かつて古刹の多かった鹿児島県・宮崎県
安永九年(1780年)に「都名所図会」が刊行されたのち、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版され、薩摩藩(現在の鹿児島県・宮崎県)についても「薩藩名勝志」という本が文化三年(1806年)に出版されている。この書物は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを多数の絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、十九巻の本である。この本は鹿児島県立図書館が「鹿児島県史料集 第42集~第44集」としてPDF化してネット公開されており、誰でも読むことが可能になっている。
また、天保十四年(1843年)に薩摩藩が編纂した、薩摩国・大隅国・日向国の地誌や名所を記した「三国名勝図会」という60巻20冊の和装本もある。
上の画像は「三国名勝図会」に描かれた福昌寺である。この本は「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている。
詳しい神社仏閣等の案内書が二点もあるのなら、今も鹿児島県・宮崎県に観光名所となるような有名な寺社がいくつあってもおかしくないと誰でも思うところだが、現在のところ両県には建築物で国宝指定されているものはなく、国の重要文化財についても、神社はいくつか指定されているが、寺院については皆無である。
現在の両県に文化財が少ない理由は、廃仏毀釈の問題を抜きにしては語れない。先ほど紹介した、福昌寺は島津家の菩提寺で、かなり大規模な寺であったのだが、明治初期に破壊されている。破壊されたのは福昌寺だけではなく、鹿児島藩(現在の鹿児島県・宮崎県)のすべての寺が徹底的に破壊されてしまった。
『鹿児島県史 第三巻』には、この当時の鹿児島藩の寺社の破壊について次のように解説されている。
神仏分離と廃仏毀釈は、明治初年の改革中に於いても特筆大書すべき大事件で、他の諸改革に比して、より深く人々の信仰に触れ、それを根底から覆すものであった。しかしあまりにも大問題であったために、神仏の分離までは全国画一的に実行されたが、廃仏毀釈に至っては、新政府もその実行を躊躇し、多くの地方は分離のみに止まったが、鹿児島藩は廃仏を断行し、数年間、藩内に一の寺院仏閣なく、一人の僧尼を見ざるに立ち至ったのである。
(鹿児島県編『鹿児島県史 第三巻』昭和十六年p.643)
どういう経緯ですべての寺が破壊されたのか
では、なぜすべての寺が破壊されることになったのであろうか。もともと薩摩藩では仏教と習合した神道を批判し、仏教を排除せよとする平田篤胤の復古神道が非常に盛んであった。前掲書には次のように記されている。
…(島津)重豪・斉彬ともに蘭学に通詞、西洋文物の輸入に熱心であったから、その影響を受けることまた多く、ために薩藩に於いては平田門でも佐藤信淵の説が歓迎されたのである。
藩主が復古神道派の説を喜び、藩の教育方針が以上の如くであったから、藩の人心が排仏に傾いたことは勿論で、僧侶もそれを苦とせざる程になっていたのである。而していよいよ排仏実施の導火線となったのは実に水戸藩の寺院改正令、梵鐘の鋳潰であって、斉彬は報時鐘を除くほか、あらゆる梵鐘を徴して武器製造に充てんとしたという。しかるに斉彬の逝去によりて、そのことはならなかったが、これらの事より、廃仏は斉彬の遺志より出づとも考えられていたのである。
(同上書 p.647)
水戸藩の徳川斉昭は天保十三年(1842年)に、鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に二百余寺の取潰しを実行した。そして鐘を鋳つぶして大砲を製造している。その斉昭が嘉永六年(1853年)のペリー来航の後、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わるようになり、強硬な攘夷論を唱えたことで知られている。安政二年(1855年)三月に老中阿部正弘が諸藩主に対し「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」を出しているが、この勅諚に徳川斉昭が関与していたことは間違いないだろう。
