永松浅造の戦前・戦中における著書の4割以上がGHQによって焚書処分されていることを書いたが、今回紹介させていただく『海ゆかば:皇国海戦史』もまたGHQ焚書である。
GHQは日本が戦争で勝利した話の多くを封印しようとしたと理解すればよいのだろうか。
日清戦争における海軍戦力比較
この本には海軍が出来てからの海戦だけでなく、元寇、八幡船が英国艦を降伏させた話なども記されているのだが、日清戦争における黄海海戦の話を紹介させていただく。
結果は日本の勝利となったのだが、日清開戦当時の海軍戦力を比較してみると、清国の方がはるかに優位にあったことは意外であった。
日清開戦当時の日本と清国との海軍勢力を比較してみると、
【日本】
軍艦二十八隻、水雷艇二十四隻、総排水量トン数五万九千六十八トン
【清国】
軍艦六十三隻、水雷艇二十四隻、総排水量トン数八万四千余であった。また、その主力艦を比較して見ても、清国の主力艦定遠、鎮遠は、七千三百五十トンで三十センチ砲四門を備えている。四十年前にしては、驚くべき大戦艦である。
日本は最大軍艦松島でさえも四千二百七十八トンであった。
この貧弱な艦隊をもって、どうして戦うのか。しかし、こうした量の上から見ると、確かに清国艦隊はわが国に優れているが、戦争は決して量の大小によって勝ち負けが、決まるものではなく、むしろ質の問題である。
この質――日本海軍の質の優れている点では、到底清国海軍は、日本海軍の敵ではないのだ。当時、浪速の艦長であった東郷元帥は、清国の海軍を十分に研究し、その結果、
「支那の海軍は、焼身の名刀である」
と断言した。ことに、清国の艦隊は戦争となっても、その全部が戦争に参加するのではなかった。
永松浅造 著『海ゆかば : 皇国海戦史』大果書房 昭和17年刊 p.217~219
清国の艦隊には、北洋、南洋、福建、広東の四艦隊があるが、実際に戦争に参加できる艦隊は、北洋艦隊と広東艦隊の一部だけであった。
その総数は、
軍艦二十五隻、水雷艇十三隻、総排水量トン数五万余で、むしろ我が艦隊よりも九千トン余少なくなる。だが、その定遠、鎮遠など侮りがたい優秀艦を持っていたから、決して油断が出来なかった。
松島は、三十二センチ砲一門と十二センチ速射砲十二門だから、主力艦の兵力差も歴然としていたのである。普通に考えて、簡単に勝てる相手ではない。
黄海海戦
そして、明治二十七年(1894年)九月十七日に黄海海戦で両軍の主力が戦うこととなる。当時はレーダーはなく空をこがす黒煙が敵の接近を知らせる合図となる。
午前十時二十三分、戦闘の吉野艦の右舷はるかな北東に、かすかに立ち上がる煙を見つけた。
いよいよ丁汝昌(ていじょしょう)の北洋艦隊が出てきたのだ。
伊藤司令長官は、ただちに游撃戦隊に攻撃の命令を下した。
やがて十一時三十分、わが艦隊は直ちに単縦陣を取り、赤城及び西京丸を艦隊の列外に配置し、各艦は翩翻(へんぽん)たる大軍艦旗を掲げて、戦機の熟するのを待った。敵艦隊は速力七ノット*、三艦群陣の陣形をとり、定遠、鎮遠の二隻を先頭に、左翼に來遠、致遠、廣甲、済遠、右翼には経遠、靖遠、超勇、揚威等を随え、堂々としてわが艦隊めがけて航進していた。
わが艦隊は十ノットの速力で、敵に近づいた。
午後一時十分前、敵の旗艦定遠は焼く六千メートルを離れて先ず火ぶたを切った。その他の敵艦も射撃して、吉野の近くにものすごい水煙が立った。
しかし、わが艦隊は少しも動ぜず、黙々と距離を狭めて行った。彼我の距離三千メートルになった時、坪井司令長官の攻撃開始の命令が下った。
先頭の吉野が、敵の右翼艦を撃ち、次いで、高千穂は定遠を砲撃し、秋津洲、浪速と順次砲火を開き、ここに壮烈なる大海戦が開始された。わが速射砲は、ここぞとばかり、猛威を振るう。
敵艦超勇は、早くも火災を起こして、赤黒い煙につつまれた。揚威にも火の手が上がった。
