石清水八幡宮の廃仏毀釈と本尊・薬師如来の行方

廃仏毀釈・神仏分離
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神仏習合の石清水八幡宮護国寺

 石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都盆地南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上にある神社で、宇佐神宮(大分県宇佐市)、筥崎宮(福岡県福岡市)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の一つである。

 「八幡宮」は応神天皇の神霊である八幡神を祭神とする神社で、全国に約四万四千あるのだそうだが東大寺大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)に、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたとの記録があり、早くから仏教と習合していたようである。また天応元年(781年)に朝廷は、宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈り、その後、寺院の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、全国に八幡宮が作られていったという。 

石清水八幡宮 御本社[国宝](2019/4/8)

 石清水八幡宮は貞観二年(860年)に奈良大安寺の僧行教(ぎょうきょう)が、豊前の宇佐八幡宮で「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受け、清和天皇の命により石清水寺の境内に社殿を造営したのが始まりとされる。薬師如来を本尊とする石清水寺は石清水八幡宮の神宮寺となり、貞観四年(862年)に名称を護国寺と改めたという。

 天慶二年(939年) に伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得、皇室・朝廷からは京都の南西の裏鬼門を守護する王城鎮護の神として篤く崇敬されることとなる。

 平安時代に神仏習合が進み、宮寺として「石清水八幡宮護国寺」と称するようになり、天永二年(1111年)には白河法皇によって大塔が建立され、天永三年(1112年)には琴塔が建立されたと伝えられている。

 また、中世以降は武神・弓矢の神・必勝の神として、清和源氏、桓武平氏の武士の尊崇を集めて当社の分霊が勧請されるようになり、羽曳野の壷井八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮など各地に八幡宮が造られたという。

 上の画像は平成一九年(2007年)の調査で石清水八幡宮の摂社若宮社厨子から発見された僧形八幡神像絵図で、製作時期は江戸前期と推定されている。もし明治の初期に発見されていたら、無事ではなかったと考えられる。

 上の画像は慶応三年(1867年)に製作された『城州八幡山案内絵図』で、大きな屋根が描かれている建物は、上から石清水八幡宮の本社、護国寺、極楽寺・頓宮である。

 また男山の中腹から山裾にかけて多宝塔や多くの僧坊が描かれている。かつては「男山四十八坊」と言われた宿坊が存在したのだが、幕末の頃は二十三坊であったという。そして本社の内陣のことは松本坊と杉本坊が担当していてこの二坊が内陣の鍵を預かり、本社の勤行には社僧の諸坊が当たるなど、男山全体を少数の社僧が取り仕切っていて神職は使用人のような身分で奉仕していたのである。

『神仏分離史料 第一巻』に鷲尾順敬「石清水神社神仏分離調査報告」という論文が収められており、そこには幕末期における石清水八幡宮の社僧と神職との関係が次のように解説されている。

 山上の豊蔵坊、瀧本坊等は頗る壮大なるものであった。豊蔵坊は幕府の祈願所であったから、極めて富裕であった。朱印三百石であったが、実際の収入はその数倍であったようである。…

 諸坊にはいずれも諸大名の祈祷料が納められた。平日は住持以外に、侍一人、下男一人位にて、極めて質素静寂であったが、決して経済に不自由がなかった。

 神職は皆山下に住したもので、他姓、六位、大禰宜、小禰宜以下百戸ばかりあったが、社領の分配は極めて少額であったから、いずれも貧窮していた。幕府時代の末には、山上の社僧と山下の神職は協和しなかったもので、山下の神職の者等は、常に憤慨していた。軍務局に薩摩の吉井幸助が勢威があったので、神職の者等は、本社の警衛の任務に当たり、軍務局に出入りし、吉井幸助によって本社の改革を計画し、大に運動したものである。

 山上の社僧等は、学問もなく、気力もなかったのであるが、神職の者には、漢学を修めていた者があった

(『神仏分離史料 第一巻[復刻版]』名著出版 昭和45年刊 p.318~319)

 吉井幸助は西郷隆盛、大久保利通らと幼少期からの親友で、維新後は官僚として明治政府を支えた人物であるが、神職たちが吉井とともに「本社の改革を計画」したというならば、薩摩藩の考え方がモデルとなっていたと考えられる。以前このブログでも書いたが、薩摩藩では全寺院を破壊し、全神社の仏像・仏具を取り払っている。新政府が、最初に神仏分離・神仏混淆禁止の施策にとりかかることも、事前に知らされていたのではないだろうか。

