小村寿太郎

初期の米国排日

鉄道王ハリマンの夢を打ち砕いた小村寿太郎

米国の鉄道王と呼ばれたハリマンが、ポーツマス会議の最中に訪日している。その目的は、彼の描いた世界一周通路の中の一つである南満州鉄道を日米共同で経営することを日本政府に提案するためであった。桂首相や井上馨はその提案に賛成し、桂は覚書に署名したが、ポーツマス会議から帰国した小村は反対した。
日清戦争・日露戦争

ポーツマス会議全権随員・本多熊太郎の「講和外交秘話」を読む~~日露戦争に関するGHQ焚書2

日露戦争に関するGHQ焚書リストの中に、時事新報社 編『日露戦争を語る. 外交・財政の巻』(昭和10年刊)という本がある。日露戦争の重要な交渉や会議などに関わった人物が、当時のことを回想して記した文章をまとめた本なのだが、簡単に目次と筆者の...
義和団の乱から日露戦争

ロシアが講和会議で強気の交渉が出来た背景と、講和条約に対する日本国民の怒り~~日露講和会議2

ポーツマス会議でウィッテがわが国に対して強気の交渉ができたのは、日本の連戦連勝が続き、主要各国が強い日本を次第に警戒するようになっていったことが大きかった。アメリカのサンフランシスコで排日プロパガンダが開始され、講和会議でわが国は譲歩するばかりであった。
義和団の乱から日露戦争

講和会議の交渉がわが国にとって厳しいものになることは当初からわかっていた ~~日露講和会議1

日本海海戦で日本海軍がバルチック艦隊を撃破すると、セオドア・ルーズベルト米大統領もそろそろ講和談判を開始した方が良いと考え、両国に講和談判を呼び掛け、ポーツマスで講和会議が開かれることとなったが、ロシアは当初から賠償金や領土割譲には応じないスタンスを崩さず、わが国は何度も譲歩を繰り返した。
義和団の乱から日露戦争

義和団による暴動をチャンスとし、満州占領に動いたロシア

義和団が天津や北京で暴れ、八ヵ国連合軍が義和団の暴徒らと戦っている最中に、ロシアは満州に大軍を送り込んでいる。ロシア軍は十月には全満州を占領してしまうのだが、満州におけるロシア軍は、ブラゴチェンスク居住の支那人三千人を虐殺し、黒龍江(アムール川)に沈めるなどひどいものであり、日本人に大きな衝撃を与えた。
GHQ焚書

日露戦争後に日米関係がどう動いたか~~福永恭助著『挑むアメリカ』(GHQ焚書)を読む

福永恭助は海軍少佐で退役した後、小説や軍事に関する評論などの著作を残しているが、戦前・戦中の作品34点のうち12点がGHQによって焚書処分されている。 また、国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化されていながらネット公開されていない...
国会図書館デジタルコレクション

徳富蘇峰が立ち上げた『国民新聞社』の出版物を読む~~『日本野球史』『霞ヶ関を衝く:弱体外交の実相暴露』

『国民新聞』は徳富蘇峰が明治二十三年(1890年)に創刊した日刊紙で、日清戦争後に蘇峰が桂太郎に接近し、明治三十八年(1905年)には日露講和条約賛成を唱えたために、講和反対を叫ぶ暴徒の焼討ちに遭ったり(日比谷焼討ち事件)、大正二年(191...