神仏分離令のあと徹底的に破壊された鶴岡八幡宮

廃仏毀釈・神仏分離
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鶴岡八幡宮の歴史

 先日このブログで京都の石清水八幡宮の神仏分離・廃仏毀釈について書いたが、鎌倉の鶴岡八幡宮においても同じ時期に多くの仏殿などが破壊されている。

 鶴岡八幡宮の歴史を調べると、前九年の役で奥州を鎮定した源頼義(みなもとのよりよし)が康平六年(1063年)に京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比ガ浜の浜辺に勧請して源氏の氏神として祀ったのが始まりだという。そもそも「八幡神」とは清和源氏、桓武平氏など全国の武家から崇敬されていた武運の神で、応神天皇と同一とされ、早くから神仏習合がなされて「八幡大菩薩」と称されていた。

 治承四年(1180年)に平家打倒の兵を挙げて鎌倉に入った源頼朝がこの神社を由比ガ浜の浜辺から現在の場所に遷し、以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整えていった。鎌倉幕府衰退後はこの神社も衰退し、戦国時代には大永六年(1526年)に相模国の北条氏綱と安房国の里見義豊との戦いで炎上してしまったが、北条氏永が再建を果たしている。

 江戸時代に入ると徳川幕府の庇護を受けて大規模化が進み、仁王門、大塔、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂などが相次いで建築され、徳川家光の時代には薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられている。

享保十七年(1732年)の鶴岡八幡宮の境内図

 上の画像は享保十七年(1732年)に制作された鶴岡八幡宮の境内図だが、昔は参道正面に仁王門があり、その左に護摩堂や輪蔵、右には大塔や鐘楼が存在したことがわかる。

 ところが文政四年(1821年)に大火があり、ほとんどの社殿、堂宇が焼失してしまった。そして文政十年(1830年)にほぼ再興されたという。

 明治維新までの鶴岡八幡宮は神仏習合で多くの仏堂や大塔が存在し、天下の源氏の菩提所として栄えた名刹であった。また、本宮の中央には阿弥陀如来の化身としての応神天皇が、右には観世音菩薩の化身として神功皇后が、左には勢至菩薩の化身として応神天皇の姉君姫大神が祀られていて、他の八幡宮と同様に、本尊を始めとして、すべて真言宗の十二坊*の社僧が中心になって奉仕し、神主・社人はその助手として勤めていたのである。
*十二坊:かっては二十五坊があったが、幕末時は十二坊(相承院、荘厳院、恵光院、香象院、浄国院、安楽院、増福院、最勝院、正覚院、等覚院、教覚院、海光院)の社僧が一山を仕切っていた。

幕末に訪れた外国人が残した神仏習合の鶴岡八幡宮

 講談社学術文庫にエメエ・アンベール著『絵で見る幕末日本』という興味深い本がある。

 アンベールはスイス時計生産者組合会長であり、文久三年(1863年)修好通商条約の締結のため、六名のスイス遣日使節団の団長として来日したのだが、当時の江戸においては攘夷運動が荒れ狂っており、幕府は生麦事件の賠償金問題の処理で揺れていたために条約交渉を開始することがなかなかできなかったという。使節団は十ヶ月間日本に滞在したのだが、このわずかの期間に日本の伝統や文化について観察し素晴らしいスケッチとともに本に残している。彼らは長崎から江戸に向かう途中でこの鶴岡八幡宮に立ち寄ったのだが、神仏分離の前のこの神社の建物のスケッチ画を観ることができる。

 上の画像は下拝殿及び本殿楼門を描いたもの、下の画像は大塔を描いたものだが、この画像や資料などはs.minagaさんのサイト『日本の塔婆』「相模鶴岡八幡宮大塔」に数多く紹介されているので覗かれることを勧めたい。

 またイギリスの写真家フェリーチェ・ベアトも1863年に来日しているが、彼は1864年に鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れて、多くの写真を残している。この画像も上記サイトに紹介されている。

鶴ヶ丘八幡宮門前にある宝戒寺住職の記録

 しかしながら新政府により「神仏分離令」が出されると、八幡宮の背後にあった十二の坊舎の社僧たちは率先して復飾・改名して神主となり、八幡宮の堂舎・堂塔は破壊され、伝来の什宝も散逸・破壊に任せられることになるのである。

