文明開化時に四条大橋が鉄橋に架け替えられたこと
京都市内を旅行して祇園や八坂神社、清水寺などを散策する場合は、四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だと思う。
上の画像は現在の四条大橋だが、現在の四条大橋は昭和十七年(1942)に架け替えられた後、昭和四十年(1965)に高欄部分が新設されたものである。
『平家物語』の巻一に、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるが、鴨川には過去何度も洪水を繰り返し、橋を流してきた歴史がある。
江戸時代だけで四条大橋は八度も流されてそのたびごとに架け直されてきたそうだが、昔は少しの費用ですぐに架けられるように小さな橋であったという。
しかしながらこの橋は、祇園祭や神社の参詣に欠かせない重要な橋であることから、幕末の安政三年(1856年)に石の橋脚に木造の橋を架け渡し、大きな橋が建造されたのだそうだが、その橋も明治六年(1873年)の洪水で再び流されてしまった。
明治六年といえば、「文明開化で」国を挙げて洋風化に取り組んでいた時期である。
四条大橋は京都で最初の鉄橋に架け替えられることとなり翌年に完成したのだが、この新しい橋の建造の為に大量に集められたものがある。
『神仏分離資料第一巻』に「京都四条鉄橋と廃仏」という記事があり、そこにはこのように記されている。
「京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。かの鉄橋は、明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒ある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったと云うことである。当時廃仏毀釈の余勢が、尚お盛んであったことが判る。洛陽四条鉄橋御増架に付献上書云々とある文書が伝わってある。その一に、紀伊郡第三区深草村寶塔寺、一、古銅器大鰐口、丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。此類の物が今の鉄橋になったのである。(明治四十五年四月八日発行仏教史学第二編第一号所載)」(昭和四十五年刊『神仏分離資料第一巻』復刻版 p.384-385)
深草の宝塔寺は昔は極楽寺と称し、源氏物語にも出てくる由緒ある寺であり、安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会』にはこの寺の境内が描かれている。鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊り下げられている音を鳴らす仏具であるが、ここで書かれているサイズは通常のサイズの倍以上の大きなものであり、もともとは本堂に吊り下げられていたものであろうか。鰐口に刻まれていた慶長十七年とは西暦1612年にあたり、江戸幕府が直轄地に対して禁教令を布告し、キリスト教教会の破壊と布教の禁止を命じた年である。
『神仏分離資料第一巻』には、溶炉に投げ込まれた事例は宝塔寺の鰐口のことしか書かれておらず、他にどれだけの鐘や仏具類が熔炉に投げ込まれたかはわからない。しかしながら、この時に架けられた橋の長さは、今の橋でも72mあるので、それに近い長さはあったであろう。溶かされた仏具類は半端な量でなかったことは確実なのである。
国際日本文化研究センターのホームページに、明治初期に出版された『京都名所撮影』がアップされており、その中に明治7年(1874年)に完成した四条大橋の写真が出ている。この橋は京都市電敷設のために大正2年(1913年)に新しい橋に架け替えられたのだが、昭和9年(1934年)の室戸台風で鴨川が氾濫したため大規模な河川改修が行われて、昭和17年(1942年)に現在の橋が造られた経緯にある。
大量の鐘や仏具類が 四条大橋の新設工事に集められた経緯
明治7年の工事に話を戻そう。
大量の仏具類が集められた背景を考えるには、明治に改元する前の慶応四年(1868)三月に新政府が相次いで出した命令文書がある。意訳して簡単に紹介すると、
①祭政一致の制度を回復し、神祇官を復活し、全国の神社・神職を神祇官に付属させる(三月十三日太政官布告)
②神社で別当・社僧と称し、神職を兼務している僧侶は復飾のこと(三月十七日神祇事務局達)
③権現、牛頭天王など仏教的名称を神号とする神社は由緒を申し出よ。また仏像を神体とすることを禁じ、神社から仏像、鰐口、梵鐘、仏具などを取り除くこと(三月二十八日神祇事務局達)
原文は以下のURLに出ている。
③がいわゆる「神仏分離令」と呼ばれているものだが、明治維新までは一部の例外を除き神社は仏教僧侶の支配下にあり、神と仏は同列に祀られて神殿と仏堂が同居し神殿に仏像などが置かれ、僧侶が神前で読経を行うのが普通であった。(「神仏習合」)