しかしながら、この勅諚に十五代近江彦根藩主の井伊直弼や輪王寺宮らが強力に反対し、また同年十月に安政江戸地震が起こったことから実行が宙に浮いてしまうこととなる。薩摩藩第十一代藩主の島津斉彬は、徳川斉昭の考えを支持していたのだが、安政五年(1858年)に逝去してしまう。薩摩藩が廃仏毀釈の方針を固めるのは、次の藩主・島津忠義の時代で、薩摩藩の若手による提案がきっかけとなっている。
『神仏分離資料 第四巻』の「鹿児島藩の寺院処分」という記録に、慶応元年(1865)の春の提案に関わったメンバーの一人である市来四郎の回顧談が出ている。
私ども友達中、壮年輩の所論に、こういう時勢に立ち至って寺院または僧侶という者は不用である。或いは、僧侶もそれぞれ国の為尽くさせなくてはならぬ時勢になった。先年水戸家にても、寺院廃合の処分があった。真に英断である。この時にあたり、当藩でも断じて廃すべきであるということとなりました。この人々で、只今生存の者は黒田清綱、橋口兼三、千田貞暁、それから私なども相談しまして、表面に立って建言者となりました。
家老の桂右衛門という者に対して、時勢切迫の状況より、僧侶の壮年の者が、ただ口弁を以て坐食しては相すまぬことなど説き、その若い者は兵役に使い、老いたる者は教員などに用い、各々その分を尽くさしめ、寺院に与えてある禄高は軍用に充て、仏具は武器に変えることとし、寺院の財産は、藩士の貧窮なる者に分与するがよかろうという主意で、建言しました。桂もかねて同論でもあり、大いに賛成して、直ちに忠義、久光に披露したところが、即日に決断せられ、久光は拙者も積年の考えであった。わが国は皇道であるから、仏法の力を借りるに及ばぬなどと言われたそうです。即日桂久武を始め、みな寺院処分の取調べの命を受けました。誠に愉快なことでありました。
(『神仏分離資料 第四巻』[復刻]名著出版 昭和四十五年刊p.1035~1036)
市来らのメンバーが取り調べた結果、鹿児島城下各町に百十八、薩摩国各郡に三百九十、大隅国に三百十八、日向国に二百四十の合計千六十六の寺があり、僧侶や尼僧は二千九百六十四人いたという。また、寺院の敷地や田畑、山林などは税金が免除されていて、堂宇の修繕や祭事などで藩は毎年大きな金銀や米の支出を行っていた。メンバーの調査によれば、薩摩藩全体の寺院関係支出と租税免除額は、合わせて十万余石にもなると書かれている。ちなみに幕末の薩摩藩は八十七万石と言われていたから、財政に占める寺院関連支出がかなり大きかったことは確実だ。これ等の寺を潰せばそれだけ藩の収支が改善する上に、寺の仏像仏具を溶かすことで武器製造の原料に用いることが出来るとの考えであったのだ。
大量に集められた梵鐘は何に使われたか
『鹿児島県史 第三巻』を読むと、このような排仏計画が着々と進行し、計画が実行に移されたのは新政府が神仏分離令を出してからと書かれているのだが、一部の計画は幕末に実行されたと考えられる。市来四郎の回顧談によると、幕末期に寺の鐘を集めたことが記されている。
安政五年の夏、丁度斉彬死去の少し前に、朝廷より、その前仰せ渡されました梵鐘を以て大小砲鋳換云々の詔に対し、斉彬は大小の寺院にある梵鐘は、報時鐘を除く外、悉く藩庁に引き上げ、取り収めさせました。武器製造局に集めました。未だ鋳潰さずして死去しました。斉彬の死去の後は、奸物がはびこりましたので一時梵鐘をもとの各寺院へ返しました。その巷切に、殿さまは寺の鐘迄取り上げなされたから、その祟りで病気になられて、遂に亡くなられたと言いました。志あるものはかようの言を聞いて、大に激憤しました。斉彬の徳望は、今日に至るまで同様でございます。当時私どもはそういうところから、ぜひとも一掃してやらねばならぬという考えが、胸に溢れておりました。斉彬も詔に対し、幕令に従い、梵鐘を引き上げ取り収めました。必ず寺院の廃止を実行せられましたでしょう。故に鹿児島藩の寺院処分は、斉彬から出たとことと言うてよかろうと思います。
(『神仏分離資料 第四巻』 p.1041~1042)
前述したとおりた毀鐘鋳砲の勅諚は有力な反対者が相次ぎ、安政江戸地震などがあって宙に浮いてしまったのだが、薩摩藩では幕府が細則を決めるのを待たずに、寺の鐘が藩庁に集められていたのである。
