伊勢神宮の神領地域に多数の寺があった
伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀り、歴史的に皇室・朝廷との結びつきの深い神社であるが、かつてこの神社は仏教との関係が深く、周辺に多くの寺が存在したという。
大正十三年に出版された利井興隆氏の『祖国を憶ひて』という書籍にはこう記されている。
我が国家的中心たるあの伊勢の大廟を、仏教を離しては判らないと、鷲尾順教氏は言うております。これを聴いたならある人は驚くかも分かりませんが、少し史実に明るい人なら容易にうなづく事が出来るであろうと思います。伊勢の内宮外宮に寺が百八十九、尼寺が二十一あって寛文十一年(1671年)十一月十四日に焼失しました。大神宮と仏教との関係の深いことはこの一事を以ても知られます。しかるにその後、山田の奉行桑山下野守はこれが再建を禁じました。仏教排斥の意味をそこに見ることが出来ます。
(利井興隆 著『祖国を憶ひて』一味出版部 大正13年刊 p.38)
伊勢神宮の御膝元にこんなに多くの寺があったというのは意外であったが、火災の後もまだ多くの寺が残っていたので、これらが明治初年の神仏分離令のターゲットとなっている。大正十四年刊の羽根田文明著『仏教遭難史論』にはこう解説されている。
明治初年に、伊勢国山田に、度会府(わたらいふ)を置き、旧公家橋本實梁(さねやな)を、府知事に任ぜられた。同地宮川と五十鈴川との中間地を、すべて川内と呼んだ。これ神宮の神領地域である。
(羽根田文明 著『仏教遭難史論』国光社出版部 大正14年刊 p.145~146)
その川内神領地に、天台、真言、禅、浄土等の、各宗寺院が、六十余個寺あり、中にも外宮の神宮寺*に常明寺、内宮の神宮寺に天覺寺、又天照皇山、大神宮寺というのがあった。同地は元神領にて、両神宮の所在地であるから、排仏思想者たる橋本知事には好都合の地であった。
ここに橋本知事は、神宮の神職と結託して、己が廃仏思想を実現せんとて、まず川内神領地において一切仏葬を禁止して、悉く神葬すべしと布令した。これ六十余個寺の、檀徒を奪い去ったのである。
寺属の檀徒を前に奪いて、後に各寺住僧を呼び出し、今般当地方に於いて、一般、仏葬を禁じて悉く神葬することを布告したに就いて、最早(もはや)各寺とも、寺を維持する資料がない。ゆえに各寺院とも、住僧と檀徒総代と連署して廃寺願書を差出すとともに住僧は帰俗すべし。すなわち今廃寺を願い還俗**する者は身分を士族に取扱い、かつその寺院に属する堂塔等の諸建造物、及び什器等、ことごとくみな、前住僧の所得に帰す。もし、この際、廃寺願書を呈せず猶予する者は、近く廃寺の官令降る時は、上記の物件、みな官没となる。ゆえによく利害得失を考え、一刻も早く、廃寺願書を呈出する方が、得策であろうと、説諭に及んだ。
*神宮寺:神仏習合思想にもとづいて神社に建てられた仏教寺院
**還俗(げんぞく):僧侶であることを捨て、俗人に戻ること
なぜ大半の寺院が廃寺願書を提出したのか
度会府の橋本知事は、着任早々仏葬を禁止し、寺院が経済的に成り立たなくなるようにしてから、寺僧を集めて全員に廃寺を迫り、廃寺に応じで還俗したならば、寺の建物や什器の個人所有を認め、応じない場合は、廃寺命令が出た時にすべてを没収すると言明したという。
しかしながら、明治政府が全国の寺院を廃寺にせよとの命令は出なかった。橋本知事が全寺院に廃寺願書の呈出を迫った理由はそこにあった。
廃仏毀釈が、朝旨であるならば、敢えて廃寺願を出さすに及ばず、廃寺を命令して可なりである。しかるに橋本知事が、強いて廃寺願書の呈出を迫るのは、これ朝旨でなく、自己の廃仏主義を、実行せんとの奸策である。さる程に僧徒は、寝耳に水の大狼狽を極めたが、如何にも、檀家を奪い去られた上のことで、まるで、軍人の武装を解かれた如くで、如何とも、策の施しようなく、多くは、廃寺願書、呈出説に傾いていた。中にもかの人物画で有名なる月遷の居た寂照寺、ならびに他二三個寺は、相当寺有田があるから、檀施はなくても、一寺の維持ができる。故に廃寺願書は呈出せず、廃寺官令の発布まで、現状維持すると言い出した。これには知事も、仕方がなかった。
