明治二年に談山神社になった多武峰妙楽寺

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多武峰妙楽寺

速水春暁斎・画「多武峰之圖」

 上の画像は江戸時代末期に描かれた速水春暁斎・画「多武峰(とおのみね)之圖」であるが、「多武峰」というのは奈良県桜井市南部にある山と、その一帯にあった寺のことを指し、この場所にかつては「妙楽寺」と称する天台宗の寺院が存在した。しかしながら、今この場所に存在するのは、桜や紅葉の名所として名高い談山神社(たんざんじんじゃ)が存在するのだが、どのような経緯があったのかについて今回レポートすることとしたい。

 中臣鎌足(藤原鎌足)といえば皇極天皇四年(645年)に、中大兄皇子とともに蘇我氏を倒すクーデターを成功させ(乙巳の変)、その後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍して、藤原氏繁栄の礎を築いた人物である。

 天智天皇八年(669年)に死亡したのち大阪府の三島郡阿威に葬られたのだが、天武天皇七年(678年)に鎌足の長男の僧定恵が唐から帰国すると、父が中大兄皇子とクーデターの談合を行った多武峰に父の墓を移し、その墓の上に十三重塔を造立した。その後、天武天皇九年(680年)に講堂が創建され、十三重塔を神廟として寺の名を妙楽寺と号し、その後大宝元年(701年)に鎌足の木造を安置する祠堂が建築され聖霊院と号し、平安時代には藤原氏の繁栄とともに隆盛したと伝えられている。

 この寺は発生時においては寺院であり、はじめは法相宗で、平安時代からは天台宗となっているのだが、聖霊院には藤原鎌足の霊像が祀られていて、延長四年(926年)には総社が創立されて、談山*権現の勅号が下賜され、神社的な性格を帯びていたことは確かである。しかしながら、神仏習合でありながら多武峰には神職はおらず、神事に奉仕して祝詞を奏するのは僧侶であったという。

*談山:鎌足が中大兄皇子と蘇我氏を倒す談合を行ったことからこの山を「談(かた)らい山」と呼ぶようになり、明治期に神社社号の起こりとなった。

 江戸時代には多武峰に寺領三千石、四十二坊の堂宇が存在したそうだが、明治元年の神仏分離令が出たときに、寺院のまま存続するか神社として存続するかで意見が割れたという。

神官組と僧侶組の対立

 臼井史朗氏の『神仏分離の動乱』には、当時の多武峰の状況についてこのように述べている。

 多武峰の一山は、神仏分離令の前に浮き足たってしまった。それは鎌足を祀るために発生した仏寺でありながら、鎌足を尊信したあまり、これを権現にし大明神にまで、いわば神格化してしまったがゆえに、これを祀る僧侶は、天台の僧侶であるにもかかわらず、結果的には神人的な役職にあったがためである。

 権現と言い大明神と言い、鎌足を神格化したいがためにつけた称号である。しかし、そういうまぎらわしいことは、今後一切まかりならぬ、というのが神仏分離令の主張なのだから、これはどうにもならない。

 藤原の大織冠(たいしょっかん:冠位の最上位)鎌足というご本尊がほしければ、僧侶をやめて神主にならざるを得なくなる。いや、わしは、妙楽寺にまつる阿弥陀さまだけでよろしい…ということになれば、神主になる必要はない。

 一山の大衆は三綱(さんごう:寺院を管理・統括する上座・寺主・都維那の三つの僧職の総称)をはじめとして困惑した。大織冠あっての多武峯だ。阿弥陀さまでよろしいといえば、神主にはならなくてよいが、そのかわり多武峰からは出てゆかねばならぬ。多武峰から追い出されたら、いままでのような大食漢の生活は誰も保証してくれない。いままでのような生活の保障を得ようとすれば、大織冠鎌足大明神に奉仕しなければならない。

 そのどちらを選ぶか、当時の一山の衆徒にとって、大きな問題であったにちがいない。」

 そんな状態のなかで、一山大衆は二派にわかれた。一つは、僧侶をやめ還俗して神主になって、この多武峰にとどまろうとする者、他の一派は、妙楽寺を別の地に建てて、阿弥陀信仰によって独立し、鎌足を祀ってゆこうとする者であった。

