藩主自らが率先して廃仏毀釈を推進した苗木藩の事情

廃仏毀釈・神仏分離

苗木城と最後の苗木藩主・遠山友禄

苗木城 大矢蔵跡 2013/7/20撮影

 岐阜県中津川市内を東西に貫流する木曽川の右岸に聳える高森山の山頂に国指定史跡である苗木城跡がある。上の画像は平成二十五年に訪れた時に撮影した苗木城大矢倉跡の石垣だが、この城跡の頂上にある展望台からは素晴らしい東美濃の景観を楽しむ事が出来る。

苗木城展望台眺め 2013/7/20撮影

 遠くに一段と高く聳えるのは標高2191mの恵那山で、眼下に流れているのはもちろん木曽川だ。高森山の標高は432メートルと決して高くないのだが、麓を流れる木曽川までの標高差は約170メートルもあり、絶景の360度パノラマが見晴らせる。運が良ければ秋から冬にかけて雲海が出て、この城が雲の上に浮かぶ「天空の城」になるのだという。

 ネットには素晴らしい画像や動画がいくつかアップされているが、上の動画は大塚健司さんが雲海のできた昨年末にドローンで撮影されたものである。

 簡単に苗木城の歴史を振り返ると、この城は大永六年(1526年)に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏がこの地に移り住み、その後天文年間(1532~1555年)に遠山正廉がこの城を築城したと伝えられているが、戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われてしまう。しかしながら慶長五年(1600年)に遠山友政は徳川家康の命を受け、関ヶ原の戦いに先立って苗木城を奪還し、以後江戸時代を通じ十二代にわたり遠山氏がこの城の城主として苗木藩を治めて来た。その後徳川幕府が倒れ、明治二年(1869年)の版籍奉還により苗木藩の第十二代藩主である遠山友禄(ともよし)が藩知事となり、この苗木城に苗木藩の藩庁が置かれたのだが、明治四年(1871年)の廃藩置県で苗木藩は苗木県となり、友禄は政府の指示により藩知事を外され、華族として東京移住となってしまう。そしてその後同年の第一次統合により苗木県は岐阜県に吸収され、消滅してしまった。

 版籍奉還後、遠山友禄が苗木藩の藩知事であったのは二年余にすぎないのだが、その短い期間に徹底的な廃仏毀釈が行われ、最終的には藩のすべての寺院が破壊されてしまっている。なぜそのようなことが起こったのか、、今回はその経緯について書くことといたしたい。

藩主・遠山友禄がなぜ廃仏毀釈を推進したのか

 遠山家は石高わずか一万石の小大名であったのだが、徳川幕府に対する過去の功績から譜代大名として扱われていて、遠山友禄は文久元年(1861年)と元治元年(1865年)の二度にわたって幕府の若年寄を勤め、大阪警備や第二次長州征伐に参加し、慶応三年(1867年)に若年寄御免となってからも、日比谷御門固めとして江戸詰めを続けて、それにより藩の借金は膨らむばかりであった。

遠山友禄(Wikipediaより)

 慶応四年(1868年)一月に鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、江戸に上って来た家臣の説得を受けて幕府へ帰国願を呈出し翌月に苗木に戻ると、美濃に来ていた東山道鎮撫岩倉総督に忠誠を誓い、苗木藩は新政府に援軍を送ったという。友禄からすれば、これまで幕府に協力してきたことから、新政府から朝敵とみなされることを懸念して、新政府に恭順の意を示すことが必要と考えたのであろう。

 しかしながら、これまで事ある毎に幕府を支援してきたために苗木藩の借金は十四万三千両、藩札は一万五千九百両にも及び、友禄にとって急務であったのは苗木藩の財政立直しであった。友禄は、新政府と戦うような事態はなんとしてでも回避しようとし、思い切った人材登用と大胆な藩政改革を断行して財政収支を改善し、さらに新政府の施策を率先して行うことで新政府に対し従順であることを示し、なんとかして生き延びようと考えたのである。ここで重要な役割を担ったのは青山景通(かげみち)・青山直道の父子であった。

平田篤胤 (Wikipediaより)

 苗木藩の下級士族であった青山景通は、 江戸で平田派の国学を学び、嘉永五年(1852年)東濃地方で最初に平田篤胤の門人となり、慶応四年(1868年)の五月には新政府の神祇官の高級官僚となっていた

 苗木藩主・遠山友禄は、新政府と苗木藩との関係を良くするために青山景通を重んじることとし、さらにその長男の直道を藩職の最高位である大参事に抜擢した。その結果平田篤胤の「外国から伝わった儒教や仏教は排除されるべき」との復古神道の考えが苗木藩の中枢に浸透していったのである