北野天満宮、石清水八幡宮、祇園の八坂神社、上賀茂神社、下鴨神社など、京都の有名な神社はいずれも昔は神仏習合で、境内に多くの仏教施設があり仏像などを数多く保有していたのだが、「神仏分離令」が出たことで境内の仏教色が一掃され、仏像・仏具類を神社の境内から撤去することとなった。また、照高院のように廃寺となった寺や、安井金毘羅宮*のように寺院が神社になったようなケースもあり、仏教施設や仏像・仏具などの一部は他の寺院が引き取ったものの、処分しきれなかった金属製の仏具等が、四条大橋の建築資材として持ち込まれたことが考えられる。
*安井金毘羅宮: 神仏分離前は蓮華光院という寺院であった。
しかしながら、集められた金属類はそれだけではなさそうだ。
『神仏分離資料第一巻』に出てきた深草の宝塔寺については今も現存する寺であり、明治期に何かが破壊されたという記録もなく、慶長十三年(1608年)に建立された本堂と室町時代に建立された総門と多宝塔はいずれも国の重要文化財に指定されており、『都名所図会』の時代の景観が概ね維持されているようなのである。
宝塔寺の事例について記録が残っているならば読んでみたいところだが、おそらくこれは「神仏分離令」とは関係がなく、京都府より金属製の仏具等の寄付を迫られて供出したものだと思われる。このような事例は他にも相当あったのではないだろうか。
明治初年の廃仏毀釈と文明開化による旧物破壊
明治初年の神仏分離令には、仏教施設や仏像仏具を破壊せよとは一言も書かれていないのだが、実際には仏塔や仏像などの多くがこの時期に破壊されている(廃仏毀釈)。
『神仏分離資料第一巻』に大隈重信の「明治初年の廃仏毀釈」という文章が掲載されている。
「明治初年の廃仏毀釈は、神道者、国学者及び漢学者が主唱したもので、彼等が仏教に対する積年の怨恨を晴らそうとしたものだ。政治上の統一力が不十分であって、大に乗すべき余地があった。彼等はこの機会に方り、自ら主唱する便宜を得たものだ。実際寺を焚いたり、仏像を壊したりした。廃仏毀釈は全く彼等の仕事であったのだ。…今日より見れば、宗教問題は固より大切であるが、当時は政治の要路に当たっている者が、殆どその問題に思い及ばなんだ。寺を焚いたり、仏像を壊したりしたるも、最初は政治上から別段の注意することもなかった。これが事実である。」(同書 p.275-276)
神仏分離令が出たのは三月二十八日だが、四月一日に近江日吉山王社の仏像仏具の数千点が破壊され焼き捨てられる事件が起きている。この事件の主謀者は日吉権現祠官の樹下茂国と生源寺義胤で、樹下は現役の神祇事務局権判事であった。この文化財大量破壊について政府の責任は重たいはずなのだが、二人に対しては、この事件から1年9か月も後になって解職処分とされた程度で済んだという。
新政府からすれば、この事件が起きたのは政府軍が戊辰戦争で旧幕府軍と戦っている最中で 江戸城が無血開城となる10日前 のことであり、この事件に関わってるような状況ではなかったというのが実態であった。
明治の初期には仏像などが破壊される事件が各地で起きたのだが、このような廃仏毀釈に大きな影響を与えたのは平田派の国学者達で、この時期は彼等が神祇官で主導権を握っていた。
しかしながら明治維新を成し遂げた中心メンバーは近代化・西欧化を目指していて、極端な復古主義を主張していた平田派は政府内で次第に力を失っていくことになる。明治三年末には神祇官官員が削減されて急進派が失職し、明治四年には国事犯の嫌疑(平田派国事犯事件)がかけられて要職から追放され、開化主義者が政府の主導権を握ることとなる。
しかしながら開化主義者も同様に古い文化財を守る意識はなく、その後も仏教施設などの文化財破壊が続くことになる。彼等が行った文化破壊は、仏教や儒教が伝来した以前の日本に戻そうとする復古主義者による破壊とは異なり、古いものは何でも西洋風のものに置き換えようとしたのである。
前掲書で大隈重信は次のように述べている。
「神道者等は神仏分離ということで、社僧が廃せられたら神道者等が社僧に代わり大いに富栄の位置を得べきことと楽しんでいたのだ。徳川時代の坊主のような安楽な境遇を得るであろうと喜んでいたのだ。然るに一向楽しみ甲斐もないようであったから、また神社を破壊したというようなこともあった。実に面白い状況であった。此の如くにして、畢竟(ひっきょう:要するに)旧物破壊ということとなり、仏教も神道も勢力を失い、漸次変遷して来たのだが、新に勢力を得ることとなったものは、独り欧米の文物思想であった。」(同書 p.279)
と、破壊を主導していた思想が明治初期とは異なっていったことを示唆している。
冒頭に書いた通り、鉄製の四条大橋を架け替える工事が始まった明治六年は、国全体で洋風化に取り組んでいた時期なのであるが、この時期に政府主導でどのような「旧物破壊」が行われていたか、一部を紹介しておこう。
