水戸藩の徳川光圀と徳川斉昭による廃仏毀釈とその目的

廃仏毀釈・神仏分離
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江戸時代の廃仏毀釈

 前々回及び前回の「歴史ノート」で鹿児島藩の廃仏毀釈について書いたが、「排仏」の考え方は古くからあり、江戸時代に廃仏毀釈が行われた藩は他にもいくつかある。圭室諦成著『日本仏教史概説』にはこう解説されている。

 排仏論は、諸藩の理論的指導者である儒者によって展開せしめられた。従って理論が実践に移されて、廃仏毀釈にまで進展することは自然の勢いである。すでに江戸時代、革新的気運横溢せる諸藩、水戸藩・岡山藩・会津藩・鹿児島藩・津和野藩等について廃仏毀釈の断行されていること、宜(むべ)なるかなである。ただし幕府の政策は依然檀家制度保持を原則とした。従って廃仏を企画せる諸藩は幕府に睨まれ、ために廃仏は竜頭蛇尾に終わるを余儀なくされた。しかるに排仏論自体は、国学者平田篤胤を経由することによって、一方全国の神主を、他方新時代の支配層たるべき人々の心を捉えた。…

(圭室諦成著『日本仏教史概説』理想社出版部 昭和15年刊 p.400)
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 江戸時代に最も早く廃仏を実行したのは水戸藩であり、鹿児島藩は水戸藩に倣おうとしたのだが、今回は水戸藩が他藩に先んじて廃仏を断行することになった経緯を振り返っておきたい。

徳川光圀の寺社整理

 羽根田文明著『仏教遭難史論』に江戸末期の水戸藩の「廃仏毀釈」の経緯が記されているので引用させていただく。文章の中の「義公」は水戸藩二代藩主で、『大日本史』の編集を始めた徳川光圀(1628~1701)で、「水戸黄門」の名でよく知られている。

徳川光圀 (Wikipediaより)

 義公が寺院を整理し、僧侶を淘汰せるは、寛文五年(1665年)に始まる。この年、寺社奉行の新職を設け、阿原景隆、山縣元纜の二名をこれに任じて、国内の寺社、僧尼、巫祝(みこ)を調査せしめ十二月始めて、寺社の法令を頒(わか)ち、翌六年(1666年)八月、再び法令を発し、多数の寺院を破却し破戒の僧徒は、みな還俗を命じて、民籍に編入せしめた。六年八月の法令に曰く

『総て諸宗とも、在々所々に至るまで、その所々に過て、小寺多く有之に付、檀方みな、分け散りて、古跡、大地、衰微に及び、由来ありし寺にも、渡世成り難く間、然るべき学僧は住居せず、況や其外の小寺共に、無智、無下の愚僧のみにて、法外の営仕る僧どもは、俗ともしらず、民を迷わし、国の費をなし、風俗の禍とも成り候に付、無益の小寺ども、このたびご穿鑿(せんさく)を遂げ、破却仰せ付らるものなり。…

右の通り、破却仰せ付らる小寺ども、家財の儀は、坊主に下され候。路錢にし、何方へも心次第に参り候とも、又還俗致したき候者は、渡世の品により、居所仰せ付けられ下され候事。寛文六年午八月』

(羽根田文明著『仏教遭難史論』国光社出版部 大正14年刊 p.44~45)
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 徳川光圀はこの改革で二千以上の寺院の整理を行なったというのだが、当時水戸藩では、檀家もなく、葬儀も行わずに祈祷を繰り返す怪しげな寺院が乱立しており、そのような寺が破却の対象にされたという。

 また光圀は、寺院と同様に、小さな神社を多数整理させている。すなわち、一郷一社の制を定め、正しき由緒ある神を祀ってその地の鎮守として、「淫祠」と判定された神社を三千以上破却したという。

 さらに光圀は、神社の改革にも着手している。

 …当時の神社は、いずれもみな神仏混淆の状態で、その神体が仏像なるが多くあった。義公はこれを非なりとして、悉く改めて神鏡、又は幣を神体になさしめた。なお天満宮の社殿に、あらぬ装束したる木造の祀れるを改め、有職家に命じて、衣冠束帯の制を調査せしめ、さらに菅公(菅原道真公)の影像の伝われるを比較研究し、その宜しきに随い、新たに造作して、各社に安置せしめた。…

(同上書 p.47~48)
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 一方で彼は、生母・谷氏の墓のある久昌寺を移築し、祇園寺などいくつかの寺を新築し、仏像などを寄付したり修理するなど、由緒ある寺社は大切にしたのである。羽根田氏は徳川光圀の宗教政策をこう纏めている。

