神仏分離令のあと金毘羅大権現の仏像・仏具が徹底的に破壊された経緯

廃仏毀釈・神仏分離
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江戸時代中期以降大流行した「金毘羅参り」

 子供の頃に「金毘羅(こんぴら)船々」という唄をテレビやラジオでよく聴いた記憶がある。一度聴いたら忘れられないような軽快なメロディだ。
「金毘羅船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ
廻れば四国は讃州(さんしゅう)那珂(なか)の郡(ごうり) 
象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現(だいごんげん) …」

 江戸時代中期以降、全国の庶民の間に金毘羅信仰が広まり、各地で金毘羅講が組織されて「金毘羅参り」が盛んに行われるようになったという。その当時「金毘羅参り」は、伊勢神宮への「お陰参り」につぐ人気で、丸亀街道、多度津街道、高松街道、阿波街道などの金毘羅街道が整理されていき、江戸時代の末期には「金毘羅船々」の唄が歌われ始めたと言われている。

 香川県立図書館のデジタルライブラリーに、江戸時代の弘化四年(1847年)に出版された『金毘羅参詣名所図会』の全頁の画像が収録されているが、その第二巻に象頭山松尾寺(真言宗)の当時の境内の図絵がある。

 この図絵には「象頭山御本社」と神社のように記されているが、松尾寺は真言宗の寺でありながら本尊よりも金毘羅大権現の方が有名であったようだ。絵の右側には本社や拝殿があり、左側には多宝塔や鐘楼、金堂、観音堂などが描かれているのだが、神仏習合で金毘羅大権現を祀っていたこの寺は、明治元年(1868年)の神仏分離令によりその景観を大きく変えることになるのである。

松尾寺と金毘羅大権現

 松尾寺の創建については大宝年間(701~704年)に役小角が開山したとという伝承もあるようだが、確かな記録が残っているわけではない。松尾寺に金毘羅神が祭祀された時期についてもはっきりしないのであるが、貞治元年(1362年)に記された寄進状に「松尾寺金毘羅堂」との記載があり、元亀四年(1573年)の年記を持つ「金毘羅赤如神宝殿」と記す棟札があることから、室町時代には金毘羅神が祀られるようになっていたことは確実で、さらに元和四年(1618年)の寄進状には「奉寄附 金毘羅大権現神領之事…」とあり、この頃までには金毘羅大権現と呼ばれることが定着し、江戸時代になると「金毘羅大権現」が航海守護、豊漁の神として人々の信仰を集め、松尾寺の本尊・釈迦如来をしのいで信仰の中心となったのである。

 これによって松尾寺金光院が金毘羅大権現の別当寺のような存在となり、金光院の住職が代々別当職を務めるようになっていたという。

 そもそも「金毘羅」とはどのような神なのであろうか。佐伯恵達著『廃仏毀釈百年』によると、金毘羅はインド仏教の神であり、仏教守護の神だという。

 「コンピラ」とは梵語(インドの古代語)のKumbhiraの音訳で、金毘羅・禁毘羅・宮毘羅・軍毘羅などと記されています。『雑阿含経』四十八には「金毘羅鬼神」、『金光明経』三には「金毘羅」、『大宝積経』三十六には「金毘羅天」また「金毘羅童子」とあり、『薬師如来本願経』には十二神将の一として「金毘羅大将」あるいは「金毘羅龍王」などと説かれているのが、すなわちそれです。これから帰納してわかるように、金毘羅神は、薬師十二神将の一であって、十二神将というのは、日夜十二時(昔は一日を十二時とした)を守護するという意味も含まれており、しかもこの十二神将は十二支に配されて、その中、東北方(又は西北方)にあって仏法を守護するところの夜叉大将というのが、いわゆるコンピラ神なのであります。コンピラ神は仏法守護のために釈迦所在の王舎城象頭山に住して「大光明を照らし、身長千尺・千頭千臂の金毘羅形を現して衆生を三途の苦から救い、世間の大医王となって、もろもろの病気を救い療す」と説かれています。

(佐伯恵達著『廃仏毀釈百年』鉱脈社 昭和63年刊p.150~151)

 十二神将像と言えば新薬師寺の国宝が有名だが、新薬師寺では宮毘羅(クビラ)大将像が金毘羅神像に相当するということになる。同寺のホームページにその画像が紹介されている。

 このように「金毘羅」は日本の神とは無関係であるのだが、そもそも「権現」とは、日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想にもとづいて用いられる神号である。したがって「大権現」という神号は、「金毘羅神」が日本の神であることを前提としていることを意味する。松尾寺では金毘羅神を「金毘羅大権現」と呼ぶことが定着していたことが、結果として明治維新の神仏分離の標的にされることになるのである。

神仏分離令と金毘羅大権現

 明治新政府が発足し、五箇条の御誓文が示されたのちに相次いで神仏分離令が出されている。

【慶応4年(=明治元年、1868年)3月28日付、神祇官事務局達】
「中古以来、某権現、あるいは牛頭天王の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候
「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと

 その後、象頭山金毘羅大権現から仏教的な建物や仏像仏具を取り除けと命じられたのだが、金毘羅大権現の別当職であった松尾寺金光院法印宥常(つねひろ)は、同年の四月には大権現は日本古来の神ではない旨の上申書を提出している。しかし神祇弁事役所等はこの松尾寺の上申を受理しなかった。『神仏分離史料』第四巻に口入田覚了氏の「讃岐金毘羅の沿革」という論文が収録されており、それによると松尾寺金光院法印宥常は、新政府の排仏派から脅迫されて主張を変えたことが記されている。

 吉田家、白川家及綾小路家等、社寺執奏堂上の諸大夫某々等は、神仏分離を機会として、相共に謀りて、金光院法印宥常の入京を奇貨とし、之に対して種々流言を放ち、奸策を構え、遂に宥常を誘惑したり。又一派の排仏毀釈の神道者と気脈を通して、巧みに官辺の趣意に付会し、神道に改祭せざる寺院は、早晩悉皆之を廃止せむとの政府の内議なりと説諭したり。或いは法印宥常に誣ゆるに葷酒珍膳の破戒罪を以てし、終に宥常を威嚇して、復飾帰俗するの念を起するに至らしめたりと、其圧伏強制の程、今日想像の及ぶ所に非ざりしが如し。…中略…

 金光院宥常は、五月に至れば、前に差し出せし上申の主意とは全く正反対の懇願書を差し出せしなり

(『神仏分離史料 第四巻[復刻版]』名著出版 昭和45年刊 p.701~702)

 そしてさらに重要なことは、金光院法印宥常が新政府から御一新の基金献納を命じられている点である。同書には、一万円の献納を命じられて三ヶ年かけて支払うので何とかしてほしいとの嘆願書の全文も掲載されている。(同上書 p.703)

 金光院宥常が、もし金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だとの見解を変えなかったとしたら、それはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危くした可能性があり、大権現存続のためには新政府に逆らわない方が得策であろうとの判断があったかもしれない。

神仏分離令で金毘羅さんの仏堂はどう変貌したのか

 そして六月には還俗して琴陵宥常(ことおかつねひろ)と改名し、祭神は金毘羅大権現から大物主神(おおものぬしのかみ)に変え、金毘羅を改めて金刀比羅宮となし、その宮司となっている。さらに松尾寺の堂宇を改廃する旨申告し、千古以来の建築物は、仏像仏具類をすべて撤去し廃棄して神社にしてしまったのである。

 すなわち、阿弥陀堂を若比売社、観音堂を大年社、薬師堂を旭社、不動明王を津嶋神社、摩利支天堂・毘沙門堂を常盤神社・日子神社、孔雀堂を天満宮とし、多宝塔は明治三年(1870年)六月に打ちこわし、経蔵や文庫・鐘楼も打ちこわし、大門は左右金剛力士像を撤去し、二天門も左右の多聞天、持国天の二像を撤去し、万灯堂は火産霊社に、大行事堂は産須毘社にした。また行者堂は明治五年(1872年)にうちこわし、山神社は大山祇社と、ことごとく名前を変えて神社として使用して、金毘羅大権現も、祭神としての大物主神や崇徳天皇へとすり替えられてしまったのである。

金刀比羅宮 本宮 2010/3/28撮影

 ということは、「こんぴらさん」の金毘羅大権現が神仏分離以降はご神体ではなくなったことになるのだが、根強いこんぴら信仰に基づく参拝が途絶えないように、良く似た名前の神社名に変え、明治六年(1873年)には町の名前も「金毘羅町」から「琴平町」に改称したということであろう。

左から順に元禄末頃(1704年)、明治十三年(1880年)、平成十四年(2002年)の「こんぴらさん」の境内図

 minagaさんの『日本の塔婆』「讃岐金毘羅大権現」に松尾寺の境内が、明治以降どのように変わったのか、境内図で比較して解説されている。左から順に元禄末頃(1704年)、明治十三年(1880年)、平成十四年(2002年)の「こんぴらさん」の境内図である。

金刀比羅宮 旭社 2010/3/28撮影

 上の画像はかつての松尾寺の金堂で、今は旭社と呼ばれている。かつてはここに薬師如来が安置されていたのだが、下の画像の通り何もない。

金刀比羅宮 旭社 内部 2010/3/28撮影

神社化に反対した普門院と金毘羅さんの仏像・仏具の行方

 当時の松尾寺には金光院のほかに、真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院が存在したのだが、すべての子院が神社化に賛成したわけではなく、帰俗した者は金光院宥常のほかは二三名にすぎなかったという。なかでも普門院の宥暁が強く神社化に反対したという。その普門院が金毘羅大権現、釈迦如来等を引き継いで松尾寺と名を変えて法灯を継いだのだが、その松尾寺が明治四十二年(1909年)に金刀比羅宮を相手取り「現金刀比羅宮の建物・宝物は元来金刀比羅宮のものではなく、松尾寺のものである。」とする訴訟を起こしている。

