江戸時代までの厳島の歴史
厳島神社は宮城県の松島、京都府の天橋立とともに日本三景の一つでもあり、1996年には世界遺産にも登録されている観光名所である。前回の「歴史ノート」では日本三大弁天のひとつである琵琶湖の竹生島にある宝厳寺の文化財の多くが明治初めの神仏分離令の危機から守られたことを書いたが、同じ日本三大弁天の宮島ではそうはいかなかった。今回はその厳島神社の神仏分離について書くこととしたい。
本題に入る前に簡単に厳島神社の歴史を振り返っておこう。
厳島神社が鎮座する厳島(宮島)は古くから島全体が信仰の対象であったとされ、厳島中央の弥山(みせん:標高535m)中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃から始まっていたものと考えられている。
厳島神社については、推古元年(593年)安芸国の豪族・佐伯鞍職(さえき の くらもと)がイチキシマヒメの神託により創建されたと伝えられているが、厳島神社が現在の威容を構築したのは平家一門の後ろ盾を得た平安時代末期だという。久安二年(1146年)に、平清盛が安芸守に任官されると、清盛はこの神社を尊崇し、仁安三年(1168年)頃には現在と同程度の大規模な社殿を整え、平家一門の隆盛とともにこの神社も栄えて平家の氏神となった。
その後社勢は衰えていったが、毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島一帯を支配下に置くと、この神社を崇敬して大掛かりな社殿修復を行い、また豊臣秀吉も、九州遠征の途上でこの神社を参拝し、大経堂(現 千畳閣)の造営を行ったという。
上の画像は江戸初期に描かれた「厳島屏風図」だが、社殿もあれば塔や仏堂も描かれている。厳島神社が保有している国宝に「平家納経」や「紺紙金字法華経七巻」「観付言経一巻」「金銅密教法具」があることからわかるように、厳島神社は古くから神仏習合が行われており、海上神の弁財天信仰などの聖地とされ、江戸時代には伊勢詣や四国遍路と並んで、厳島詣が盛んにおこなわれていたのである。
実質的に島を支配していたのは厳島神社、大聖院、大願寺と宮島奉行で、厳島神社は島内および安芸国の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられていたという。
ところが明治新政府から神仏分離令が発布されると、この島に廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は多くが廃寺となっている。
社殿の焼き払いを命じた役人に抗した棚守職の野坂元延
当時のことが『神仏分離史料 第三巻』所収の江木謙蔵「厳島における神仏分離」に詳しく出ている。
明治元年三月二十八日、突如として起こった神仏分離の叫びは、永く霊島として両部神道の下にその存在を誇った安芸の厳島をも同じように襲ったのであった。
芸州藩におけるその禁令は、特にひどかったのであるが、丁度その頃、地方巡視の名を受けて、政府より派遣せられた大参事某は、藩の役人とともに厳島に至り、その社殿の仏教式なるを見て、直ちに社殿を焼き払い、神体を海に流してしまうべきことを命じたのである。
それまで既に千年以上も代々棚守職を続けて来た野坂氏の当主元延氏はこの命を聞き、恐懼おく所を知らず、直ちに祖先伝来の家宝を売りて金に代え、江戸に上る費用とし、家は閉じ、家族は総てこれを自己の娘の嫁せる同町の某家に預け、一同と別れの水杯を交わし、身命を賭して単身江戸に上り、朝廷に嘆願することによって、やっと現状維持の許可を得たのであった。かくして漸く、今われらの前に「安芸の宮島」として、その美を誇る厳島神社が遺されることとなったのである。
(『神仏分離史料 第三巻』p.1141~1142)
棚守職というのは、厳島神社大宮の宝蔵を管理する神職で、戦国時代に野坂房顕が大内義孝や毛利元就・輝元の後ろ盾を得て実質厳島神社のナンバーワンとなり、以降その地位を野坂家が代々受け継いできた役職である。その野坂元延が江戸で嘆願している間に、この役人は文化財の破壊を命じたのであろう。