(臼井史朗著『神仏分離の動乱』思文閣出版 平成16年刊 p.66~67)

神官組の勝利と大量の仏像・仏画などの処分

 紆余曲折はあったが、一山の僧侶たちは明治二年(1869年)二月に多武峰に残ることを選択し、全員復飾して大織冠の神前に奉仕することとなり、妙楽寺は談山神社と改称された。神社とはなったが、旧妙楽寺の建物の多くはそのまま利用し、聖霊院を本殿、護国院を拝殿、十三重塔を神廟、講堂を拝所、常行三昧堂を権殿などと、社殿らしい名前に変えられている。

 上の画像は談山神社の境内案内図だが、冒頭で紹介した「多武峰之圖」と見比べると、妙楽寺の主要な建物が、ほぼそのまま社殿に使用されていることがよくわかる。

 ところが、神社になることを選択したことで、それぞれの建物に存在した大量の仏像や仏画、経巻などが不要となることは言うまでもない。そして、それらが二束三文の価格で売られていったのである。千二百年もの歴史のある妙楽寺にはかなり貴重なものがあったはずなのだが、仏像や仏画などはどの程度の価格で売られていったのだろうか。『神仏分離史料』には次のような記録がある。

 一山における伽藍の仏体の処分は、これを取り出して灌頂堂に集めて置き、子院の分は各子院において処分させた。灌頂堂の仏体は、…堺県からしきりに取退け方を命じてくるので、ついに安倍の文殊院へやってしまった。文殊院では千躰一仏を造ろうとして譲受けたのであるが、遂に出来上がらず、この中立派なるもの、四天王、勝軍地蔵等数点を西洋人に売却という。また講堂の釋迦涅槃像は、士族即ち旧社僧中へ下賜されたのを旧慈門院陶原氏がこれを売りにだしたところ二十五銭の値段であったので、遂に旧末寺聖林寺へ寄付してしまった。なお、各所にあった石地蔵はこれを取り除けた。…

 子院でもまた盛んに仏体を処分した。…旧圓城院永井氏方の観音像は、永井氏の直話によるに、永井氏からフェノロサ氏の手に渡り、フェノロサ氏から更に東京帝室博物館の所有に移った。…永井氏からフェノロサ氏への売る時に、フェノロサ氏が値幾何と聞いたので、永井氏は指を五本出した。永井氏のつもりでは五円であったが、フェノロサ氏は五十円と取って、五十円で買ったという逸話がついている。これは明治二十二~三年(1889~90年)のことであった。

 また旧教相院佐伯氏方の金岡筆と伝えていた地蔵曼荼羅は、佐伯氏の自話によれば、奈良の大隅へ僅か十円で売ったということである。旧華上院の六条氏がこの話を聞かれて居て「大隅は多武峰で大層儲けたと話していた。」といわれた。

 講堂の釈迦涅槃像は本尊だが、随分安い値段をつけたものである。

 また佐伯氏の談話によれば、当時仏畫は二十五本宛一括にして、一括二十五銭でどんどん売り出した。場所は常住院の客殿でこれを売り出し、大部分は宇陀の古物商に売った。それは明治七~八年(1874~75年)の頃であったという。

 仏具類もまた処分されたことは勿論である。輪蔵にあった明版の一切経は京都の小川柳枝軒に売却したという。…この経の箱は旧般若院舟橋氏方に残っているという。これは一例に過ぎないが、仏具の類が仏像と同様のわけなく散逸したことは、十分に想像される。しかしながら、仏像仏具の類が全部が散逸したのではなく、今に神社の所蔵となって残っているものもかなりあるのである。

(『神仏分離史料 第三巻[復刻版]』名著出版 昭和45年刊p.83~85)

 明治時代の貨幣価値は『明治~令和 値段史』がわかりやすいが、明治八年(1875年)の卵一個が1.2銭、そば・うどん一杯が5厘~1銭、給与所得者年収160円、大工手間賃(1日)42銭などと書かれている。仏画一枚が卵一個程度の安値で取引されたのだから、あとは推して知るべしだ。神社には不要なものであるとして、多くの仏像や仏具などを安値で売り払ったと理解して良い。

