明治四年以降全国的に寺の破壊が進んだ理由
なぜ廃仏毀釈が行われたかという点について、平田篤胤派の国学や水戸学の影響を指摘する人が多い。確かに幕末期に行われた廃仏毀釈、あるいは明治初年の神仏分離令が出たあとに行われた廃仏毀釈については、藩主以下、平田派の国学や水戸学の影響が強かった地域が中心であったし、発足した頃の新政府の神祇官は平田派が実権を握っており、神仏分離令などの廃仏施策を相次いで出したことは間違いない。しかしながら、明治四年(1871年)三月に政府内で平田学派が失脚して政府内の要職から排除されているにもかかわらず、それ以降も寺の破壊が行われている。このブログで書いた興福寺や内山永久寺の徹底的な破壊が行われたのは、新政府で平田派が失脚したあとの話であり、奈良に限らず明治四年以降に寺院破壊が全国的に広がって行ったのだが、それはなぜなのだろうか。
明治四年(1871年)七月四日に、明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した (廃藩置県) 。明治二年(1869年)の版籍奉還以降は、旧藩主が知藩事として藩の諸行政を担当していたのだが、廃藩置県によって旧藩主は失職して東京居住が強制され、各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣されることとなった。しかも県令には、旧藩とは縁のない人物を任命するために原則としてその県の出身者を起用しない方針で臨んでいる。当然のことながら、県令に抜擢された人物は、担当する地方行政の方針については、新政府からの指令を受けていたのである。
奈良県の事例でいうと、廃藩置県後に多くの藩が統合されて明治四年(1871年)十一月に奈良県が成立し、初代の奈良県令として政府から送り込まれた四条隆平(しじょう たかとし)は着任当初から開明的な諸政策を実施し、興福寺などの寺の破壊を命じている。
このような破壊を行った県令は奈良県だけでなく全国に及び、明治初期に神官らが中心となって行った廃仏毀釈よりもはるかに規模が大きく広範囲に進められたのである。
明治四年以降の新聞雑誌記事を読む
このブログで何度か紹介させていただいたが、『新聞集成明治編年史』で、廃藩置県後政府が派遣した県令がどのようなことを行っていたか、また政府がどのような命令を発していたかを拾ってみたい。『新聞集成明治編年史』は「国立国会図書館デジタルコレクション」に十五冊全巻がネット公開されており、このブログから読みたい年度の記事を閲覧できるようURLのリストを作成している。
上の画像は、ヘラルド新聞(英字新聞)の記事を明治五年(1872年)二月に毎週新聞が抄訳したものである。現在の上野公園は寛永寺の敷地の一部でありそこに徳川家累代の墓もあったのだが、日本政府の命により「幾百年の古木森々と繁茂し、実に美麗の壮観」であった森の樹木を倒し、仏像を破却し、墓を他の場所に移転させる工事が行われていることを伝えている。寛永寺だけでなく芝の増上寺も破却する命令が出たことも記されているのだが、政府が推進している東京の文化遺産・自然破壊に対して、ヘラルド新聞は外国人の目で批判的に論評していることに注目したい。
「耽々美麗の墳墓を破壊するの処置は元より蕃夷の風俗にして、曾て文明の国にはあらざる所なり。実に上野を毀ち、またこの上増上寺を破却するに至りては言語に絶えたり。もはや外国人江戸を見て目を慰め膽を奪う所とてもなく、ただ大名屋敷の空邸と木造の部屋を見るのみ。且はその大名屋敷も半ば壊敗して、唯将さに衰敗を招くのみ。(中略)今将た遅きにあらざれば此論を挙て日本政府再び事を思い返し、名所破却の一挙を拒まんと欲す。」
子供の守り神である「お地蔵さん」は、日本各地の路傍で今もよく見かけるのだが、近畿地方ではこのお地蔵さんのもとに旧暦の七月二十四日ごろ地域の子どもたちが集まる「地蔵盆」という行事がある。
明治五年(1872年)八月の郵便報知十五の記事によると、滋賀県ではこの祭りが禁止となりあちこちの石の地蔵を取り払ったと書かれている。
上の画像は明治五年(1872年)八月の新聞雑誌五十六の記事だが、京都のお布令でお盆に先祖を供養するお盆の行事の停止が命じられたとの記事である。毎年八月十六日に行われる京都四大行事の一つである五山の送り火は、この記事を普通に読むと、政府により一時的に停止された可能性が高い。
この記事は明治六年(1873年)一月の郵便報知三十五の記事だが、各地にある石仏や石塔などは堂宇とともに十一月二十九日を期限に一切取り除き、敷石や靴脱ぎなど有用なものにして用いよとの命令が出ている。