今美しく丹青色に映えながら海上に浮かぶその社殿も、当時は、殆ど白木のように剥げてしまっていた。それを令の下るとともにわずかに残っていたその色をも、全く剥ぎ取ってしまい、それとともに、本社に安置してあった数体の仏像も、(土地の人はこれを太郎坊次郎坊と呼んでいた)社人飯田某等が集って、今の大鳥居のあるあたりに持ち出し焼き捨ててしまい、大いに快を叫んだのである。この話を後で伝え聞いた町の人々は、皆涙を流して仏罰の恐ろしき事等話し合ったという。飯田某はのち広島に転住し、その子孫は滅んでしまったということである。当時の社家は十八軒あったのであるが、現存するものは、僅かに野坂、林両家のみである。
(同上書 p.1144)
厳島の霊峰・弥山(みせん)には厳島神社のご祭神である天狗が住んでいて、その名を太郎坊、次郎坊と呼んだという伝説があるそうだが、地元の人々がその名前で呼んで代々大切にしていた仏像が破壊されてしまったのである。しかしながら、野中元延が朝廷より現状維持の許可を得たことで多くの文化財が救われた。もしこの人物が機転を利かしていなかったら、今日厳島神社が世界文化遺産に登録されるようなことはなかったのではないだろうか。
厳島の寺はどうなった
神仏分離令以前の厳島は神仏習合で、五重塔や多宝塔のほか多くの堂宇があり僧侶がいたのだが、以前からすべての神事は棚守職が主導し、僧侶はそれに従っていたという。
上の画像は享保五年(1720年)に描かれた『安芸国厳島勝景図』の一部だが、右上にある山が弥山で、その麓から山の中腹にかけて描かれているのが厳島神社の別当寺であった大聖院である。
この寺は明治初めまでは、僧を率いて厳島神社の法会を行っていたのだが、神仏分離により神社と絶縁して単独の寺院となり、その子院十二坊は総て廃絶されて、僧侶たちは還俗したり他所に移ったりしたという。明治二十一年には大聖院の本堂・客殿などが焼失して、大師堂のみが残されたというが、その後堂宇は整備されている。
また厳島神社のすぐ近くに大願寺という寺がある。この寺は厳島神社の修理・造営を掌っていて、建築に必要な鍛冶や大工などの職人を抱えていたという。この寺も厳島神社から独立することとなり、厳島神社から遷された八臂弁才天像、千畳閣(大経堂)の本尊であった木造釈迦如来坐像(国重文)、脇侍の阿難尊者像(国重文)と迦葉尊者像(国重文)、五重塔の本尊であった釈迦如来坐像、脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩の三尊像などが集められたという。
厳島神社は日本三大弁財天の一つとよく言われるのだが、厳島神社にあった弁財天像は大願寺に遷されているので、弁財天の御利益を期待するなら、この寺を拝観するしかないだろう。ところがこの寺の内部拝観には、事前に予約が必要なようだ。但し厳島神社由来の八臂弁才天像は秘仏であり、御開帳は毎年六月十七日に行われるのだという。
千畳敷(国重文)は豊臣秀吉が創建した大きな建物で、かつては大経堂と称する仏堂であったのだが、神仏分離的に仏像を大願寺に移し、代りに秀吉を祀っていた小祠を千畳敷の内部に移して、名称を厳島神社末社・豊国神社とした。しかしながら建物が大きすぎて、祠の大きさとつりあいがとれていない。また以前は柱に彫刻が施されていたようであるが、明治五年(1872年)四月に秀吉を祀る小祠を遷した際に、柱の木鼻が切り取られたことが記録されている。
その時大経堂の中心柱頭にあった象鼻二個は、広島県令伊達宗興の命によりて裁断せられ、その一個は佐伯郡草津村小泉甚右衛門氏が請うて之を家に蔵している。
(同上書 p.1146)
伊達宗興は元紀州藩士であったが、文久二年(1863年)に脱藩し上洛して中川宮に仕えて尊皇攘夷の志士となり、維新後は和歌山藩の執政、次いで藩権大参事を勤め、明治四年十二月から広島県参事、明治五年八月には同県の県令に昇格している。この時期に全国各地で廃仏毀釈が起こったのは、廃藩置県後に新政府が全国に送り込んだ県令に、新政府の意向を汲んで成果を挙げようとした者が少なからずいた結果なのだろう。
多宝塔を守った宮田文助