 義公の期するところは、決して廃仏ではなく、ただその神祇たり仏道たるを問わず、いずれもその純一ならんを欲し、その伝説の誤れるはこれを訂し、古式に反するはこれを復し、かくて迷信を排して、国民の信仰を純潔ならしめんとするにあるや、疑うべからずである。

(同上書 p.49)

 光圀の寺院整理は決して仏教を否定するものではなかったのだが、のちに水戸藩において廃仏思想に基づく寺の破壊が行われるようになる。

徳川斉昭の廃仏毀釈の経緯

 水戸藩は代々学問を尊び、『大日本史』の編纂事業などのために多くの研究者が集まっていた。十八世紀末に蝦夷地にロシア船が出没するようになり、文政七年(1824年)には水戸藩内の大津村にてイギリスの捕鯨船員十二人が水や食料を求め上陸するという事件が起こっている。その時の幕府の対応は捕鯨船の要求を受け入れるものであったが、藤田幽谷らはこの対応に反対し、事件の翌年に会沢正志斎が尊皇攘夷の思想を体系化した『新論』を著した。

徳川斉昭 (Wikipediaより)

 文政十二年(1829年)に第九代藩主となった徳川斉昭は、天保二年(1832年)に藩校・弘道館を設立し、会沢正志斎や藤田東湖を重用して藩政改革を実施したのだが、会沢も藤田も筋金入りの排仏論者であり尊王思想家であった。

藤田東湖

 藤田東湖らが藩主斉昭に次のような建言をしたことが同上書に出ている。

 毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう:鐘を鋳潰して大砲を造る)の意見は、早く藤田派の人々の主唱するところであった。天保二年七月、郡奉行より烈公(徳川斉昭)に上って、海防の急務を論じ、大砲鋳造の必要をいえる。封事に曰く

大筒等御鋳造、御差支えも御座候わば、所々の濡れ仏、灯籠等、その外無用の仏具類、御取潰し、御張立に相成り候わば、一廉の御用に相成候のみならず、民心の惑いをも破り、旁(かたがた)一時の良策にもこれあるべく云々

とあり、この時の郡奉行は川瀬七郎左衛門、吉成又右衛門、石川徳五郎、および藤田東湖の四人にして、いずれも藤田派中の俊傑である。爾来しばしばこの事あり、偶々同十三年七月幕府諸藩に令して、沿岸の防備を整え、且人数、武器等の手当をなさしめたが、九月又同じ旨を達し、分限に応じて、大小砲を製造せしめた。ここに於いて、烈公(斉昭)は鋭意、巨砲を造らんと欲するに、水戸藩もとよりその原料に乏しければ、予て蓄え置きたる、唐銅製、硝煙壺を鋳潰したれども、猶不足なるを以て、昔は松平信綱が、仏像を毀して銭を鋳たる故智に倣い、我は銅鐘、銅像を熔て、砲を鋳んと欲す。特に仏は身を捨て、人を救うを以て教えとなせば、必ず当に、その意に協うべしと称し、この年、領内の諸寺院に命じて、鐘像を出さしめて、之を原料に充てた

(同上書 p.65~66)
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 藤田東湖らは、大砲を作るのに梵鐘や仏像などを鋳つぶして使うことを建言したのだが、その後も同様な提案を繰り返して決断を迫っていた。斉昭は天保七年(1836年)に東湖らの提言を取り入れて砲台の築工を開始した。天保十二年(1841年) に初めて大砲の鋳造に成功しているが、次々と大砲を製造するためにはその資材が不足していたため、ついに鐘や仏像を熔かして原料とすることを決断するに至る。

 岩波文庫に山川菊枝が著した『覚書 幕末の水戸藩』に、この時の藩の動きが記されている

 (藤田東湖らの)この献策に基づいて天保十三年(1842年)、左の布告が出た。

『水戸御領中、年々不作、折から御収納も相減じ、思し召すように御届き相成らず候に付き、よんどころなく、御領中寺院のつき鐘、銅仏をもって大砲に遊ばされたき思召』」 

 つき鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に淫祠、邪教と認められたもの二百余寺のお取りつぶし、不良僧侶、修験者等の放逐、還俗等が行なわれた。また水戸東照宮から僧侶を放逐し、今まで神仏混淆であったのを、神道一方にした

(岩波文庫『覚書 幕末の水戸藩』p.90-91) 

 この時の執政・戸田銀次郎は、仏像の鋳潰しについては斉昭公の評判を落とすことになると強く反対したのだが、藩主がこれを一同に諮ると、無用の濡れ仏は鋳潰せということで衆論一致したという。

廃仏毀釈を強行した寺社奉行

 しかし、信仰の対象であった仏像・仏具を取上げることに対し村民の強い抵抗があったことは言うまでもない。にもかかわらず、寺社奉行の今井惟典は強引に「藩主の命令」として、仏像・仏具をかき集めたのである。