 『神仏分離史料 第三巻』に、明治四十五年に鶴ヶ岡八幡の門前の宝戒寺住職の静川慈潤が、前住職らから見分した話などを書き記した「明治初年の鶴ヶ岡八幡」という文章を是非読んで頂きたい。静川慈潤は鶴ヶ岡八幡の門前にある宝戒寺住職で、明治初年には同寺にいて、同寺の前住持の澄海の指導を受けながら、弱年ながら当時の八幡の状況を見聞したことを記録したものである。ちなみにこの記事が書かれた明治四十五年当時、静川慈潤は五十七歳であったという。

 …その年九月の節句に、始めて改元のことを聞きました。即ち明治元年となりました。翌二年に、公令により諸国神社の別当なる寺院の僧尼は復飾するこことなり、それらの寺院の仏像仏器を焼棄したり、破壊したり、往々にして粗略の挙があったことを聞きました

 太政官に仏法を廃滅しようという議が喧しく起りましたので、比叡山正覚坊豪海大僧正が太政官に出頭して、大いに抗論し、数日座を動かなんだというようなことを聞きました。比叡山の山王権現及び熱田神宮では、粗暴の挙があって、仏像を打ち壊して微塵となし、経巻を破毀して焼棄したことを聞きました。当時当社の十二坊の社僧は、皆復飾しました。彼等は神奈川県庁から布告を聞いて直に復飾し、自ら仏像仏器を放棄し、本社門前に僧尼不浄の輩入る可からずと掲示した。その激変の態度は何人も驚いたことでありました

 当寺の先代、即ち拙僧の師僧であります、澄海と云ひました、明治二十八年一月に寂しましたが、当時社僧の輩、節操もなき、信仰もなき激変の態度を見聞して、大いに憤慨いたしました。拙僧は今にその大いに憤慨して罵詈せられたことをよく記憶居ります。彼等昨日三鈷を握った手で、今日幣帛を執っているのではないか、自ら僧尼不浄の輩入る可からずと掲示して、得々たるは何の意ぞ、数百年以来の神事は、皆仏教関係の者に依って行われたものである。彼等の言動は先祖を侮辱し、恩義を忘却し、実に宗門の大罪人である。汝よく心中に銘記せよと、拙僧に教誨せられました。当時拙僧は十四歳でありました。つまり当社は十二坊の社僧が、自ら仏教を排撃して、粗暴の挙をなしに至ったのであります。

 神奈川県庁から、屡々督促があって、仏教関係の堂宇等を速に取除くべしとのことです。十二坊の社僧の復飾した新社司等が、相共にその取除きに奔走しました

 当時の諸堂宇等の位置を話せば、先ず神橋の右に放生池があって、弁財天祠がありました。次に仁王門があり、仁王門を入って左に七間四面の護摩堂があり、次に経蔵がありました。皆破壊せられましたが、経蔵にあった一切経は、浅草の観音に移されました。護摩堂の向側に、多宝塔がありました、十間四面の大塔で、鎌倉の三名物の一と呼ばれたものであります。即ち一は大仏、二は大塔、三は大鳥居で、当地人の自慢の言に「一の鳥居を横に睨んで生まれた鎌倉児だ」と云ひました。多宝塔の右少し斜に方り、鐘楼がありました。梵鐘は三代将軍家光の寄附せられた名器でありましたが、鉄槌で打々破壊せられた音響は、五十年後の今日、尚ほ拙僧の耳底に残って居る心地がいたします。古道具商が買取って、鋳潰し、純金数斤を得たといふことであります。鐘楼の右更に斜に方り、十間四面の本地堂があって、本地薬師如来を安置せられてありました。名越の安養院に遷すことになりましたが、遂に建築されませんでした。正面石段の前に神変堂があり、右の若宮がありました。石段を登り、本社殿の前右に六角堂があり、左に愛染堂があって、愛染明王が安置せられてありました。

 諸堂宇は十余日間に悉く破壊せられ、古木材として売払われました。今日尚ほ当地の町屋に、その古木材が用いられているのが見られます。本社殿の神体は僧形八幡の石像でありましたが、取出されて後、如何にせられたのかよく知りません。愛染明王等も如何にせられたのかよく知りません。仁王の像は今寿福寺に存してあります。

 宝物は種々ありましたが、弘法大師の筆と伝ふる紺地金泥の大般若経六百巻を六軸に細書したものがありました。横浜付近の富豪の手に帰したとのことで、後高野山に寄附せられたとも聞きましたがよく知りません。