上の画像は、ヘラルド新聞(英字新聞)の記事を明治五年(1872年)二月に毎週新聞が抄訳したものである。現在の上野公園は寛永寺の敷地の一部でありそこに徳川家累代の墓もあったのだが、日本政府の命により「幾百年の古木森々と繁茂し、実に美麗の壮観」であった森の樹木を倒し、仏像を破却し、墓を他の場所に移転させる工事が行われていることを伝えている。
上の画像は明治五年(1872年)八月の郵便報知十五の記事で、滋賀県では町々の石の地蔵を取り払ったと書かれている。
また、明治六年(1873年)1月の郵便報知三十五の記事だが、各地にある石仏や石塔などは堂宇とともに11月29日を期限に一切取り除き、敷石や靴脱ぎなど有用なものにして用いよとの命令が出ているのだ。
開化主義者は「廃仏令」こそ出さなかったが、寺が経済的に厳しくならざるを得ないような施策を出している。
例えば明治四年には寺社境内地以外の土地を没収(上知令)し、八年には境内地を祭典や法会に必要な範囲に限定のうえ他の土地をすべて没収し、さらに十七年には禄米も廃止している。このために寺の収入は激減した。
また、お盆の施餓鬼などの法要も禁止されている。
このように明治政府は、平田派が追放された後も、まるで真綿で首を絞めるように仏教の弾圧を続けたのである。
清水寺の千体石仏群のこと
京都清水寺の成就院に向かう坂道の一角に千体石仏群がある。
かつては京都の各市内に祀られていた地蔵尊だったのだが、廃仏毀釈の際にここに持ち込まれたと伝えられていて、今も一部の石仏に花が生けられている。
破壊されたものであれば頸が折られた石仏がここに並ぶところだが、いずれも破壊はされていない。この石仏群は、明治六年に出された各地にある石仏や石塔を取り除けというお上の命令で、敷石や靴脱ぎにしてしまうのは忍びないと考えた信心深い人々が、ここに運び込んだのではないかと私は考えている。
明治時代の一般的な歴史叙述においては、廃仏毀釈による文化破壊は明治初年に平田派の国学者や神官らの主導でなされたことになっており、その後文明開化時に明治政府が行った旧来文化破壊や環境・景観破壊については一切触れることがない。また明治末期には、神社合祀政策により神社の破壊も政府主導で行ったのだが、こういう歴史も伏せられてしまっている。
何時の時代もどこの国でも為政者にとって都合の悪い史実は、歴史叙述の中で封印される傾向にあるものである。教科書などで伝えられる歴史はキレイごとだけで描かれていて、これでは本当は何があったかが見えてこない。何時の時代にせよ、良いところも悪いところもバランスよく学ぶことで、その時代を正しく評価することが出来るのだと思う。
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コメント
こういう書籍もあるのですね。
https://books.j-cast.com/2019/07/10009356.html
寺請制度のもと、伊勢神宮や伏見稲荷は、どこのお寺の管理下にあったのでしょうか?
年金生活者さん、コメントありがとうございます。鵜飼さんの本は購入させていただいています。私が11年前から採り上げていた話題が書かれていて、先を越されたような気持ちです。はやく本にまとめておけばよかったですね。
神仏習合で伊勢神宮や伏見稲荷も境内に寺がありました。過去ブログで書いた記事ですが、参考にしていただくとありがたいです。
「伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと」
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-314.html
「伏見稲荷大社と稲荷山の山巡り」
廃仏毀釈・神仏分離を、国家神道というテーマから論じているブログがありますね。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e6415f33e483f952aad89a959f1d5c2
そのブログに対するコメントの中で、真宗が神道を使って云々というのがありますが、荒唐無稽とは言えないような感じがします。
因みに、近代史における真宗について議論がなされることが少ないように思われます。例えば、大谷家への光淳皇后さまの妹様のお輿入れは政略結婚であり、これにより、神職の千家よりも上位の爵位を得ていた大谷家のエスタブリッシュメント内に地位を不動なものにしたのでしょうか?素人
年金生活者さま、コメントいただきありがとうございます。
当時の史料でアクセスできるものが少ないので、確かなことは分かりません。西本願寺が討幕派を支援し、東本願寺は幕府を支援していたことは確かです。そのため維新直後から東本願寺は廃仏政策を警戒していました。
実際に全国各地で役人による仏像などの破壊が始まると、三河国では門徒が反乱を起こしています。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-459.html
「明治維新とは真宗の、真宗のための革命だった」とする説は、俄かには信じがたいところがあります。