市来四郎は斉彬が死去した後に「一時梵鐘をもとの各寺院へ返しました」と述べているのだが、それと矛盾することも述べている。
仏具類すなわち梵鐘などは、兵器に鋳換えたのもあり、天保銭の料に用いたものもあります。天保銭に鋳換えるには、松平越中守が寛永通宝を鋳造の時の訓諭など引用し、衆生済度の主意で、実際の餓鬼を救うこととなるなど言い触らしました。
(同上書 p.1041)
幕末に薩摩藩が天保銭を作ったことは有名な話で、薩摩藩が製造した天保銭はコレクターの間で「薩摩天保」と呼ばれている。もちろん幕府が認可した通貨ではなく密鋳銭である。
阿達義雄氏の「薩摩藩密鋳天保通宝の数量」という研究論文がネットで公開されている。
https://core.ac.uk/download/pdf/160754446.pdf
その論文によると薩摩藩は、一般民の困窮が甚だしいので、琉球、薩摩領内に限り通用させる銅銭「琉球通宝」の鋳造を願い出て、幕府は当初難色を示したが、文久二年(1863年)八月になって、百万両ずつ三年間の条件で認可したという。ちなみに「琉球通宝」は「天保通宝」と同サイズであった。たまたま文久二年八月に生麦事件が発生し、翌年の薩英戦争で英国艦隊が鹿児島湾を攻め、薩摩藩の砲台や兵器廠が破壊された。その頃から薩摩藩は大規模に天保通宝の密鋳に力を注ぐようになったという。その鋳造掛に命じられた人物が市来四郎なのである。
「薩摩天保」の威力
阿達氏の論文に引用されている『市来四郎君自叙伝』には、市来が担当していた三年間で天保通宝二百九十余万両を製造し、「前ノ浜戦争以前の入費、或いは神瀬砲台建築の費用、各所砲台修築の費用、大小砲鋳造の費用、兵火に罹れる者の救助費等ことごとく天保銭を以て使途に充てたり。故に国庫の蓄積は全く動かすことなく、戊辰の役に至りてその軍費を補充することを得たり。(『史談会速記録』第130)」と書かれている。(「薩摩藩密鋳天保通宝の数量」p.4)
薩英戦争で薩摩藩は三隻の船が捕獲撃沈され、砲台のほとんどが破壊され、民家約三百五十戸や士族屋敷百六十戸、四寺院、集成館、鋳銭局が焼かれ、さらに英国に十万ドルの償金を支払ったのだが、被害総額は二百五十万両であったという。だとすると、天保銭密鋳の利益の方が四十万両以上大きかったということになる。
また「薩摩天保」の密鋳の原料には専ら梵鐘仏具が使われたのである。同論文には次のように書かれている。
市来の自叙伝の<三十八歳、慶応元年>の条(「史談会速記録」第132)を見ると、
「当時、予は会計専務鋳銭に従事し、軍費補充に努力す。財政困窮に際し、内に在りて軍費の支出をはかるべき旨を命せられたり。
鋳銭の原料は当時多くは梵鐘仏具を専用せり。」
とあり、これは天保通宝密鋳に特に関係の深い一節として注意されるところである。
(同論文 p.5)
「薩摩天保」は本物の天保銭と比べて鉛の含有量が高くて黒みを帯びて品質も良くないそうだが、通貨コレクターの間では人気があり、今では本物の天保通宝よりも薩摩藩の贋金の方に高い値段がつくことがあるのだそうだ。
ところで、幕末に天保通宝を密鋳した藩は薩摩藩だけではなかったようだ。
Wikipediaによると明治時代に引換回収された天保銭は、本物の製造枚数を一億枚以上も上回っていて、二億枚程度が幕末に密鋳されていたと推定されている。
密鋳に関わっていた藩は薩摩藩のほかに、久留米藩、福岡藩、土佐藩、長州藩、会津藩、仙台藩など十を超える藩の名前が判明しているという。
しかし前掲の阿達義雄氏の論文では、「三か年に鋳造の二百九十万両中、二百六十七万両は天保通宝だったとのことである。…『万延以降は一両百枚替』の方式に従って、天保銭の枚数に直してみると、二億六千七百万枚となるから、薩摩藩の天保銭密鋳高は少なく見積もっても二億五千枚以上はあったと考えられる」(同論文p.8)とあり、Wikipediaとの内容とは数字が異なるが、密鋳に関わった藩の中では、薩摩藩の鋳造枚数が圧倒的であったことは確実だ。薩摩藩は寺から徴発した梵鐘・仏具を溶かしたので、原料費がタダ同然であったからこれだけ大規模な密鋳が可能であったのだ。
このような史実が教科書などの通史で記されることはまずないのだが、勝者が描いたキレイごとの歴史をいくら学んでも、明治維新の真実に近づけるとは思えない。