 本社殿の後に十二坊ありましたが、正覚院に運慶の作と伝ふる地蔵菩薩の像が安置せられてありました。昔当宝戒寺より遷されたものとか聞いて居りましたが、建長寺の妙光庵に遷して、安置せられ、後後藤斉記と云う者の家に遷され、更に二階堂の吉村氏の家に遷されました。今同氏の家に存してあります。十二坊は新義真言宗でありました。

 明治五年の頃、筥崎博尹氏が始めて宮司に任ぜられ、旧十二坊の一なる正覚院の跡に住宅を構へ、漸次に八幡宮の興隆を謀りました。旧十二坊の復飾した者は、いずれも職に堪えませんから、退散することとなり、殊に零落して豆腐売りとなった者、車夫となった者がありました。

 筥崎氏が常に言いました。今数年早く此職に当ったなら、かくも残酷なる状況を見るに至らず、適当な方法もあったであろうと。氏は一たび散逸した宝物を回収することに力を尽くされました。今廻廊に陳列せられてある宝物は、皆氏の丹誠に依って蒐集せられたものであります。

 明治七年の頃、神仏合併の中教院が 、建長寺に設けられ、相共に三条の教憲の講習を行うの際、拙僧は偶々筥崎氏と同道し、行々、氏は仏教の放生の出処等を問われました。拙僧は金光明経に説かれてあることを話しました。その後九年の頃、氏が主となり、放生会を再興せられました。当時拙僧は東叡山に居りましたから、氏の考を聞く機会もありませんでしたが、氏は、何かと八幡宮の興隆に意を用いられました。

 法華堂に頼朝念持の如意輪観音が安置せられてありましたが、その堂は破壊せられ、観音は西御門の来迎寺に遷されました。

(静川慈潤「明治初年の鶴ヶ岡八幡」『神仏分離史料 第三巻』p.415~419)

鶴岡八幡宮の宝物の行方

 このように幕末まで鶴岡八幡宮を取り仕切っていた十二坊の社僧たちは、神仏分離令が出るといち早く復飾して神職として生き延びようとし、明治三年に仏堂について、再三神奈川県庁から取り除きの督促があると、明治三年に一山を代表して神主筥崎博尹が、すべての仏堂や堂宇を取り除くことを届け出ている。しかし、彼らは翌年に新政府から裏切られることになるのである。

神仏分離後の八幡宮の惨状

 明治四年に上地令が出て、全ての社領が没収されることとなり、彼らは収入源を失い生活が成り立たなくなる。その後、彼等の多くは神職を辞めて、小学校教員・豆腐屋・車夫などに転職していき、明治八年頃には、祠官筥崎博尹・国司・香山・武内ら5名しかその職にはなかったと伝えられている。

 先ほど紹介した『日本の塔婆』「相模鶴岡八幡宮大塔」に鶴岡八幡宮の宝物が何処に売られていったかが一表に纏められている。

愛染明王像

 上の画像はかつて旧愛染堂に安置されていた木造愛染明王像で鎌倉時代のだが、現在は五島美術館が所有して国の重要文化財に指定されている。ほかに国の重要文化財に指定されているものは、東京国立博物館にある伝源頼朝像、鎌倉青蓮寺本尊の弘法大師座像、浅草寺にある大蔵経五四二八巻があるが、鶴岡八幡宮に残された裸の弁財天座像もが国重要文化財に指定されていることを考えると、その他の仏像・仏画や堂宇の一部がもし残されていたら、その多くが国や地方の文化財指定を受けていることであろう。文化財というものは祈られるべき場所を失えば信仰を失い、その価値をも失っていくものだと思う。旧薬師堂に安置されていた木造薬師三尊像および木造十二神将像は、東京都あきる野市の新開院にあるが、鶴岡八幡宮の薬師堂とともに移されていたら、おそらくは文化財指定を受けていたことだろう。以下のサイトに美しい仏像の画像が出ている。

 十二坊にも価値ある仏像仏具類が数多くあったはずなのだが、大半は売却され、あるいは焼却されてしまい、十二院の建築もすべてが失われてしまった。もし十二院の社僧の中に気骨のある人物がいてリーダーシップを取っていれば多くの文化財が救われていたと思うのだが、非常に残念なことである。

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