 『神仏分離史料 第四巻』に明治四十一年(1908年)十二月二十日付の『六大新報』の記事が収録されていて、普門院が訴訟に至るまでの経緯などが記されている。
 簡単に記事を紹介すると、
 明治元年(1868年)九月に松尾寺金光院の宥常は復飾改名し宮司となり、僧侶二十数名のうち二三の還俗者を除いては一時金を得て四散したが、普門院宥暁のみは強硬に理を持って、寺院維持を主張した。そこでついに松尾寺一山の堂塔を旧照明寺(旧寺跡あり)に移し、松尾寺の法灯を継承することを条件に、松尾寺の私有財産を売却し、三百戸以上の家来に分配した。
 但し、仏像仏具経巻その他什器等は宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に格納し、一切の山規寺法などの書類を普門院宥暁に渡した。

 明治四年(1871年)に普門院を金光院の別邸の地に移転させ、宥常は金堂に格納した仏像・仏具を宥暁に引き渡す約束であったが、普門院宥暁は金毘羅町の有志と計り、盛大なる引渡し儀式を計画していたことが大問題となる。社務所側が何を怖れたかに注目したい。

 正々堂々たる儀式を以てこれを引き取られては、他日大権現は我寺にありと称して、発展策講じられる時は、遂に神社の勢力を減殺せらるるや必然であると、ここにおいて前約束を破毀し、一切の仏像等を焼却することに一決し、不法にも松尾寺に属する一切の物件を、元神護院住職還俗して神崎勝海なるもの総督となりて、これを浦の谷なる処に持ちいき、かの有名なる仁王尊を始め、仏像等過半を焼却したり。この時、宥盛法印*の木造を火中せし時、俄然暴風起こり、総督なる神崎勝海気絶するなどの変事あり。悉くは焼却せざりしも、この騒動の際、多数の物件紛失するに至れりという。
*宥盛法印:元松尾寺金光院主で自らの像を彫り本殿脇に祀り、慶長16年(1611年)に死去

(『神仏分離史料 第四巻』p.659)

 要するに社務所側は、祭神が金毘羅大権現から大物主神や崇徳天皇に変わったことから、金毘羅大権現目当ての参拝客の多くが松尾寺に流れることを怖れたのである。そもそも金毘羅神は仏教守護の神であり、金刀比羅宮の新しい祭神とは無関係であることを松尾寺が喧伝した場合に、金刀比羅宮の参拝客が激減することは目に見えている。そこで琴陵宥常は仏像等の破壊を決断し、明治五年(1872年)になって裏谷で諸堂の仏像を焼いたということではなかったか。

 その後松尾寺は衰微していくばかりで、寺勢の回復のため三代にわたり金刀比羅宮と交渉したのだが、社務所側の抵抗が強く事態は好転しなかった。そこで松尾寺は明治四十一年(1908年)に「現金刀比羅宮の建物・宝物は元来金刀比羅宮のものではなく、松尾寺のものである。それゆえ建物・宝物を松尾寺へ引き渡すべきである」との訴訟に及んだのである。

 この訴訟は明治四十三年(1910年)七月に判決が出たのだが、裁判所の判決文を簡単に要約すると、
 明治維新の改革で金光院は還俗し、金刀比羅宮に一切を譲った。この時点で松尾寺金光院は消滅している。現在の松尾寺は以前金毘羅大権現の別当であった松尾寺とは別の寺院であり、金刀比羅宮の建物・宝物の所有権を主張する正統性はない、として原告の請求は棄却されている。

 松尾寺は、今も金刀比羅宮の参道を外れて海の科学館の近くにあるようである。明治五年(1872年)に琴陵宥常が約束通り仏像仏具を普門院宥暁に渡していれば、多くの素晴らしい文化財が今も残されていたであろうし、松尾寺にも多くの参拝客が訪れる人気観光地になっていたに違いない。
 金刀比羅宮は歴史ある観光名所でありながら、国の重要文化財はあっても国宝が一件も存在しないのは以上記した経緯によるものである。

金刀比羅宮 破損仏 

 金刀比羅宮の参道の途中に宝物館があり、その二階には顔などの輪郭が殆どわからなくなってしまっている破損仏が三体ほど、何の解説文もなく並べられていた記憶があるが、今もこのような仏像が展示されているのだろうか。

 また、琴陵宥常より仏像破壊を命じられた神崎勝海総督が仏像などを焼却している途中で気絶してしまったため、破壊されずに残された仏像がいくつかあったのだが、そのうち観音堂本尊十一面観音脇侍不動明王及び毘沙門天の二尊が、瀬戸内海を渡って備前西大寺に現存しているという。西大寺観音院のホームページにその仏像の写真が掲載されているが、秘仏であるため普段は公開されておらず、毎年正月元旦から十四日間だけ公開されるのだそうだ。計画を立てて一度鑑賞しに行きたいと思う。

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