上の記事は同年六月五日の大阪新聞の記事だが大阪府の戸籍の記載順について、いろは順は仏教の教えが含まれているので、五十音に変えたという記事がある。
廃藩置県以降の政府は何を目指していたのか
文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』に、廃藩置県以降の政治について次のように述べている。
廃藩置県後における政府の事業は、復古的、保守的よりも、むしろ革新的、進歩的の色彩を多量に帯びていた。祭政一致主義や、神祇官を儲け、官制を大化革新の昔に擬したのは、主として、反動的作用と一部の国粋的、尊皇的思想に胚胎したもので、その勢力、影響はむしろ一時的であった。これに反して、革新的、進歩的の事業は、大正の今日に至るまでも影響し、持続しているのである。
然らば、当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国における固有の文化と特徴を自省するよりも、一意欧米の文化に心酔して、その思想、文物を輸入することをもって最善の急務としたのである。而して、それは何をおいても、実利という標準から離れることが出来なかった。
今日から見れば、其の皮相浅薄は、笑うべきものであるが、急激に欧米文化の圧力に対抗するに足るべき武力と富力とを得んと焦慮した。当時にあっては、欧米文化の断片を早呑み込みして、直ちに、革新に資するということが、極めて必要で、その皮相浅薄を顧る遑(いとま)がなかったのである。ことに彼らが、新文化の輸入について、俗衆の無智と戦い、財政の窮乏と戦い、頑迷な保守主義者と戦って、一生懸命に、その新しい仕事を進めて至った熱心と努力とは、日本文化の進展を助長すべき一個の柱礎となったのである。
勿論、当時の政府には、早くから、進歩主義と保守主義とがあって、事ごとに意見を異にした傾きはあったけれども、征韓論の勃発する迄は、それが影になって隠れていた。而して時代は、如何しても、進歩主義者を実際に要求し、且つ進歩主義者の中に、政治家として適当した材能を有するものが、比較的多かったので、勢い、欧化的実利思想を基本として進むことになったのは、当然の帰結であった。
(高須梅渓『明治大正五十三年史論』日本評論社 大正九年刊 p.100-101)
高須梅渓は廃仏毀釈という言葉は用いていないが、この時期は「文明開化」の名のもとに、西洋の思想や風習が急速に広まり、古いものの価値は異常に低く見られて、仏像や仏具などが至る所で廃棄され、城や陣屋なども取り壊され、東海道の松並木までもが伐採され、売れるものは売却された時代なのである。
学校建設のために狙われた寺院
開化論者は寺や仏像などはどのようにすべきであると考えていたのか。森本和男著『文化財の社会史』にはこう記されている。
仏像や仏具を無用の長物と見なし、それを公共のために売却しようとする意見も出された。1873年(明治六年)に神奈川県横浜在住の土志田周作は、仏具を売って基金を作り、その利子を公共目的に出資すべきだという建白書を、集議院に提出した。彼は寺院の仏像、仏具を皇天(国家)の所有物と考えて、全国二十九万六千余ヶ所の寺院を三分の一に減らし、無用となった仏像、仏具を売却して、代金の利子でもって、道路堰堤の築造、あるいは飢饉凶年の時の救荒など、人々の危急の用に充てるように建言した。実際には、小学校の設立に際して、寺院を学校の施設にしたり、あるいは仏像、仏具を売却して、設立資金にすることがしばしば起きた。
1872年(明治五年)八月に学制が制定され、学区制がしかれるとともに就学が奨励された。全国を八大学区、一大学区を三十二中学区、一中学区を二百十小学区に分け、多数の学校が設立された。現実には、学校設立は地元負担となり、校地や建物、資金を地元で準備しなければならなかった。結局地元負担への反発もあって、七年には学制は廃止となり、新たに教育令が制定された。この地元負担となった小学校設立に関して、確固たる建物や予算のないままに強行されたので、寺院や仏像・仏具を無用の長物と見なして、学校設立に充当する動きが生じ、それが廃仏毀釈とも結びついた。
(森本和男著『文化財の社会史』彩流社 2010年刊 p.44)
「国立公文書館デジタルアーカイブ」で土志田周作の建白書を読むことが出来るが、全国二十九万六千余ヶ所の寺院の数が随分多いのに驚く。この数字は「先般官許の大東宝鑑の仏寺の数を目的とす」と注意書きがなされているが、どの程度信頼できる数字であるかは不明である。この数字が正しいとすると、最近の文部科学省の宗教統計調査(平成三十年十二月三十一日現在)では寺の数は七万六千七百三十七とあり、明治初期と比べて寺の数が四分の一程度に減っていることになる。