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前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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コメント
しばやんさん、こんにちは。ブログ、いつも楽しく拝見しております。
>勝者が描いたキレイごとの歴史をいくら学んでも、明治維新の真実に近づけるとは思えない
全く同感です。小栗上野介を調べていくと、小栗が権田村に帰農するとすぐに暴徒2000人が襲っています。蜷川新は、『維新前後の政争と小栗上野・続』の中で、この暴徒を「西郷の放てる一味に相違ない」と書いています。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/60
この薩摩御用盗は、武士道とは正反対で、攘夷も尊王もない庶民に対しての強盗・放火・殺人を繰り返す極悪集団です。彼らは、英国のパークスに操られていたのでは?と考えております。英国公使館と薩摩藩中屋敷は、ともに高輪にありました。英国は、薩長を使って倒幕をし、明治政府という傀儡政権を作ったとも言え、彼らの正体は旧約聖書の民です。鹿児島・宮崎でお寺が破壊されたのは辻褄が合います。維新三傑とか、南洲翁遺訓とか、上野の銅像とか、歴史を改竄した彼らのプロパガンダかもしれません。
小栗の動画を作っているのですが、日米修好通商条約について少々疑問点がありますので、しばやんさんの見解をお聞かせいただければ幸いです。
・第2条「日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。」
ロシア軍艦対馬占領事件や生麦事件など、南北戦争中であるとはいえ、米国に仲裁義務があるはずです。少なくとも、何もしなかった米国は条約違反したのでは?
・第5条「外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。」
これによって、タウンゼント・ハリスは、私腹を肥やしています。また、ハリスは、岩瀬忠震を有能だとほめていますが、これは逆の意味では?
・第6条「日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。」
安政五か国条約は、これが基準で英国とも同じ。ならば、生麦事件のリチャードソンは切り捨て御免で問題ないのでは?
幕末三傑として、この岩瀬を挙げる人もいます。そもそも、日本の安全保障を米国に委ねた岩瀬忠震は、責任を問われるべきではないでしょうか?
シドニー学院さん、コメントありがとうございます。
日本の戦後の歴史学者は正史を重視しすぎていますが、正史に書かれていることが正しいとは限りません。幕末以降の歴史は薩長の立場で描かれているので要注意ですね。
鹿児島・宮崎の廃仏毀釈は、戦国時代にキリシタン大名が寺を破壊したのとよく似ているのが気になっています。パークスだったかどうかは分かりませんが外国人の教唆があった可能性を感じています。
修好通商条約交渉は、イギリスと交渉するよりも最初にアメリカと交渉する方がベターであるとの判断があり締結を急いだ背景があり、アメリカも最初に日本と締結するために、日本にとってありがたい条項を入れています。
二条の原文は次のURLにありますが、仲裁義務ではなく、幕府からの要請があれば仲裁に努力する程度の内容になっています。幕府はアメリカに欧米諸国とトラブルがあっても何もしないしできないのですから、この程度の内容になるのは仕方がないでしょう。岩瀬は安全保障をアメリカに委ねたというわけではありません。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798309/389
また、ご指摘のようにアメリカで南北戦争(1861~1865年)があり、その間のアメリカは外国のことに関与できる状態ではなかったと思います。
五条は、金銀の交換比率が日本と欧米で違っていた問題を認識できていたかどうかの問題ですね。この問題は貿易が開始されてからようやく認識されたことと理解していました。
しかしハリスは日米の交渉の過程でハリスがこれによって私腹を肥やしたという記録は未読なので、御存知でしたらご教示ください。
