貿易と東南アジアの日本人

秀吉が南蛮貿易を奨励して以降、外国との貿易はどう変わったか~~朱印船貿易と東南アジアの日本人1

秀吉は海外貿易を行う商人に朱印状を与えて貿易統制したが、江戸時代には日本との交易が禁じられていた明商人にも朱印状が発行されている。南蛮貿易が活発化して、東南アジア各地に日本人町が発達し多くの日本人が移り住んだが、ポルトガル船により多くの日本人奴隷も送られた。後に江戸幕府は武器・奴隷・傭兵の禁輸令を出している。
大阪

秀吉の紀州攻めで焼かれたとされる古寺を訪ねて~~泉南の神社仏閣その1

泉南地区の大威徳寺、神於寺、孝恩寺、水間寺を巡って来たが、いずれも秀吉の紀州攻めの際に焼かれた伝承が残されている古刹である。しかしながら、根来衆の防衛ラインの最も東にあった千石堀城の戦いでは城内の根来衆は全滅している。防衛ラインよりも東や北側の寺が焼かれているはなぜなのか。イエズス会のフロイスの記録に着目したい。
豊臣秀吉

秀吉の紀州攻めで水攻めにされた太田城と紀南の国人衆の抵抗~~紀州攻め3

秀吉軍の紀州攻めで粉河寺は全山全焼したが、高野山は秀吉の提示した条件を全面的に受け入れて焼かれずに済んだ。一方雑賀衆の残党は太田城に集結し籠城して秀吉軍と戦おうとしたが、秀吉は紀ノ川から水を引いて、太田城を水攻めにして雑賀衆を全滅させた。その後秀吉軍は紀南の国人衆と戦い勝利したが、地侍はその後何度も蜂起した。
豊臣秀吉

秀吉の紀州攻めで根来寺の大伝法堂・大門が焼けずに残り、解体されたのはなぜか~~紀州攻め2

秀吉の紀州攻めによって多くの寺や神社が焼かれたのだが、戦う意思のなかった寺社にも火が放たれた。そのことは、秀吉の紀州攻めのメンバーにキリシタンが多数いたことと関係があるのではないか。不思議なことに根来寺の重要な施設は焼け残り、高山右近はその建物を伴天連に欲しいと秀吉に求めている。
豊臣秀吉

秀吉の紀州攻めで多くの寺社が焼かれた理由~~紀州攻め1

天正十二年の小牧・長久手の戦いで秀吉は織田・徳川連合軍と戦ったが、根来・雑賀衆は織田・徳川方につく一方、秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め入り、建築中の大坂城等を破壊した。秀吉は小牧・長久手の戦いを終結させ、根来・雑賀衆を滅ぼすために紀州攻めを決行。その際に多くの寺社が焼かれている。