「倭寇」と『明史』に記録された経緯
室町時代の邦人の海外発展については「倭寇」という言葉が教科書などに必ず出てくる。学生時代に学んだ時に、日本人が海賊行為を働いたとの説明に違和感を覚えた記憶があるのだが、この時代の邦人の海外進出については、戦前の本と戦後の本とは大きく内容が異なっている。
戦前に「倭寇」という言葉を用いる研究書も少なからず存在していたのだが、そもそもこの言葉は、13世紀から16世紀にかけて中国大陸の沿岸部や東アジア諸地域に於いて活動していた日本の私貿易、密貿易船の、中国・朝鮮側における蔑称であり、このような言葉をわが国の歴史叙述にそのまま用いるべきとは思えない。今では全く用いられなくなってしまったが、戦前・戦中の日本史研究書においては「八幡船(ばはんせん)」という言葉を用いて解説している本がかなり存在する。海禁政策を採っていた明国にとっては、民間の商人同士が生活必需品を交易することすら非合法であり厳しく取り締まられていた。また『明史』には後期倭寇の掠奪行為などが具体的に記されているのだが、そのメンバーの多くは中国人であり、後には中国人が日本人になりすまし、八幡大菩薩の大旗を掲げて、自国の沿岸をかすめる者が出て来たことが中国の正史に明記されていることを知るべきである。倭寇については以前ブログで4回に分けて記事を書いたので、興味のある方は覗いていただければ幸いである。
では『素描祖国の歴史』には室町期の邦人の海外発展についてどのように解説されているのであろうか。
室町時代における国民層の活動を最も鮮やかに我々に呈示するものはその海外発展の目覚ましさである。従来支那・朝鮮に出かけた人達は、海賊であり、内地に於いてその志を得ない者、例えば吉野朝廷側の敗残者のごとき者であるかのように説かれた。この考えは今ではまったく誤りとされるに至った。第一に海賊という中世の言葉は、我々が今日それによって考えているところとは異なり、単に海軍の意味で使われていることが甚だ多い。中世の遠隔地の商業が武装なしには行い難いこと、洋の東西を問わず同様で、まして支那・朝鮮への貿易商人が多少の武器なくしては叶わない。ここにこれらの貿易商船隊が当時海賊の名を以て呼ばれたことは甚だ理解しやすいところである。
次には支那政府が日本の商人を海賊視し、その正史にしばしば倭寇の襲来を以てした。これは当時の支那政府は国と国との貿易をのみ認め、民間の貿易は禁止したから、私貿易は密貿易と見做され日支商人ともに支那官憲の弾圧を受けたのであった。しかも南支の支那住民とわが九州・中国の商人には平安時代以来親交が続けられ、私貿易はやむにやまれぬ勢いにあったのである。ここに支那官憲との衝突が必然的に繰り返され、倭寇を記録される結果となった。この支那正史の記事をかつてのわが国の歴史家は正直に認めていたのであった。このように室町時代のわが支那・朝鮮貿易商人は決して海賊ではなく、立派な商人であった。決して国内に居られなくなって飛び出したような浮浪の徒ではなかった。吉野時代以前から、平安末から日宋の交通は盛んで、宋銭の輸入はすでにわが国内の銭貨の鋳造の止んだこの時代において、国内の貨幣として用いられるに不足ないほど多く日本に持ち込まれていた。これらの銭貨は足利将軍が貿易でこれを国内にもたらす以前に、わが商人によって持ち来たされていたので、わが商人は何によってかかる巨大の宋銭を得たかといえば、恐らく南洋の高貴な薬品・香料・宝石の類を支那に転売して得たものであると思われる。少なくとも室町末にはわが商人が南洋諸国に赴いて、珍奇の品を入手し、これを支那に売り捌いたことが明らかである。