 しかしながら、如意輪観音像、絹本著色大威徳明王像(国重文:東京国立博物館寄託)、紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図10幅(国重文:奈良国立博物館寄託)のように談山神社に残された仏像や仏画もあった。談山神社の宝物は同社のホームページに、絵巻や扁額、神像、狛犬、能面、刀剣に混じって唯一残された仏像である如意輪観音像の画像が出ている。

旧衆徒の生活の困窮

 上述のとおり、一山の衆徒は明治二年(1869年)二月に復飾して神職についたのだが、当初は社領の収入もあり、彼らは余裕のある生活であったようだ。しかしながら廃藩置県ののち上地令が出されて社領が没収され、たちまち生活に困窮するようになったという。

 明治五年(1872年)の正月に彼らは奈良県に対して嘆願書を提出している。『神仏分離の動乱』にその内容が要約されている。

 どうか、掃除人夫となってまで働いて、神恩の万分の一にも報いたいから、どうか山においてください…境内の山以外に、田畑などありませんので、山で働いてでも糊口をしのがせていただきたいのです。それぞれの家とそれに附いた山林や畑につきましては、ちゃんと別紙に書きしるしましたから、十分にご検分下さって、年貢を決めていただき、これを上納することにして、なんとか従来通りに一山にお貸し願いたい。そうしていただきましたら、立木には一切手をふれず、下刈りなどをして、お定めの年貢は必ず上納し、朝恩にむくいたい所存です。

(『神仏分離の動乱』p.72~73)

 このように、助けてくれと言わんばかりの悲壮な嘆願書が提出されたのだが、奈良県が特に彼らを援助したわけではなかったようだ。

 『神仏分離史料』にはこう解説されている。

 四十二坊の社僧、九坊の承仕(じょうじ:寺の雑役を務める者)は、分離当時早くもその二三は退転したということであるが、明治十五年頃までにはその大半はなくなり、郡山、桜井等へ出て行ったということである。立退の人々が旧坊舎を売却して去ったことは言を待たない。

(『神仏分離史料 第三巻[復刻版]』p.97)

 かつては豊かな生活をしていた多武峰の僧侶たちは内部崩壊に陥り、一山離散の運命にさらされることとなった。神職になればなんとか生きていけるという考えが甘すぎたのである。もっとも、寺院として残ることを選択していたとしても、上地令のあとで苦しい生活を余儀なくされたことは変わらなかったであろう。

安倍文珠院 釈迦三尊像(旧妙楽寺講堂阿弥陀三尊像)s.minagaさん撮影

 多武峰妙楽寺の仏像が、現在どこにあるかについてs.minagaさんのホームページに一部が紹介されている。それによると講堂に安置されていた阿弥陀三尊像は、現在安倍文珠院の釈迦堂に、釈迦三尊像として祀られている。また地蔵菩薩三尊像も安倍文珠院の本堂奥に安置されているとある。

 『神仏分離史料』には灌頂堂に集められた仏像は、「堺県からしきりに取退け方を命じてくるので、ついに安倍の文殊院へやってしまった」とかかれているが、この時の堺県の県令は、以前このブログでレポートした薩摩藩出身の税所篤である。堺県からしきりに撤去を命じていたのは、この県令は妙楽寺の仏像を手に入れようとしていたということではないだろうか。安倍文珠院がいくらで入手したかは不明だが、「やってしまった」ということは贈与したということなのかもしれない。

 s.minagaさんによると、妙楽寺は桜井市山田にある三つの寺院に仏像・仏具を預かってほしいと依頼し、その三ヶ寺でいくつかの寺宝を分けたというが、山田善行寺に預けた地蔵菩薩立像以外は行方不明なのだという。

 談山神社は五年前に訪れたきりなのだが、今度行くときは安倍文珠院や桜井市の寺院も巡って、多武峰妙楽寺にあった仏像を鑑賞したいと思う。

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