「西山」とは
三方を山に囲まれた盆地である京都では、市街地北側に連なる山々を北山、東側に連なる山々を東山、西側に連なる山々を西山と呼び、「西山連峰」の一番北側に位置するのが愛宕山系の山々で、高尾山には神護寺や西明寺、高山寺などがあり、その南には嵐山があり、松尾山があり、さらにその南には長岡京市、向日市があって、西山には観光名所が数多く存在する。
ところが「京都西山三山」という場合は、楊谷(ようこく)寺、光明(こうみょう)寺、善峯(よしみね)寺の三寺を指し、それぞれ「西山連峰」の南方の大原野や長岡京市に位置している寺ばかりである。
観光目線から言えばほかに相応しい寺がいくつかあるように思えるのだが、宗教的見地からは「西山」は別のニュアンスで用いられることが多い。法然の死後教義の解釈を巡って浄土宗が分裂し、大原野の善峯寺北尾往生院(現在の三鈷寺)を拠点としていた証空の流派は「西山義」といい、のちに光明寺など周辺の寺院とともに「浄土宗西山派(現:西山浄土宗)」と呼ばれるようになった。そしてこの地域が浄土宗の聖地とされるようになり、「西山」という言葉が京都市街地の西ではなく西南の地域を指すようになっていったという。
「西山三山」と呼ばれる三寺院はそれぞれ紅葉の名所としても知られているので、少し時期が早いかもしれないが十一月十五日に訪れてきた。
楊谷寺
最初に訪れたのは楊谷寺(長岡京市浄土谷2)で、西山(せいざん)浄土宗に属している。山門をくぐると正面に本堂、左手に庫裏及び書院、右手に阿弥陀堂などがある。
寺伝では大同元年(806年)京都清水寺開祖の延鎮僧都が開創したと書かれているが、現在の本堂は慶長十九年(1614年)に建立され、元禄期(1688~1703年)に修復したもので、京都府の登録文化財である。本尊の木造千手観音立像(京都府指定重要有形文化財)は眼病に霊験あらたかとされ、境内の岩窟から湧き出る水は「独鉆水(おこうすい)」と呼ばれていて、希望者はボトルなどに入れて持ち帰ることが出来る。
本堂裏には江戸時代に作庭された浄土苑(京都府指定名勝)がある。ドウダンツツジの紅葉の見ごろは十一月の終わり頃になるだろう。
上の画像は奥の院から眼力稲荷、阿弥陀堂方面に下る坂道を撮ったものだが、この道に沿って多くの楓の木が枝を伸ばしている。美しく紅葉するのはやはり十一月の終わり頃だろうか。
この寺は手水鉢に花を浮かべて楽しむ「花手水」発祥の寺である。Wikipediaによると、「花手水」が始まったのは平成二十九年(2017年)で、二年後のコロナ禍をへて全国に広まっていったという。上の画像は山門近くの「龍手水」だが、下の画像の「庭手水」も美しい。
光明寺
次の目的地は光明寺(長岡京市粟生西条ノ内26-1)。西山(せいざん)浄土宗の総本山である。
寺伝によると、建久九年(1198年)に法然の弟子・蓮生(れんせい)法師(熊谷直実)が開いたとされ、境内は広く、洛西随一の大伽藍を誇っている。上の画像は総門で長岡京市指定有形文化財である。
総門から御影堂(みえどう)に続く表参道の紅葉を期待していたのだが、美しくなるのはまだまだ先のようである。帰り道の薬医門周辺のいわゆるもみじ参道は紅葉で特に有名なスポットなのだが、色づきはまだまだで期待外れだった。
光明寺は何度か兵火にあい、享保十九年(1734年)も大火で堂宇が焼失した。上の画像は宝暦四年(1754年)に再建された御影堂(本堂)で、長岡市指定有形文化財である。また御影堂の前の銅像は法然上人像である。
上の画像は昭和三十六年に作庭された信楽庭(しんぎょうてい)と万延元年(1860年)に再建された勅使門(長岡京市指定有形文化財)。
光明寺は紅葉の時期(今年は11/11~12/3)だけが入山有料(\1000)となり、寺の駐車場は観光バス優先となって、車での拝観はずいぶん遠くまで歩かされて駐車料金も高い(\1000)。寺のホームページによると、「市営のJR長岡京駅西駐車場(4、5階)を使用するパーク&ライドをご利用いただくと、駐車場2階の観光情報センターにて駐車券をご提示頂ければ、400円の割引入山券をお求め頂けます」とあり、一人当たり600円も特になるので、面倒ではあるが手続きをしてバスで光明寺に向かう(往復運賃\460)という手もあるのだが、利用する場合はバスの時刻表をよく確認して予定を立てたほうが良い。