遂に、超勇、揚威は鴨緑江近くの陸地に向かって逃げ出した。敵艦隊の右翼が乱れたので、さらにわが艦は、左翼の攻撃に移った。
提督旗をかかげた定遠のマストと、鎮遠のマストは、わが砲弾のために折られ信号機も悉く焼失したので、各艦に対して号令することもできず、敵艦は、統制がとれなくて支離滅裂に乱れかけてきた。わが艦隊は、早くも敵の左翼艦の速力が遅いのを見て、先ずこれに猛射を浴びせかけた。
経遠、超勇、揚威を大破し、また右翼の致遠および廣甲を撃沈した。
敵の主力艦である定遠、鎮遠もまた相次いで火災を起こし、見苦しい格好でのた打っている。しかし、わが軍もなかなかの苦戦だった。
わが本隊の比叡は、定遠と來遠の包囲に陥った。
比叡の艦長桜井少佐は、自爆の覚悟で、艦を定遠と來遠の間に突入させた。
三艦の猛烈な射ち合い、砲煙はもうもうとあたりに立ちこめ、比叡は火を噴きながら、走り続けた。
その時、來遠の距離僅か四百メートル、まことに舷々相摩す接触ぶりで、敵艦の甲板に、多数の支那兵が群がって、手に手に青龍刀を振りかざして喚き叫んでいるのが手に取るように見える。
比叡艦上より、忽ちノンデンフェルト機関砲(機関銃の旧式なもの)が、ド、ド、ド、ドッと火を吐く。支那兵は悲鳴をあげて、なぎ倒された。…中略…
來遠から比叡に止めを刺すために頻りに魚雷を発射する。比叡は巧みにこれを避けて苦戦奮闘したが、遂に、
「本艦火災、列外に出づ。」
との信号を掲げて、戦列を脱した。赤城もまた來遠、致遠、廣甲の三隻に包囲攻撃を受け、三十以上の敵弾を受けて火災を起こしたが勇敢に戦い、必死の一弾は、來遠の急所に命中し、敵艦に火の手が上がった。幕下が横綱を屠ったよりも大きな脅威だ。これに怯んだ敵艦は、忽ち包囲を解いて逃げ出した。ここで赤城は全速力で本隊の戦場へ急行した。しかし、艦長坂本八郎少佐は敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げた。
同上書 p.220~223
*1ノット:1時間に1海里 (1852 m) 進む速さ
戦端を開いて約二時間、第一回の射ち合いが終わり、日本軍は比叡と西京丸が戦場から離れ、敵は、左右両翼の陣形が乱れたままの状態であった。
日本海軍大勝利
やがて、第二回の射ち合いが始まった。
わが軍は鎮遠と定遠に砲火を集中し、定遠は大火災を起こした。
敵艦致遠は、相続く敗戦に気が変になったのか、やけになってわが游撃隊の吉野、高千穂に艦首をぶっつけようと猛然突入してきた。
小癪千萬! とばかり、我の放った巨弾は見事致遠の急所を射抜き、艦体は忽ち逆立ちになって赤い腹を見せながら沈没してしまった。午後三時二十六分、鎮遠の射った三十センチ砲の巨弾二発がわが旗艦松島の甲板に命中した。
それと同時に、松島の火薬庫に火が回って轟然たる大爆発が起こり、忽ち艦上一面が濛々たる火煙に包まれた。
この時の死傷者は志摩大尉以下六十八名に及んだ。
…中略…海上では、我が松島がこの大損害にもひるまず応戦した砲弾が当たって、定遠は火に包まれている。…中略…
残念ながら、松島は砲は砕け、マストは傾き、戦闘不可能となったので、四時七分伊東司令官の命令で艦列を離れた。游撃隊は、本隊の苦戦と違って、敵艦追撃をつづけ、吉野、高千穂は経遠を撃沈した。敵の経遠艦長林永升(りんえいしょう)は、沈没の前にピストルで自殺し、経遠は焔と煙に包まれ、左に傾いて沈むまで戦ったのは、敵ながら壮烈だった。
この戦いで、敵は致遠、経遠、揚威、超勇を沈められ、廣甲は大連湾で爆沈した。
同上書 p.224~226
我が艦隊の大勝利である。
敵の丁汝昌は残りの艦をまとめて旅順方面に逃げ去り、黄海海戦は日本の勝利で終わった。この海戦で日本海軍は黄海一帯の制海権を確保し、陸軍は続々と遼東半島に上陸し、その後海陸協力して威海衛に迫ることとなる。
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