 慶応四年(1868年)一月に鳥羽伏見の戦いが始まると兵火は男山にも及び、山下の極楽寺、高良社などが焼失してしまったという。その頃までは、毎日男山では僧侶による神前読経が行われていたのだが、その後男山の環境が激変することになるのである。

神仏混淆禁止命令に社僧や神職はどう動いたか

 鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府は、三月に神仏分離令を発出したのだが、神仏混淆禁止により本社内陣の仏像仏具など撤去せよとの沙汰が石清水八幡宮にあったのは閏四月のことであった。この沙汰に対しどのように社僧や神職の者がどのように対応したのかが同上書に記されている。

 当時神祇局の命令により、三家、即ち田中、南、菊大路の三氏が、一年交替をもって、社務を執り、諸職を統率することとなっていたのであるが、実は三家の権威がなかったので、万事一同協議したのである。六位森本信徳、神宝所谷村伊織等二三人が大いに尽力して、一同の中心となっていた。この際社僧は皆復飾して俗名に改め、急に妻帯するに至った。しかるに山上の諸坊は撤廃せらるることとなり、住宅もなく、諸大名の祈祷料は廃絶したから、日々の生活も支えられないこととなり、大いに窮迫するに至った

 淀・鳥羽の戦争に、この一帯の地方は七分通り兵火にかかり、諸人が困窮していたから、社僧等の窮迫に同情して扶助する者もなく、彼らは漸次に八幡の地方を去って、諸方に離散するに至った。初め一同が協議して、本社の仏教関係の堂舎器具等を処置することとなり、大阪の古物商人等を呼びて売払の入札をすることとなり、元年三月、大阪の古物商人等が本社に来りて入札した。それで堂舎器具が皆処置せられたのである。

 しかるに当時元の御殿司松本坊は復飾して改名し、松本親雅と言うたのであるが、前住持某の意により、内陣の図像器具等一手に譲り受けて護持せんことを申し出たるにより、遂にその意に任すこととなり、松本親雅より冥加金八十両を納付した。大阪の古物商等もこれを聞いて松本親雅の誠意に感服したと伝えている。

(同上書 p.334~335)

 普通ならば身分が高い社僧たちがリーダーシップをとるべきところだが、彼らにはその力がなく権威もなかったために一同協議して決定することとなり、神職たちがリーダーシップをとり、社僧の復飾と山上の諸坊の撤退を決定したとある。しかしながら、「元年三月」に古物商人等を呼んで本社の仏像仏具を入札したというのは常識的には時期が早すぎる。なぜなら、神祇事務局が神社・神前から仏教的要素を排除せよとの命令を発したのが三月二十八日で、石清水八幡宮に神仏混淆禁止の沙汰が届いたのが閏四月であるからだ。そして、同月に本社内殿の仏具類を撤去し、護国寺・開山堂に奉納したとある。普通に考えれば古物商への入札は閏四月以降でしかありえない。

 神職らは薩摩藩の吉井幸助らから新政府が神仏混淆禁止命令を出すとの情報を入手していて、吉井らと協議した本社改革案どおりに動き、早い段階で頼りない社僧たちから協議の主導権を奪い取っていた可能性は高いのだが、正式な沙汰も届かないのに、仏像・仏具などを古物商を呼んで入札を掛けたというのは考えにくく、鷲尾順敬が単純に日付を間違えた可能性が高そうである。

 本社の内陣の仏画・仏具等の入札では、すでに復飾していた松本親雅が護持することを申し出て、冥加金を払って譲受したのだが、宋国板一切経、大塔、八角堂、愛染堂、鐘楼などが売却されたようだ。『神仏分離史料』には大阪の古物商・松浦善右衛門の記録が収録されていて、この時の入札に参加した旧社僧等についてこう記されている。

「・・諸山魔僧還俗致し、永く護持之ある品々、仏像仏具堂塔に至るまで、欲心を持って売り立て、金銀配当致す有様、実に魔界の如く、末世濁乱格の有様、恨めしく恐れ入り奉る次第なり。・・」(同上書 p.342)