従来このような南方貿易の花形は琉球船だとされていたが、近時の研究によって、これがわが商人の琉球国の名をかついで行った活動であることが知れて来た。わが戦国の頃ポルトガル人のインドに来たものが、当時東亜の海の支配者はゴーレスであると記している。そのゴーレスこそわが薩摩の一部であることが、第三高等学校の藤田元春教授によって発見された。琉球は土地が痩せているため、早くより海外貿易に頼らざるを得ない国情にあったから、貿易の発展に力を入れたであろうが、到底わが国民の支援なくしては、支那・朝鮮を相手に十分の活動は果たし得なかったのである。琉球の影にわが国があって、はじめて琉球の異常な貿易活動が釈然とする。単なる中継貿易では、琉球商人の地位は直ちに南支の商人に奪い去られたであろう。わが国人の勇気と気力とわが国産業界が背後にあってこそ、根強い活動が可能であったのである。このような目覚ましい活動は決して、国内の不平分子やあぶれ者の力によって成し遂げられるものではない。正常な国内商業力の発展に伴う海外進出であって、海賊のごとき不純の分子によるものではなく、平安時代以来の貿易商人の自然的な成長の上に築かれたものに他ならない。
清水三男『素描祖国の歴史』星野書店 昭和18年刊 p.92~95
このように清水三男は、中国や朝鮮が「倭寇」と呼ぶ、わが国の商人たちがならず者の海賊であったという解釈を明確に否定している。ところがわが国の戦後の教科書では、清水が「全くの誤りとされる」とした説が、主流になってしまってはいないか。
私も清水の主張を支持する一人だが、のちに豊臣秀吉が南蛮貿易を奨励し有力な商人らに朱印状が交付されたのだが、以前ブログで書いたように外国人(ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンほか)にも朱印状が発行されている。注目すべきは、日本との交易が禁じられていた明国の商人にも11人に朱印状が発行されている点である。例えば、李旦は福建の海賊出身で、「後期倭寇」の頭目であった王直とともに活動し長らく平戸に居住していて、王直の死後その貿易ルートを受け継いだ人物である。なぜ倭寇の頭目を引き継いだ李胆に朱印状が交付されたのか。この問いに対しては、戦後の教科書の記述に問題があると考えないと理解困難だと思う。
明の沿岸地方を荒らしまわる「倭寇」の記録が江戸時代に入ってほぼなくなったのは、それまで非合法活動をせざるをえなかった中国の商人が、わが国と南方諸国との交易に関与出来るように江戸幕府が朱印状を与えで合法扱いさせたことが大きな要因であると考えるのが妥当であろう。
豊臣秀吉の天下統一
豊臣秀吉に関する歴史叙述に於いては、戦前とは違って戦後は低く評価されることが多いのだが、清水三男は次のように解説している。
秀吉の民政中、最も国民生活に与えた影響の大きいものは言うまでもなく、検地事業であった。これは信長にすでに始まったものであるが、全国に及ぼしたのは秀吉の力である。荘園制度廃止と新しい税法のために不可欠な事業で、武力による全国統一にも劣らぬ大きな仕事であった。
尺度も升目も地方により異なり、同じ荘園でも納升と収入の升と別のものを用いたことの多いこの時、全国を一定の間竿(けんざお)で測量して、新たに検地帳をすっかり作り上げ、京升を以て標準の升とし、統一を計ったことは、兵農分離によって農民を武士に隷従させ、両者の身分の別を固定させる政策と関連し、その点必ずしも国民生活の向上に資したとはいえないけれども、土地制と度量衡の統一、貨幣の統一が商工業発達に多大の便宜をもたらし、その点より国民生活の安定を来たし、近代国家の形勢に力を致した功は没すべきではない。
もちろんせっかく向上の一路をたどっていた農工商の民を兵農分離によって武器と気力を奪い、隷従卑屈の地位に陥れたことはその罪過であるが、荘園制の撤廃、租税制度の統一などは一応国民生活伸長の線に沿った改革であった。秀吉という人はこのように甚だ平民的な要素と、暴君的な要素の併存した人物であったのである。しかし家康以後の政策に比べると、なお著しく秀吉は国民生活の自由な進展に資した、平民的な明るい政治家であった。これ彼が国民的人望をながく持っている所以である。…中略…由来政治家には術数の人が多く、頼朝や家康のごとく、冷酷な陰性の人が多いが、秀吉は無邪気さを失わなかった。そのような為政者を当時の社会は守り立てたのであった。国民全体の若々しさというものが、このような平民的な人物を育てたのであった。はじめから家康のような権柄づくを発揮しては、刀狩りや検地に伴う農商の民との衝突を収拾できなかったであろう。秀吉でもずいぶん残酷な圧政を敢えてしたが、根に愛すべき稚気があり、民とともに楽しむ温かい情があった。巧まずして人心を得た人であった。
同上書 p.98~101
どんな組織においても、メンバーから信頼されていないといい仕事ができないのと同じで、刀狩りや検地のような仕事は、国民から信頼されていなければ成し遂げられるものではないだろう。リーダーには性格の明るさと、組織のメンバーに対する温かい情が不可欠なのは、いつの時代もどの組織でも同じであると思う。
戦後の日本史教科書や概説書には、秀吉がバテレン追放令を出した経緯について重要な史実を伏せるのだが、清水三男の解説を引用しよう。
彼がキリシタンを禁止したのは、宗教上の統一のためではなく、第一に教会領の形で外国人の領地が日本国内にできることを憂い、天主のためには君臣の義をも破るという信条が国体にもとることを恐れ、また日本人がポルトガル人らの奴隷として買われて行くことのあるのを憤ったためであった。
同上書 p.101~102
彼は決して西洋の文化一切が嫌いであったのではない。チェンバロの弾奏を喜んで聞いた彼にキリシタン文化が全然理解しがたいものではなかった。キリシタンは禁止しても、貿易を許したのは、単に貿易による物質的なりを求めたのみではなく、その文物に対する摂取の欲望が強く動いていたことに基づくものと思う。秀吉にキリシタンの教えが正当に判ったとは思えない。いな宗教一般が判らなかったろう。それほど彼は現世的な人物であり、素朴な人間であった。それだけ家康のように偏頗な宗教政策もとり得なかった人である。秀吉のキリシタン禁止は宗教政策として行ったものでないといっていいと思う。
豊臣秀吉の祐筆であった大村由己(ゆうこ)が、秀吉の九州平定時に同行して記した『九州御動座記』に、秀吉が『伴天連追放令』を発令した経緯について記した部分がある。
今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々の宝物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁盛の計略を廻らして、すでに後戸(ごと:五島)、平戸、長崎などにて、南蛮舟つきごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず、黒船へ買取り、手足に鉄の鎖(くさり)を付け、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、その上牛馬を買い取り、生きながらに皮をはぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。見るを見まねに、その近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候よし、つくづく聞しめし及ばれ、右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。
徳富猪一郎『近世日本国民史豊臣氏時代 乙篇』民友社 p.386~387
この時代に日本人が奴隷に売られていたことは、当時日本にいたルイス・フロイス記録などにも詳しく記録されていて、売られた奴隷の数は半端な数ではなかった。こういう史実が戦後の歴史叙述から抜け落ちてしまっている。
戦前・戦中には、児童向けの秀吉の伝記にも日本人が奴隷に売られていたことが書かれているものがあり、多くの日本人がその事実を知っていたと思われるのだが、戦後になって多くの書物が焚書されてしまい、最近までこの事実はほとんど知られていなかった。秀吉についてはキリシタン弾圧をしたことをことさら強調するテレビ番組をたまに観るのだが、大量の日本人が奴隷として売られていたという史実を語ることは今もタブー扱いされているようだ。
スペインやポルトガルはキリスト教の布教によりわが国の植民地化を進めようとしたのだが、わが国がいかにしてその企みを斥けたかについては、拙著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』に根拠となる資料を呈示してまとめたので参考にしていただくとありがたい。
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