生麦事件については、英国は日本人を裁くことは出来ませんが、幕府に対して十万ドルの賠償、薩摩に対して犯人の死刑と二万五千ドルの賠償を要求し、それを実現するために武力で威嚇しました。応じなければ戦争を覚悟しなければなりません。条約だけで平和が保たれる時代ではありませんでした。
しばやんさん、返信感謝です。
>ハリスがこれによって私腹を肥やしたという記録
ブログ『原田伊織の晴耕雨読な日々』に以下のようにあります。
『幕末日米通貨戦争(其の三 コバング大流出)』2011年4月15日
http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2011/04/index.html
「私は5,000ドルの年俸でありながら、私の貯蓄として年額6,000ドルをニューヨークに送金することができる」(「大君の通貨」―佐藤雅美)
年俸を上回る額の金をどうして送金することができたのか。言うまでもなく「コバング漁り」によって得た利益があったからである。ハリスは私欲に動かされて同種同量交換をゴリ押しした・・・そのように指弾されてもこの男には一切の言い訳が許されない筈である。
『幕末日米通貨戦争(其の五 敗北、水野筑後守憤死)』2011年5月4日
http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2011/05/index.html
間部が認めてしまった1ドル=3イチブのお陰で、外国人は日本産品を不当に安く買うことができ、これらを中国沿岸や香港あたりで売りさばけば小判で得られる利益を上回る暴利が得られたのである。このことは、侵略商社;ジャーディン・マセソン社の記録に残されている。かくして、日本国内ではけたたましい物価上昇が始まり、幕末日本に記録的なインフレーションが始まったのである。(中略)
恥ずべき行為を極東の島国で繰り広げ、国務省もこれを承知していた。横浜在留のアメリカ人からはハリス解任の請願書まで提出されていた。
原田氏のこのブログは、幕末の恫喝外交に対する憤懣やるかたない怒りに満ちています。小栗上野介について調べていくと、薩長の行ったことがわかり、こちらの方が史実に近いのではないかと感じます。英国の分断統治という手法は、薩長に武士道とは正反対の蛮行を繰り返させ、彼らの蛮行が残虐であればある程、日本人の中に分断を生じます。ウイキペディアによると、パークスの娘二人が嫁いだ先は、後にジャーディンマセソン商会の会長になっています。アーネスト・サトウは、親に厳しく躾けられ、旧約聖書を読んでいました。この二人は、ユダヤ人ということになります。
新制日本が大戦争へと突き進み、日露戦争後にソ連、日中戦争後に中国、というともに共産国家が誕生しています。市丸海軍少将の『ルーズベルトニ与フル書』の冒頭に、「日本がペリー提督の下田入港を機会に、広く世界と国交を結ぶようになってから約百年、この間、日本の国の歩みは困難をきわめ、自ら望んだのではないにも関わらず日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争を経て、不幸にもあなたの国と戦争するに至った。」という意味が分かってきます。
シドニー学院さん、御教示いただきありがとうございます。またいろんな情報をいただき感謝です。
ハリスは交渉途中で気が付いていたことになりますね。横浜在留のアメリカ人からはハリス解任の請願書まで提出されていたというのは初めて知りました。イギリスはプロテスタントだと思っていましたが二人は違うのですね。
イギリスは朝廷と幕府を分断し対立軸を作り、薩長を幕府に対抗させました。見事な分断政策です。
こんにちは♪
ブログ拝読いたしました。
ほとんどの人たちは神仏分離は受け入れたが、廃仏毀釈には実行に躊躇したなかで、薩摩藩は完全に実行して寺を破壊。
同じ攘夷派でも毛利藩とは違っていて、薩摩藩は島津家の菩提寺までも破壊。
この徹底した気風は大陸的で、今でも残っているように感じますが!?
Ounaさん、いつも読んで頂き、コメントまで頂き感謝です。
廃仏毀釈は京都でも奈良でもありましたが、鹿児島・宮崎のほかでは、隠岐・苗木(美濃)・松本・佐渡・土佐・富山あたりで激しく行われました。明治四年以降は文明開化の時代で、古いものが数多く取り壊されることになります。