文春新書『仏教抹殺』には「江戸時代、寺院の数は人口三千万人に対し、九万ヶ寺もあった。それが廃仏毀釈によって、わずか数年間で四万五千ヶ寺にまで半減した。それが現在七万七千ヶ寺(人口一億三千万人)にまで戻している」(p.243)とある。この数字の根拠についても良く分からないが、いずれにせよ江戸時代に寺が多すぎたことは言えるだろう。
学制は主として欧米の学校制度を模範として定められ、教育の根本方針は西洋流の立身出世主義で、明治六年にはアメリカの小学生の教科書を直訳しただけのテキストが、国語の教科書として用いられたのは滑稽である。当時の教科書の話は旧ブログで書いたので、興味のある方は覗いていただくとありがたい。
当時の政府は、欧米の文明に一日も早く追いつきたいの一念であったのだろうが、学校を設立するために寺が狙われたのである。廃寺となった寺が利用されることが多かったとは思うのだが、普通の寺も狙われたようだ。
『文化財の社会史』にはこう解説されている。
1873~4年(明治六~七)に出版された『開化乃入口』は、文明開化初期の頃を彷彿とさせる戯作であるが、そのなかで寺院が突如強制的に小学校に変更させられた場面が描かれている。「初めて小学校取立の御布令があると、直様一応の挨拶もなく、天朝の厳命じやサア今日中に寺を明渡さいと村役人や世話人が寄集り、本堂の荘厳から本尊様も位牌もさっぱりと庫裏(くり:寺院の僧侶の居住する場所)へ押込み、襖をはづし畳をめくり、跡に残りし古仏具や絶たる家の多くの位牌、其外茶湯茶碗、茶台、古過古帳、釈迦誕生の金仏まで広庭へ持出し、さっぱりと焼儘(やきつく)し」てしまった。この騒擾の首謀者は神職であり、彼の指図に皆のものが従ったそうである。小学校設立を口実に神官が徒党を組んで寺院に押し入り、仏像・仏具をはじめ、さまざまな物に狼藉を働いた後、寺の建物を学校に代用した様子がうかがえる。
同じような事件が各地で起きている。1873年(明治六)に、福島県白河駅付近の学校建設に際して、駅内の寺院にあった梵鐘や地蔵菩薩などを売却し、校費の資金にあてるようにと、福島県須賀川支庁から通知された。各寺院、檀家もなかなか反論できないまま、妙徳寺の真宗派住職、片岡遊薗のみが強く反対した。
彼は、仏器什物をすべて記録して備え置くように定めた前年の教部省布達を根拠に、真宗局へ訴えるとともに、福島県教職合議所へ問い糺し、さらに梵鐘を売却させないように東本願寺真宗管長の大谷光勝にも願い出た。
(同上書 p.44~45)
古い伝統文化を軽んじる風潮は仏像仏具だけでなく、刀剣や甲冑、書画、陶磁器、漆器から風俗まで及んでいたのであるが、その反動も出てきた。明治四年(1871年)五月に太政官が「古器旧物保存方」を制定し、古器旧物を保存尊重せよとの流れが生まれ、明治五年(1872年)八月三日に教部省は『寺院附属ノ仏器什物等ハ簿帳ニ記載備置セシム』という命令を出している。
上記の福島県妙徳寺の件は教部省も動いて、この寺の仏具などの処分は免れることができたのだが、こうした経緯から明治六年(1873年)七月十七日に教部省は、社寺にある物品を勝手に処分することはできない。どうしても処分したい場合は教部省へ詳しい状況を報告せよとの布告を出している。
福島県の一僧侶の抵抗が実を結び、小さな一歩ではあったが、廃仏毀釈に歯止めがかかるきっかけの一つになったことは確かだと思う。
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コメント
こんばんは☆彡☆彡
「明治四年以降全国的に寺の破壊が進んだ理由」を拝読いたしました。
新政府から学校を造れといわれたが財源がないため、身近にあった廃仏毀釈で荒廃したお寺の建物などを利用した。
一見、無秩序な行為のようですが、一刻も早く欧米の文明に追いつこうとしたためだった……。
いつも勉強させていただきありがとうございます。
Ounaさん、コメントいただきありがとうございます。
昨秋に訪れた京都山科の勧修寺宸殿も九年間学校に使われました。明治新政府は西洋に追いつき追い越せで、かなり強引に近代化を進め、一方でわが国は多くの文化財を失いました。明治維新は行き過ぎたところが多々ありましたが、結果として早期に改革を進めた点は評価してよいて思います。徳川幕府では、日清戦争、日露戦争は戦えなかったと思います。