オランダ

欧米の植民地統治

オランダの三百年にわたる植民地統治手法~~GHQに焚書処分された『蘭印現状読本』『蘭印の設営』

オランダは、 江戸時代初期から幕末に至るまで、西洋諸国では唯一わが国が外交貿易関係を維持し続けた国だが、第二次大戦では オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、わが国と戦った国でもある。  戦前は現在のインドネシアやボルネオ、西ニューギニ...
開国前後

ハリスが下田に来航後、なかなか通商条約談判を行うことが出来なかった経緯

ハリスは1855年に初代駐日領事に任命され、さらに通商条約締結のために翌年8月下田に来航した。しかし下田奉行は『日米和親条約』を理由に米領事の駐在を認めなかった。ハリスは粘って当面の滞在を許されたが、英国が日本と通商条約交渉を行う動きやアロー号事件の情報をオランダより入手し、老中首座・堀田正睦はハリスを上京させ、通商条約の審議を開始させた。
開国前後

ロシアと交戦していた英国との条約交渉と、わが国に海軍創設を提案したオランダ

1854年にイギリスの軍船が長崎に入港し、もしロシア艦が日本の港内にあれば攻撃することの許可を得たいとの上申書を提出した。長崎奉行・水野忠徳はイギリスも外交交渉に来たものと考えて条約交渉を開始し、日本の沿岸地域や港近辺が戦場とならないようにした。またオランダのファビウスは日本にも海軍を創設することを幕府に提案した。
開国前後

二度目のペリー来航が、約束していた時期より随分早まった経緯

ペリーの二度目の来日はかなり早まった。それはロシアのプチャーチンが長崎に来訪したとの情報を掴んだことによる。琉球ではオランダの総督より書状が届き、将軍が崩御したため幕府の要望により再来日を遅らせて欲しい旨が書かれていたが、ペリーは無視して江戸に向かう。江戸湾に入り艦隊を碇泊させ、幕府は浦賀で会見を行う旨主張したがペリーは拒否し、結局碇泊場に近い横浜村で行うことになった。
開国前後

オランダはペリー来航前に日本・米国に対してどう動いたのか

1844年のオランダ国王の親書で、わが国がいつまでも国を閉ざすことは難しく、開国することを勧めたが江戸幕府は受け入れなかった。1852年にはペリー来航直前にオランダは日本に開国を勧奨し、アメリカにも書状を送るなどして日米交渉の橋渡し役を演じようとしたが失敗した。オランダの忠告は両国には通じなかったが、結果として武力衝突なく日米和親条約は締結された。
開国前後

ペリーには日本が抵抗すれば武力行使を行う権限が与えられていた

蒸気船が発明され、アメリカはハワイ・日本を給炭地として経由する太平洋航路の開拓に向かおうとした。ペリーの日本遠征目的は決して武力的侵略ではなかったが、もし日本が拒絶する場合には武力行使を行って、琉球及び小笠原諸島などを占領して海軍の根拠地を作り、シナに至る戦略上の要衝の地をアメリカの手で押さえる方針があり、ベリーには武力行使の権限が与えられていた。
「鎖国」前後のアジア諸国

台湾からオランダを追い出した、日本人を母に持つ台湾の英雄

寛永十二年に日本人の海外渡航と国外にいる者の帰国が禁じられ、そのため朱印船が台湾に向かうことがなくなり、オランダが台湾を植民地にした。日本人を母に持つ鄭成功は、明を滅ぼした清と戦うため、台湾を拠点にしようとしてオランダ勢力を追い出してしまう。もし鄭氏政権が起こらなければ、おそらく台湾は二次大戦までオランダの植民地であり続けたことであろう。
「鎖国」前後のアジア諸国

台湾を占領したオランダと戦った日本商人・浜田弥兵衛

オランダが侵略する以前の台湾の記録  台湾に関する古い記録を探していると、柴田賢一 著『日本民族海外発展史』の記述が目に止まった。日本人たちは戦国時代から、台湾に勢力を伸ばしていたのである。  支那人はこれを領土と称してはいたが、その実支那...