善峯寺
次に訪れたのは善峯寺(京都市西京区大原野小塩町1372)。山門は京都府指定有形文化財だ。
寺伝によると、長元年間(1028~37年)に比叡山の僧・源算が(げんさん)が当地に道場を開いたことに始まるという。長元七年(1037年)に後一条天皇が鎮護国家の勅願所と定め、以来この寺は皇室の保護を受けることとなる。承久の乱の際には後鳥羽上皇の皇子・道覚法親王(どうかくほっしんのう)がこの寺に避難し、以後亀山天皇皇子慈道(じどう)らの法親王が住持を歴任したことから、この寺は「西山宮」と呼ばれるようになったという。室町時代も足利将軍からの保護もあり栄えたのだが、応仁・文明の乱で大半の堂宇が焼失してしまう。
現在の建物の多くは元禄年間に桂昌院(けいしょういん:五代将軍綱吉の生母)の寄進によるもので、本堂・薬師堂・開山堂・護摩堂・鐘楼・鎮守堂などは京都府指定有形文化財になっている。
山門を抜けて階段を上ると元禄五年(1692年)に建立された観音堂(本堂)がある。本尊の十一面千手観音は西国三十三所観音霊場の第20番札所の本尊である。
観音堂の右手の石段を上ると経堂と多宝塔(国重文)があるのだが、残念ながら多宝塔は修復工事中であった。その横に、国の天然記念物に指定されている遊龍の松がある。五葉松で樹齢六百年以上。幹が地を這うように伸びている。かっては全長50mほどあったそうだが、松くい虫の被害に遭い平成六年に15mあまり切断されて、今の全長は37mなのだそうだ。
上の画像は釈迦堂近辺だが、このあたりの紅葉はかなり色づいていた。
善峯寺境内でももっとも標高の高い場所にある薬師堂付近からの京都市街の眺めは素晴らしい。中央の少し高い山が比叡山である。
十輪寺
「西山三山」ではないが、時間があったので善峯寺の近くにある十輪寺(じゅうりんじ:京都市西京区大原野小塩町481)にも立ち寄った。平安時代初期の歌人で六歌仙のひとりである在原業平(ありわらのなりひら)が晩年のこの寺に隠棲したとされることから、業平寺とも呼ばれている。
十輪寺は嘉祥三年(850年)に文徳天皇が染殿皇后(藤原明子)の安産祈願のために延命地蔵尊を安置して開創され、無事に惟仁親王(清和天皇)が誕生したことから勅願所となった。応仁・文明の乱で焼失し荒廃したが、江戸時代の寛文年間に花山院定好が再興し、花山院家の菩提寺となったという。写真左は江戸時代中期に建てられた本堂で京都府の有形文化財に指定されている。本尊の延命地蔵菩薩は毎年八月二十三日に御開帳されるそうだ。
小さい寺ではあるが、春なら樹齢約二百年のしだれ桜が咲く頃、秋には樹齢八百年の大楠樹や楓が色づく頃にもう一度訪れたいものだ。
在原業平はこの寺に隠棲していた頃、塩竃を築いて難波の海水を運んで塩焼く風情を楽しんだという。この塩竃は古事に因んで数十年前に復元されたもので、毎年十一月二十三日に「塩竃清めの祭」が行われるのだそうだ。今年の紅葉は例年よりかなり遅れているのだが、今年のその祭りが行われる頃は、西山の今年の紅葉が見頃を迎えているだろうか。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。
前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。長い間在庫を切らして皆様にご迷惑をおかけしましたが、このたび増刷が完了しました。
全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1,155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント