GHQ焚書の『南洋物語』に「後期倭寇」はどう解説されているか
前回の記事で、貿易の利益が莫大であったことでその利権を巡って大内氏と細川氏との紛争が激化し、日明貿易が鎖されるに至り、それ以降後期倭寇が急増したことを書いた。
後期倭寇が起った背景について、戦後GHQに焚書処分された著作である柴田賢一著『南洋物語』には、次のように解説されている。
明は、海禁と言って一種の鎖国政策をとり「私貿易」を厳禁した。だが、当時すでに日本に送られる支那の貿易品には生活必需品がかなりふくまれていたので、日本はだまって支那の「海禁」に応ずるわけにはいかなかった。当然の結果として、わが国の「私貿易」は盛んとなった。八幡船(ばはんせん)は、実にこの「私貿易船」の別名にほかならない。
だから、八幡船(ばはんせん)を海賊船みたいに思いこんでいるのは間違いである。その目的はどこまでも貿易だったわけである。一般に誤解を招いているが、その責任はむしろ八幡船隊よりも支那側にあった。利益を見る事に抜け目のない支那の奸商たちは、日本人をあざむき、遠路わざわざ日本から運んでいった貨物を詐取して代価を支払わないことがしばしばあった。日本人がその不法なことを詰問して代価の支払いを要求すれば、奸商たちは、日本人が合法的な貿易を営んでいないことを奇貨とし、土地の官吏や、豪商などと結託し、武力によって日本人を駆逐しようとした。勢い日本人は万やむを得ず武力によって対抗せざるを得なかった。八幡船はいつでも、いわゆる「和戦両様」の準備を整えていたのである。彼らに海賊の名を冠して、徒にこれを異端者扱いする風が深くわが国民の頭に滲み込んでいるのは遺憾千万と言わねばならない。彼らこそは、日本貿易界の先頭に立って、勇敢に海外へ押しわたって行った「海の子」だったのである。私たちはあらためた眼で八幡船の活躍を見直さなければならない。
(柴田賢一著『南洋物語』 p.148~149 昭和16年刊)
柴田氏は「倭寇」という言葉を用いずに「八幡船(ばはんせん)」と記しているが、戦前には「八幡船」という用語を用いている著作が他にも少なからず存在している。
「バハン」の語源については、日本の船には海上安全を祈願して八幡大菩薩の幟を立てていたことに由来するという説があるが、この説では「バハン」という読み方になった理由を説明できない。中国語では「バハン」は他国へ掠奪に行くことを意味する言葉であり、語源は中国側にあると考えられる。
『明史』日本伝は、「後期倭寇」が激増した1550年代についてどう記しているか
上の図は、前回記事でも用いた「倭寇」の年度別侵攻回数のグラフだが、1550年代から件数が激増した背景について、『明史』日本伝ではどのように書かれているか調べてみた。
当初は中央から派遣した官吏が交易の価格を公平に決める仕組みが存在していたのだが、世宗の時代(1521~1566年)にその制度が撤廃されて中国沿海地方の悪徳商人たちが交易の利権を手中に収めてしまった。さらに外国人との密貿易の取締りが厳しくなると、悪徳商人たちは公平な価格を守らず、日本商人の利益が大幅に損なわれたことが『明史』に記されている。では、日本商人たちはどう動いたのであろうか。『明史』の訳文を引用する。
倭人は商売のもとでを使い果たして国に帰るに帰れず。深い怨みを抱いていた。そのうえ、大悪党の汪直*(おうちょく)・徐海(じょかい)・陳東(ちんとう)・麻葉(まよう)のごとき輩は、日ごろから倭人の中にくいこみ、国内ではかってにふるまうわけにはいかないので、すべて海上の島に逃れて奸計の采配をふるった。倭人たちが言いつけに従えば、彼らを誘って本土を掠奪した。外海に出たこれらの大盗賊は、やがて倭人の旗じるしをまねて用い、船団をいくつかに分けて本土に侵攻して掠奪し、一人残らず大いに懐を肥やした。こういうわけで、倭寇による損害は日ましにひどくなってきた。…
嘉靖三十二年(1553年)三月、汪直はもろもろの倭寇と結託し、大挙して侵攻してきた。数百隻の軍艦が、海を蔽わんばかりに連なって攻め寄せた。浙東・浙西・江南・江北に及ぶ沿海数千里にわたって同時に警報が発せられた。賊はまず昌国衛を破り、四月には、太倉を侵略し、上海県を破り、江陰を奪取し、乍浦に攻めこんだ。さらに八月には、金山衛を襲い、崇明及び常熟・嘉定を侵略した。…
*汪直:中国の明代の海商で後期倭寇の頭目。王直とも表記し、本名は王鋥(おうとう)と言う。
(講談社学術文庫『倭国伝』p.420~421)
こんなぐあいに『明史』には、以降30年にわたる主だった「倭寇」の掠奪行為などが具体的に記されているのだがそのメンバーの多くは中国人であり、後には中国人が日本人になりすまし、八幡大菩薩の大旗を掲げて、自国の沿岸をかすめる者が出て来たことが明国の正史に記されているのだ。
ではどれぐらいの中国人が「後期倭寇」に関与していたのだろうか。『明史』にはこう記されている。
これらの賊軍のあらましは、真の倭人は十人のうち三人で、残りの七人は倭人に寝返った中国人だった。倭人は、いざとなると、捕虜の中国人を先陣に駆りたてた。軍法が厳しかったので、賊軍の兵士たちは死にもの狂いで戦った。ところが官軍の方はもともと臆病者ぞろいだったから、戦えば必ずなだれをうって逃げるというしまつだった。
(同上書 p.422)
このように『明史』を読めば、後期倭寇で中国沿岸にて略奪行為を繰り返した勢力のメンバーの大半が中国人であったことが明らかなのだが、戦後のわが国の歴史教科書や多くの参考書では、この重要な事実がほとんど無視されている。
後期倭寇の頭目であった王直のこと
私の別のブログで、鉄砲伝来のことを書いたことがある。
薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長十一年(1606年)に著した『鐡炮記(てっぽうき)』という書物には、天文十二年(1543年)に中国船が種子島に漂着し、「五峯(ごほう)」という中国人が村の西村織部丞と筆談によってこの船が貿易船であることを伝え、織部丞がこの船に乗っていたポルトガル商人を城主の種子島時尭に引き合わせることによって、わが国で最初に鉄砲が伝えられることになるのだが、詳しい経緯は上記の記事を参照願いたい。織部丞が筆談をした相手の「五峯」は倭寇の頭目であった王直の号と同じであり、種子島に鉄砲を伝えたのは、その王直であったと考えられている。
王直は中国安徽省出身で、以前は塩商であったが失敗して禁制品を商う密貿易に従事するようになり、東南アジアや日本の諸港を中心に活動した。その後明の取締りが厳しくなると1540年に日本の五島列島に根拠地を移し、1542年には松浦隆信に招かれて平戸に移っている。王直が居住した五島列島の福江島には、航海の安全の為に王直が建立したと伝わる明人堂(五島市指定文化財)や六角井(長崎県指定文化財)が残されている。
そして種子島に鉄砲が伝来したのは、王直が平戸に居を移した翌年のことなのである。
柴田賢一氏は別の著書で王直を次のように解説している。
彼は海禁を破って日本や暹羅(シャム:現在のタイ王国)と貿易を行って巨富を積み、且つ四方に周遊して日本の形勢に通じ、私貿易の徒と親交があった。その党はこれを五峯船主と呼んでいた。後門太郎次郎、四助四郎等と相結んで方一百二十歩の巨船を造った。千人を容るるに足り、木をもって城と楼とを船上に建て、船上馬を走らせて海上の一大勢力であった。肥前平戸の豪族松浦氏はこれを迎えて平戸に居らしめ、待つに貴賓の礼をもってした。汪直は自分を「徽王(きおう)」と称して勢威いよいよ強大であった。彼は明の嘉靖三十四年(1555年)数十の私貿易の徒を糾合して支那に侵入し、連艦数百、海を蔽うて至り、浙の東西、江の南北、浜海数千里、同時に警を告げたが、先ず昌国衛を破り、次いで大倉、上海県、江陰、乍浦、金山衛、崇明、常熟、蘇州、松江、通泰、嘉興を掠め、川沙窪、拓林をその本拠として勢力四隣を圧した。嘉江では明の総督兵部尚書の張継の本隊と会戦、死者千九百人にも及んだという。もってその戦闘の如何に大規模であったかを知るに足ろう。
(柴田賢一 著『日本民族海外発展史』p.17 昭和16年刊)
王直は、明国にとっては密貿易を行う悪い連中であったのかもしれないが、その実力は明軍が戦って鎮圧できるレベルではなかったのである。そこで明は王直を暗殺する計略をめぐらし、平戸にいる王直を明国に誘い出そうとしたのである。
GHQ焚書の高須芳次郎 著『海の二千六百年史』にはこう記されている。文中の胡宗憲は浙江総督である。
(1557年)胡宗憲は、汪直が故国に残しておいた母および夫人を迎えて手厚く待遇し、頻りにその歓心を買うことに努めた。それから彼は、旨を蒋洲および陳可願の二人に伝え、巧みに王直を故国に誇(ほころ)い出すべき計画を授けたのである。
そこで蒋・陳の二人は渡日して、王直を平戸に訪うた。王直は、好意を示してこれを迎え、母や妻の消息を二人から聞いた。時に蒋洲は、王直に向かい、王直の尽力を請いたいことを述べた。
これについて王直は「いま日本は国内に戦争が続いていて、統一されず、たとい、倭寇のことについて、請うても、目的を果たすことはむずかしい。しかし、自分に故国に帰らせる自由を与えられるならば、何とかして、ご希望を必ず達するようにいたそう。」
よって蒋洲は「何分よろしくお願いいたしたい」と言ったので、取りあえず、王直は、その養子毛峰(もうほう)を陳可願に従わせて、故国に赴かせた。それから蒋洲を豊後の大友氏に紹介し、斡旋につとめた。大友氏は蒋洲を歓待して、一年の後、僧徳楊ら四十人を蒋洲の帰国の折に出発させ、明に赴かせたのである。
この頃、毛峰は、明において優待されて平戸に帰り、王直の母および夫人のことを話して、一応明に帰るべきことを切に勧めた。それで王直も心動き、胡宗憲の策略にかかるとも知らず、王激を伴うて平戸をあとに明に向かった。
…中略…
ところが、いよいよ明に着いて、上陸してみると、意外の光景に接したのである。それは、武装物々しい軍隊が整列して警戒につとめ、王直らに冷ややかな眼を注いでいるのである。この時王直は、忽ち胡宗憲の心事を看破り、「欺かれたな」と思った。
(高須芳次郎 著『海の二千六百年史』p.103~105 昭和15年刊)
かくして王直は捕らえられ、1559年に死罪に処されてしまう。そして明は大船を建造し、倭寇勢力への攻撃を強化していくことになる。
王直が明国を相手に戦った理由はどこにあったのか
王直が本拠とした平戸といえば、1550年に松浦隆信が南蛮貿易をはじめることを許して、平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港している。また同年にフランシスコ・ザビエルが平戸に来航し、キリスト教の布教を始めている。そしてポルトガル商人は1553年から1561年まで毎年平戸に来航するようになったのである。
このことは、これまで日本や東南アジアの商圏を苦労して開拓してきた王直にとっては死活問題であったに違いない。
前回記事に書いた通り、彼らの貿易による利益は莫大であったが、競合する商人が参入するとなると利益率が大幅に低下することは言うまでもない。さらに重要なことは、明国は海禁政策を採っており、王直らの活動は、正当な生活必需品の交易を行っていても非合法扱いであった。ところが松浦隆信がはじめた南蛮貿易は、主君筋にあたる大友義鎮の許可を得たものである。このままでは、王直が開拓した市場とその利権をポルトガル商人に蚕食されていくことは目に見えている。
せめて明に海禁政策をやめさせたい。明が海禁政策をやめないのであれば、自由な貿易が可能な国家を建てるしかない。王直はそう考えて、この時期に明軍を圧倒する船団で攻撃に出たのではなかったか。彼らがただの海賊であったならば数百艘の船で戦う必要などなかったはずなのだ。
前掲の高須芳次郎の書には、こんな一節がある。
彼(王直)は、日本民族の精神に共鳴し、殊にその勇武に絶対の信頼を置いた。それ故、彼は、「一万人の日本兵を率いていくならば、明国を滅ぼすことは、極めて容易であろう」と言ったのである。彼の智謀、彼の胆略は、全く見上げたもので、支那人中、稀に見る一英傑といってもよい。たといその行動の上には醇正を欠くところがあるにしても―。
(同上書 p.106~107)
また、先程紹介した柴田賢一氏の書物に、スペイン・ポルトガル勢力と倭寇勢力との間に制海権を争う戦いがあったとする一節がある。
天文十二年(1543年)前後にポルトガル人が来航したのを端緒として、スペイン人もまたこれに続き、以来、その来航は年一年と頻繁となり、彼らは天主教を伝えるとともに貿易の拡張を計った。当時九州の豪族であった大友宗麟や松浦法印等の後援を得るに従って、次第にその貿易額と宗教的勢力は強大となり、肥前の平戸は彼らの対日貿易の中心地となった。しかし、彼らの日本訪問には少なからぬ危険があった。八幡船隊は明の沿岸や諸島嶼、南の大宛(台湾のこと)日本の近海は言うに及ばず我物顔に往来して出没変幻を極めた。スペインやポルトガルの強大をもってしても、如何ともなしえなかった。そこで両国は相結んで各々十二隻の戦艦を平戸に集めて八幡船を求めて戦った。言はば制海権を争ったのである。近代的装備を有する両国艦隊も、容易に八幡船を掃討することはできなかった。
こうしている間に、秀吉は天下を統一して天正十六年(1588年)私貿易禁止の厳命を発して海外貿易の自由を保障し、更に家康が秀吉の政策を踏襲して平和的発展のみを求むるに及んで、八幡船隊の威勢は次第に衰えて、慶長から元和に至る間に全く滅び去った。
(柴田賢一 著『日本民族海外発展史』p.18~19)
それまで活発に行われていた民間の貿易取引を、明国が力によって阻止しようとしたことに無理があったと考えるべきではないだろうか。スペインやポルトガルが海外に貿易権を拡大していた時代の流れに逆行するような明朝の海禁政策のために密貿易が生じ、それを武力で取り締まろうとしたために貿易商も武装を余儀なくされ、「海賊」と呼ばれるようになったという見方が正しいのではないだろうか。
王直が一時期居住していた五島列島の福江島には明人堂などの施設が今も大切に残されており、毎年10月に行われる福江みなとまつりでは「明人堂祈願祭」が行われているのだそうだ。 少なくとも福江島の人々からすれば王直は悪人などではなく、貿易を通じて地域の繁栄に貢献した人物として評価されてきたと理解するしかない。
いつの時代もどこの国でも、時の為政者に戦って敗れた者は悪しざまに描かれて後世に伝えられる運命にあるものだが、この時代の歴史を世界の動きの中で見ていけば、王直はもっと高く評価されてもおかしくない人物ではないだろうか。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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