 そして明治三年(1870年)には藩主自らが平田国学に入門し、藩の政治と諸改革が、平田派門人により運営されるようになったという。

苗木藩の廃仏毀釈

 安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書)にはこう書かれている。

 慶応四年七月、苗木城の守護神竜王権現は高森神社と改められ、本尊大日如来像の撤去などがおこなわれた。その後、地域での神仏分離や平田門人の神葬祭改宗などがあったが、苗木藩の廃仏毀釈が本格的に進行するのは、明治三年七月に知事(旧藩主)が自家の神葬祭を願い出、それが領内全域に及ぼされるようになってからである。ついで八月には、村々の辻堂や路傍の石仏・石塔などを毀(こぼ)ち、神社の神仏分離も徹底することが命ぜられた。苗木藩の廃仏毀釈は、領内の全寺院(十五か寺)を廃毀し、石像石碑にいたるまで、仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させる、というすさまじいものであった。

」(安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書 p.99-100)

 そして、藩知事(遠山友禄)自らが率先して廃仏毀釈を推進したのである。安丸氏は続けてこう書いている。

 三年閏十月、廃仏毀釈を督促するために領内を巡視していた藩知事遠山友禄は、加茂郡塩見村の庄屋宅に一泊した。そして、庄屋の後見役柘植謙八郎を召しだし、過日、神葬祭に改めるといったのに、仏壇がそのままになっているのはどうしてか、と詰問した。謙八郎が、伯父(庄屋?)は七十余歳で、日夜あまりに廃仏を歎くのでやむをえず『等閑』にすごした、と答えた。友禄は、明朝、仏壇を庭前にもちだすように命じた。ついで病気の組頭市蔵に代わって倅為八が呼び出され、同家の仏壇も明朝もってきて、おなじく庄屋宅の庭前におくように命じられた。翌朝、両家の仏壇から本尊と脇仏六幅がとりだされ、一つ一つ土足で踏みにじられ、火中へ投げこまれた。仏壇も焼き捨てられた。これを見た市蔵の妻は、狂乱のようになって本尊とともに身を投じて焼死しようとして、まわりの者から抱きとめられた。
 こうして、塩見村の人々は、恐怖と不安にかられながらも、結局は神葬祭を受けいれるほかなかった。…

(同上書 p.100)

 藩知事が平田国学に心酔し、自らが率先して廃仏毀釈を推し進めていたのであるから、藩士たちがそれに従っていったことは当然のことである。

 廃仏毀釈に詳しいs.minagaさんのホームページに、苗木藩の廃仏毀釈の通達などが紹介されている。

まず最初に寺院の収入減を奪うことから始まっている。

慶応四年(1868年)、神祇官権判事青山景通が自らの神葬改宗を弁事役所へ願い出る

 「私儀家内に至る迄、神葬祭仕り度、この段願い奉り候」

明治三年七月二十三日、苗木藩郡市局名をもって家臣一同へ達

 「知事様近日御自葬御願相成候につき、士族ならびに卒族に至るまで自葬相願出候様仰出され候。この段心得のため申達するもの也」

同年七月二十七日、知事遠山友禄、神葬改宗を弁事役所に願い出る。

 同年八月七日、苗木藩は、管内の士族、卒族その他一般のすべてが神葬に改宗する旨の伺い書を弁事役所に提出、即日裁可される

明治三年八月十五日、郡市局達(苗木藩の廃仏毀釈)
 『一、村々の内、辻堂を毀ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候
   但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
  一、諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候
  右の条々相達し候もの也。
                   午 八月十五日  郡市局
  御支配村々里正中』

明治三年八月二十七日、達
 『一、諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
  一、堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。』
明治三年九月三日、廃寺帰俗の申し渡し
大参事青山直道、管下寺院の全住職を藩庁へ呼び出し、申し渡し

 『今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける
 よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀を許し、村内においては里正の上席とす。』
住職たちは、遠山家菩提寺雲林寺で協議、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決する。

 では不要となった仏堂や仏具などはどうなったであろうか。廃寺のあと廃仏令が出されたようだ。

『神仏分離史料 第二巻』に「東白川村史」が引用されている。

 四年二月、政府の認可を経て廃仏令を布く。ここに置いて神事水野忠鼎、大監察岩瀬邦雄、廻村寺院処分をなし、三月までに結了せり

 右の如くして廃仏は行われ、本村に於いても寺院は廃せられ、阿弥陀、観音、地蔵、薬師等の小堂は毀たれ、かつ藩より仏具を所有すべからず、もし所有するものは、あるいは毀たれ、あるいは流され、あるいは売却せられ、ほとんどその影を止めず。僅かに隠蔽したるもの一二を存するのみ。…

 かくして全村無宗教となり、ただ神職ありて神社の祭事を司るのみ

(『神仏分離史料 第二巻[復刻版]』名著出版 昭和45年刊 p.611)