その他三、四個寺の住僧は、官権の迫害に堪えかねて、他国に出奔したのと、なお四五個寺は、もとから無住地であった。これら三種合計十二、三個寺は、廃寺願書を出さず、また出す事が出来なかった故にそのままうっちゃってあった。この十二、三個寺が、全く廃寺の難を免れて、今に現存している。…
(同上書 p.146)
伊勢神宮のお膝元に存在した六十余の寺院のうち、結局約五十個寺が廃寺願書を提出したという。願書には檀家代表の署名も求められていたが、檀家の反対があった場合に、僧侶が檀家を説得して署名させたことが記されている。
廃寺により不要となった仏堂や仏像・仏画はどうなったか
当然のことながら、寺僧が還俗し寺が廃寺となれば仏像・仏具類は不要となる。収入源がなくなるのだから、仏堂や仏像などを売却しようとする動きがあったのだが、しばらくして橋本知事は、これらを勝手に売却することを許さなくなったという。これは、還俗した場合は寺の財産を「寺院に属する堂塔等の諸建造物、及び什器等、ことごとくみな、前住僧の所得に帰す」とした約束を、いきなり破ったことになる。
右廃寺中の浄土宗・欣浄寺は、世に有名なる法然上人日の丸名号はじめ、数多の法宝物あり、かつ多数の檀家を有する大寺であったが、当時住僧は最先に廃寺願書を呈出して帰俗したという。その廃寺の際、百一点は、本山知恩院へ引き上げた故に、今現存することの出来たのは、不幸中の幸であった。さても橋本知事は、さらに圧迫を加え、当地に於いて仏像・仏具等を公売することを禁じた。ゆえに五十余個寺の仏具類は売買することならず、概ね毀ちて薪にし、あるいは川へ流したという。特に欣浄寺の九間四面、槻材丸柱造の本堂を、僅かに三十円で、三河地方に売り渡したという。
橋本知事は、かの福地寺院の三個寺現存するに対して、益々圧迫を加え、元檀家より窃に(ぬすみに:ひそかに)施物を受けておらぬか、内密に法事などの依頼に応じておらぬかと、折々密偵を放ちて探ったが、実際、約四年間、一紙半銭の信施も受けなかったという。なおも何か欠点を探り、これに依りて全滅せしめんとてその機会を待って居った時に、明治天皇御東行につき神宮に御親謁なるを好機に、寂照寺が大道に面じ、御通輦路に当たるを幸いに、寂照寺に対し、その寺行幸御道筋に当たり、御目障になるを以て、今より十日以内に、寺観に属する、本堂、鐘楼、経蔵、寺門等、悉くみな取毀つべしと、厳命を下した。
ここに寂照寺は、府知事に日限、猶予を嘆願しおき、一方本山・知恩院に救護を嘆願した。当時本山は、知恩院宮に縁故あるを以て、行幸御道筋の寺院取毀の可否をその筋に伺うたら、御道筋寺院の行在所に充てられるところもあるから、決してこれを取毀す如き御趣意にあらずとの本義を確かめ、その由を府知事に上申した。知事はこれを聴き、然らば取毀つに及ばぬ。しかれども御目障にならぬ様に、寺門の前面を板囲いして、寺観を覆うべしと命じた。寂照寺は、これにも争議せんとしたが、余り反抗して知事の命令を丸潰しにしては却って不利であると悟り、板囲いして取毀ちの難を免れたのである。
(同上書 p.147~148)
伊勢神宮から伊勢志摩スカイラインを東に走ると、朝熊山の頂きに金剛證寺(こんごうしょうじ)という寺がある。「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の一節にも唄われているが、「朝熊山」は金剛證寺の山号で、「朝熊」というのはこの寺を指していて、伊勢神宮へお参りする人々はこのお寺にも参詣するのがならわしであった。
またこの地域では、亡くなった人の頭髪をこの寺に納める風習があったのだが、橋本知事はこの風習を全面禁止とし、守られない場合は厳しく罰する旨を布告したという。
かくして伊勢神宮の周辺で多くの文化財などが失われていったのだが、伊勢神宮の神宮寺にあったと伝えられる平安後期の作である木造釈迦如来立像が、なぜか広島県尾道市の生口島にある耕三寺(こうさんじ)の耕三寺博物館にあるという。この仏像は国の重要文化財に指定されているのだが、外宮・内宮どちらの神宮寺にあったのか、またどういう経緯で耕三寺に運ばれたかはよくわからない。耕三寺のホームページにこの仏像の写真が出ている。
伊勢神宮の長期間に及ぶ遷宮の中断に終止符を打った慶光院
こういう経緯を知ると、宮川と五十鈴川に挟まれた伊勢神宮の御膝元というべき地域に、江戸時代以前の建物で文化財級の建物が少ないことが納得できるのだが、「おはらい町通り」に面して国の重要文化財に指定されている建物が一件だけ残されている。
上の画像は国の重要文化財に指定されている神宮祭主職舎本館だが、かつては慶光院という尼寺で、画像に写っている立派な屋根の建物が、その客殿(国重要文化財)であった。この慶光院は伊勢神宮の歴史上、非常に重要な役割を果たした寺であることを述べておきたい。
伊勢神宮の式年遷宮は二十年に一度行なわれることになっているのだが、応仁の乱以降のわが国は下剋上の乱世となり、伊勢神宮では厳しい経済事情から百二十年以上式年遷宮が行なわれなかったのである。この長期間に及ぶ遷宮の中断に終止符を打ったのがこの慶光院の尼僧・清順なのである。清順はまず宇治橋架け替えのために諸国を行脚して勧進を行い、天文十八年(1549年)に橋を完成させ、さらに永禄六年(1563年)に外宮の遷宮を斎行した。外宮の遷宮を成し遂げた三年後に清順は没し、後を継いだ周養(しゅうよう)が清順のその遺志を継いで内宮遷宮費用の勧進事業を進め、織田信長や豊臣秀吉の寄進を受けて、天正十三年(1585年)に内宮の正遷宮を斎行している。
その後慶光院は慶長八年(1603年)と、寛永六年(1629年)・慶安二年(1649年)の正遷宮では江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されて神宮に協力したが、寛文六年(1666年)に伊勢神宮から訴えがあり、以後は徳川幕府が直接に資金を支出して式年遷宮が行なわれるようになったという。
このように伊勢神宮が一番苦しい時期を支えて来た歴史のある慶光院なのだが、明治二年(1869年)には廃寺とされてしまい、伊勢神宮に買い取られて明治五年(1872年)に神宮司庁の庁舎となり、明治二十三年(1890年)には神宮祭主職舎となった。残念ながら一内部の一般公開はされておらず、毎年十一月に三日程度、一部が特別公開されるという。
明治新政府と文化財破壊
知事が選挙によって選ばれるようになったのは戦後の話で、それまでは官選で、特に明治初期の知事は藩閥系の人物が多く選ばれたという。普通に考えて、多くの寺を破壊するようなことが、知事独自の判断で行えるとは考えにくく、着任時に重点的に取り組むべき施策については、政府より指示を受けていたと考えるべきだと思う。
廃仏毀釈については、たとえば一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』にはこう記されている。
政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。
(『もういちど読む 山川の日本史』p.231)
「廃仏毀釈の嵐が吹きあれた」などと、まるで廃仏毀釈が自然発生的に起こったかのような叙述になっているが、国家権力の関与なくしてどうしてこれだけ多くの寺院を、短い期間で廃寺にし、多くの文化財を破壊することが出来ようか。
明治新政府は国教をそれまでの仏教より神道に変え、天皇を支柱とする国民国家を目指し、皇室の宗廟たる伊勢神宮を国家祭祀の最高位の一つに位置づけようと考えたからこそ、伊勢神宮の御膝元の地である度会府に、筋金入りの廃仏論者を送り込んだのではなかったか。
もし伊勢の廃仏毀釈が、明治政府の意向を無視して度会府の橋本知事の独断で進められたのであるならば、すぐにこの知事が解任されてもおかしくないと思うのだが、橋本實梁は明治四年(1871年)に統合再編成された新生の度会県が生まれると県令となり、明治十七年(1884年)には功を認められて伯爵の位を授けられているのである。
いつの時代でもどこの国でも、「為政者にとって都合の悪い史実」は封印され、「為政者にとって都合の良い歴史」が編集されて公教育などで広められていく傾向にある。
幕末から明治の歴史については、「薩長閥にとって都合の良い」「キレイ事の歴史」を何度も読まされてきたのだが、薩長閥とは異なる立場の記録を合わせて読まないとこの時代の真実の歴史は見えて来ないのではないだろうか。
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