 奉行所の小役人どもは…銅鐘や銅の仏像仏具のみならず、大砲鋳造には何の用にもなさぬ木仏、石仏までとりあげた。仏を敬う村民の意向を汲み、自身仏罰を恐れもする村役人たちが、平身低頭、木仏石仏などの引き上げご猶予を嘆願に及んでも、今井らは御領主さまの仰せ付けという一言ではねつけ、おどしつけて、どんな仏像も片はしから荒縄でくくって車につみあげ、寺社奉行の役宅に運ばせた。…

(同上書 p.95)

 寺社奉行の役宅に運び込まれた仏像の内、木仏・石仏は使い道もないので、明治になってもしばらくは、その空き地に山のように積まれて雨ざらしになっていたという。

 佐伯恵達著『廃仏毀釈百年』にはこう解説されている。

 記録によれば、水戸藩の廃仏毀釈の先頭となって働いたのは、寺社奉行今井惟典でした。この者はさすがの東湖でさえも嫌っていて、「氷のように冷たく、人をにくむ心強い、度量のない人間」であると評していて、惟典が奉行になることを大変心配していたほどの人物でした。不幸にして東湖の心配は事実となって、民衆の反抗を買うことになりました。とにかく、惟典の破仏は、常軌を逸することが多かったのです。仏像を菰包みにして縄をかけ、奉行所に送って積み上げ、踏み散らして置き、またある仏体は水戸に送らずにその境内で斧で打ち割り、あるいは火をかけて焼きました。これを見た信徒達は、血涙を流して恨んだといいます。また久昌寺(光圀の遺跡)破却のとき、寺蔵してあった光圀の面を奉行所に持ってきて、箱から取り出してみると、眉間に妙法蓮華経の題目が記されていました。惟典あざ笑いながら、指先に唾をぬってそれをこすり落としました。側にいる者でさえ驚いたといいます。あるいはまた常福寺の記録によれば、墓石をすべて取り払ってしまい、墓所を引きならして畑にしたりしています。この様子を見て民衆は、斉昭は気が狂ったのであろうか、これ以上破仏の処理があるならば、兵を起こして仏恩に報いようとまで言い合いました。仏教徒にとっては永遠に忘れられない、堪えがたい苦汁をなめさせられたことでした。まことに狂気ともいうべき仏教弾圧でした

(佐伯恵達著『廃仏毀釈百年』みやざき文庫 昭和63年刊 p.84)

徳川斉昭の廃仏政策の評価

 徳川斉昭の廃仏政策は国や水戸藩の国防策が背景にあり、外国船対策としての大砲の鋳造が求められていたことを理解する必要があるのだが、彼の廃仏政策で約二百の寺院が処分され、藩内で集められた梵鐘が三百以上のほか、半鐘や鰐口や仏像などが多数集められ、この結果、斉昭は僧侶や領民の怨みを買うこととなった。また、それまで神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神:徳川家康)まで神式に改め、藩祖・徳川頼房公が寄付した灯籠まで鋳潰したことが江戸幕府で問題となり、徳川斉昭は弘化元年(1844年)五月に幕府より隠居謹慎を命じられている。その罪状は「一、無断で大砲を鋳造したこと。二、寺院を破却したこと。三、東照宮を神道化したこと」の三か条が含まれていたという。

 しかしながら、斉昭は弘化三年(1846年)に謹慎を解除され、嘉永六年(1853年)のペリー浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関与することとなり、水戸学の立場から強硬な攘夷論を主張した。その後阿部正弘が死去して、堀田正睦が老中首座となり、開国を推進する井伊直弼と対立したが、将軍継嗣問題の政争に勝利した井伊が大老となり、敗れた斉昭は水戸屋敷での謹慎を命じられて幕府中枢から排除されてしまう。

 しかしながら、斉昭が推進した水戸藩の廃仏政策とその思想が、明治維新を推進した勢力に大きな影響を与え、以前ブログで書いた通り、薩摩藩では水戸藩の事例を倣ってさらに激しい廃仏毀釈が行われた。

 明治維新直後に出された神仏分離政策を受け、水戸藩の事例を参考に少なからずの藩で寺や仏像などの破壊行為が行われ、わが国は由緒ある寺院の貴重な建物や文化財の多くを失うことになるのである。

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 前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

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コメント

  1. こんにちは♪
    水戸藩では廃仏毀釈を1666年に黄門様が実行したことを知り驚きました。
    でも、拝読しましたところ良民を守り藩政を良くする目的で、いまでいう行政改革であって、黄門様はいわれているような英明なお方だったのですね。

    • Ounaさん、コメントありがとうございます。
      ご指摘の通り、光圀公の段階では「行政改革」レベルでした。問題は斉昭公の時期ですね。この廃仏政策がモデルとなり、明治以降各地で破壊が行われました。