また五重塔(国重文)や多宝塔(国重文)も厳島神社の所有となっているのだが、二つも塔を保有している神社は珍しい。もともと多宝塔については大願寺所属であったのだが、なぜ厳島神社が保有することになったのだろうか。多宝塔については前掲の論文にこう記されている。
(多宝塔は、)維新の際は既に荒廃に帰していた。大願寺所属の塔であったが、分離の際、町民はこれを毀し、取り除かんとしたのである。同地の宮田文助氏はこれを嘆き、単身県庁に行きて保存のことを請い、独力にて修繕を加え、本尊薬師如来は大願寺に移し、同所の金刀比羅神社(今は既になし)に合わせ祭ってあった加藤清正を、宮田氏らその信仰の者達と協議の結果、明治十三年三月この塔に移すことの官許を被り、同年四月宝山神社と称することを許されたのである。然るに大正七年七月五日、宮司高山氏は、再び改めて神社付属の多宝塔と為し、その神体は千畳閣に移したのである。
(同上書 p.1148)
「町民」が大願寺の塔を取り壊そうとしたと書かれているが、反仏教的な考えから塔を毀してしまえという考えではなかったようだ。多宝塔は相当傷んでいて、資金を募って修理するよりも、神仏分離を機に取り壊した方が良いと考えたという意味であろう。この塔を守ろうとして修理したのは「宮田文助」とあるのだが、この塔を神社の保有とすることは役所と協議した結果のようだ。当時の役所は寺の修理のために出費をすることを認めることは難しい事情があったのではないだろうか。
この「宮田文助」という人物についてネットで検索すると、明治二十四年七月二日付の芸備日々新聞の記事がヒットした。
厳島神社の御旅所なる佐伯郡地御前村の地御前神社は近年痛く破損して修繕もなさず拝殿の如きは建腐の有様、実に見る影もなきことなるを苦に何でも一□修繕せんものと思い立ちしは厳島町の宮田文助なる人にて同人は此の修繕の事を地御前村の人々に謀りしに同村は仏教信者多くして心を神事に委する者なきを以て同村人は、宮田の心配を蛙面水に受け流し一も助力せんとせざりしとか然に宮田の熱心なる遂に自己の力にて同社を修繕することとなり(建腐の拝殿は取り除く)今や旧観に復したりと依て阿品と厳島との間を通航する船は自今宮田をば無賃にて渡すことゝなしたりと神賞として宮田は之を勧受するならん。
(明治二十四年七月二日付芸備日々新聞記事 『ふるさと 阿品 よもやま』より)
地御前神社というのは厳島の対岸にあり、厳島神社の下宮として、厳島神社と同時期に創建されたと伝わる由緒ある神社である。この神社が傷んだまま修繕もなされずに放置されているのに心を痛めて一人で修繕した人物が「宮田文助」というわけだが、おそらく厳島の多宝塔を修理したのと同一人物であろう。
守られた厳島の景観と文化財
厳島にあった本地堂、十王堂、地蔵堂、輪堂、仁王門、大鐘楼、鐘楼などは取り壊され、社僧がいた寺の多くは廃された。大鐘楼には大内義隆が寄付した、京都の知恩院の鐘とも比すべき巨大な梵鐘がかかっていたのだそうだが、その行方は不明と記されている。しかし、五重塔、多宝塔、千畳敷、御文庫は厳島神社の所有として残され、大規模な破壊は免れることができたのである。
世界遺産である厳島の美しい景観と文化財が守られたのは、棚守職であった野中元延が「身命を賭して」朝廷と交渉したことが大きく、また宮田文助が多宝塔や社殿を修復することに尽力したことも重要だと思うのだが、そういう歴史が忘却されてしまってはいないだろうか。
政治体制が大きく変わった時に、古いものを古いままで残すことは容易ではない。厳島で多くの建物を古いままで残すことができたのは、然るべき地位にある者が適切にその力を行使し、それを経済面で支えることのできる者が支援することができたからなのだが、もし野中元延が役所の言いなりになっていたら、また宮田文助らの信者が資金を出さなければ、厳島はどうなっていたであろうか。
厳島に限らず今日の有名な観光地には、多くの場合、このような危機に際していろんな人々がなんとかしてその景観を守ろうと力を尽くした歴史がある。今日の繁栄は、先人たちの努力のおかげであることを知るべきである。
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