 古物商の立場からすれば、貴重なものが取扱いできることは嬉しいことであるはずなのだが、何代にもわたって護られてきた寺宝などを欲にまみれて売り払った元社僧たちを「諸山魔僧」と呼び、「実に魔界の如く、末世濁乱格の有様」と形容している。全員が同様であったとは考えたくないが、このような人物ばかりでは、石清水八幡宮の貴重な文化財を護ることは無理であったと思われる。

 松浦善右衛門の記録には、明治三年に残りの仏像仏具や堂塔がまとめて売却されたことが記されている。彼らは売却金を手にして、八幡の地を離れていった。

 上の画像は明治十一年の『男山八幡宮全山図』であるが、護国寺・宝塔院・西谷大塔は勿論のこと一切の仏堂塔が破壊されたことが分かる。石清水八幡宮イラストマップと比較すると面白い。

護国寺本尊薬師如来と十二神将像の行方

 護国寺については、律宗金剛寺などから保存するべきとの懇願があったようだが許可されず、建物も仏像・仏画など全てが撤却されることとなった。その本尊薬師如来(国重文)と十二神将像(国重文)が、淡路島の東山寺(とうさんじ:兵庫県淡路市長澤1389)という尼寺に残されている。

東山寺 本堂(2011/6/4撮影)

 東山寺は嵯峨天皇の弘仁十年(820年)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護と庶民信仰の中心として開祖した由緒ある寺院であったが、戦国時代に全焼したのち、弘安八年(1286)に現在の地に再興されたものの、徳川時代中期以降に寺運が衰えていき、幕末の時期には廃寺同然となってしまう。ドラマはその時期に東山寺にやってきた尼僧・佐伯心随と勤王の志士との出会いから始まる。

 当時の淡路島は尊王攘夷運動の一拠点となっていて、反体制を掲げた多くの勤王の志士たちが淡路島に来島し、特に山深い東山寺はいつしか彼らの密談の場所となって、梁川星巌や頼三樹三郎らが頻繁に出入りしていたという。

 勤王の志士同志で島外の仲間との重要な情報伝達には密使が必要で、佐伯心随尼に白羽の矢が立ち、心随尼は志士達の要請を受けて石清水八幡宮護国寺の別当であった道基上人に何度か密書を届けるようになる。道基上人もまた尊王攘夷運動の重要人物であったという。

 やがて江戸幕府が大政奉還し明治の時代を迎えると、神仏分離令が出て石清水八幡宮の社僧はすべて還俗し、境内から仏教施設や仏像・仏具が撤去されることとなった。護国寺の本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像も男山にうち捨てられてしまったのだが、道基上人は平安時代から人々の信仰を集め、多くの人々によっ守られてきたこれらの仏像がこのまま雨ざらしで朽ちていくことには耐えがたく、淡路島で東山寺の復興のために頑張っていた佐伯心随尼にこれらの仏像のすべてを託すことによって、少しでもこれらの仏像を後世に残すことを決意したのである。

 明治二年(1869年)六月十二日にこれらの仏像は、人目を避けるようにして運び出されてこの東山寺に遷され、その後東山寺は佐伯心随尼により復興を遂げたという。

 一方道基上人は、その後淡路島に移り住み、永寿寺という小さなお寺の住職となるが、東山寺の復興を見届けた後、明治二十二年(1889年)に生涯を終えたとのことである。

 この話は淡路市が制作した動画『東山寺~十三体の仏像に秘められた物語~』に紹介されているので興味のある方は是非ご覧いただきたい。

 上の動画を視聴して感激し、十年前に東山寺を訪れたのだが、石清水八幡宮に八幡大菩薩が遷座する前の石清水寺の本尊であった平安時代制作の薬師如来像と、康和五年(1103年)に大江匡房が造立・奉納したと伝えられる十二神将像を目の前に鑑賞できた時の喜びはひとしおであった。これ等の仏像は二度の火災を乗り越え、さらに激しい廃仏毀釈で朽ち果ててしまう運命にあったところを、縁あって淡路島の尼寺に今も残されているのだ。

 淡路島の観光寺院としてはあまり知られておらず、車がなければ絶対に行けない寺なのだが、歴史好きの方にお勧めしたい。

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