 抵抗した僧侶もいたのだろうが、同書所収の藤井草宣「苗木藩の廃仏と東本願寺」に、僧侶に強引に廃仏を認めさせた事例が記されている。

 先に坊主の素行を調べて置いて、然る後に、突然坊主と信徒二人宛を呼び出して魚を食わせた。この時代は、未だ封建時代の習慣が残っている間であったから、妾を置いたり魚を食らうことを隠していた。そこで、役人の前で、ご馳走に出た魚を食わぬと言えば、汝らは平素魚を食い妾を置いているではないかと、先に取調べてある事を一々並べ立てて糾問する。そして、汝らがもし廃仏を承諾すれば許してやる。もし廃仏を承諾せねば縛するがどうだと脅して承諾させた。そしてすっぱりと寺を潰し、地蔵で橋を架け、内仏で風呂をたいて、仏風呂に坊主を入らせた。

(同上書 p.622)

 こうように苗木藩は、仏教を完全に排除するために随分酷いことをやっている。結局苗木藩の寺は収入源が断たれて全てが廃寺となり、仏像・仏具類は破壊されたり売却されたりした。

 激しく廃仏毀釈を行った地域は他にもあるが、多くの地域でいくつかの寺が再建されたの対し、東白川村ではその後寺が建つことはなく、この村はわが国で唯一、域内に寺のない自治体となっており、ここでは冠婚葬祭の全てが神式で執り行われているのだという。

東白川村に残された廃仏毀釈の傷痕

四つ割りの南無阿弥陀仏碑 2013/7/21撮影

 上の画像は東白川村役場(岐阜県加茂郡東白川村神土548)の脇に建っている「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」(東白川村指定史跡)で、正面から見ても、真横から見ても、縦に見事に割られている。
ある。この村役場の敷地にはかつて「常楽寺」という寺が存在し、その寺にあった碑だという。

 こんなに綺麗に割れているのは、常楽寺の住職がこの名号塔を制作した高遠の石工・守屋伝蔵を呼び寄せ。石の節理に沿って割らせたことによるのだそうだ。割られた石は畑の石積みとして利用されたそうだが、昭和十年(1935)に有志の手により掘り起こされて再建されたという。

穴観音 2013/7/21撮影

 上の画像は中津川市苗木609にある「穴観音」(中津川市指定史跡)だが、「びっくりなかつがわ」というサイトにその場所が案内されている。近くまで来ると大きな岩があるので誰でもわかると思う。

 明治の廃仏毀釈の時に、観音石仏を地中に埋めるのにしのびなく、この穴に隠したという言い伝えがあるのだが、中津川市教育委員会による案内板には「広さ約10㎡の堂内には、明治二年(1869)に起きた廃仏毀釈運動から難を逃れた仏像等が安置され、また穴観音の周囲には破壊された石仏約八体が集められている」と書かれている。

 この穴に石仏を隠したのか、難を逃れた石仏がこの穴に安置されているのかは大違いなのだが、地元で廃仏毀釈の蛮行があったことを、あまり思い出してほしくないような意図を感じさせる文章でもある。格子戸越しに中を覗くと、首を切断された跡のある石仏もあるようだ。

くろぜ道地蔵 2013/7/21撮影

 上の画像は「くろぜ道地蔵」(中津川市指定史跡)である。
 穴観音から裏木曽街道に戻り、高山という交差点を右折し高山大橋で付知川を渡り、すぐ右折してさらに左折した場所に「くろぜ道地蔵」が建っていた。
 高さ2メートルを超える大きな石仏なのだが、首がきれいに切断されている。もちろん背面まで切断されているのだが、教育委員会の案内板には「…尊像の傷跡は明治初年の廃仏毀釈によるもので、村人の厚い信仰により一時期、山中に匿われていたが、その後この地に再建されたものである。」と書かれている。
 首が切断されているのを「傷跡」とさりげなく書くのは、地元の人々にとっては「苗木藩の廃仏毀釈」は触れたくない史実であり、忘れてしまいたい歴史ということなのだろう。 だから地元の人に聞いても知っている人は少なく、知っている人も詳しくは語りたくないようなのだ。

「石仏散歩」というホームページに、破壊された多くの石仏の画像が紹介されている。

 「苗木遠山史料館」を訪ねて学芸員の方に、上記サイトに出ている石仏のある場所を訊ねた際に、きれいに割られた石碑・石仏のみを教えていただき、他の事例は余り教えたくなさそうに感じた。学芸員の方が、廃仏毀釈と言っても決して荒々しく破壊したのではなく、きれいに石像を割っていることを強調されたことが妙に印象に残っている。

 地元にはすでに歴史ある寺もなければ文化財もない。地元の人たちにとって廃仏毀釈の真実を詳しく知ることは、先祖が為したことを否定することにもなり、現在の神道を中心とした生活をも否定することにも繋がってしまう。それでは、地元で生きることに誇りが持てないことだろう。
 東白川村を愛する人々にとって苗木藩の廃仏毀釈は「触れたくない歴史」であり、できれば、そっとして欲しいというのが本音だったのかもしれない。

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