「元伊勢」との呼称のある神社
現在の伊勢神宮内宮の御祭神である天照大御神は、古くは宮中に祀られていたのだが、その状態を畏怖した天皇の命で、崇神天皇六年から約九十年ほど鎮座地を求めて各地を転々とし、垂仁天皇二十五年に最終的に伊勢に落ち着いたという。そして、伊勢神宮が現在地に遷る以前に一時的にせよ皇大神宮(内宮)あるいは豊受大神宮(外宮)が祀られていたという伝承を持つ神社のことを「元伊勢」と呼ぶのだそうだ。
Wikipediaに「元伊勢」との伝承のある神社のリストが掲載されているが、京都府、奈良県、滋賀県、三重県、和歌山県、愛知県、岐阜県、岡山県、広島県と、随分数多く「元伊勢」と呼ばれている神社があることに驚く。
このリストにある神社のほとんどの名前は普通の神社の名前になっているのだが、京都府福知山市には「皇大神社(こうだいじんじゃ)」「豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)」といかにも「元伊勢」らしい名前になっており、それぞれ「元伊勢内宮」「元伊勢外宮」と呼称されているほか、「天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)」も存在することに興味を覚えて、大江町にある元伊勢三社(皇大神社、豊受大神社、天岩戸神社)を訪ねることにした。
福知山市の元伊勢三社を訪ねて
最初に訪れたのは皇大神社(福知山市大江町内宮217)である。
神社のパンフレットによると、次のように解説されている。
皇大神は、四年ののち、御神蹟(おあと)をおとどめなされて再び倭(やまと)へおかえりになり、諸所を経て、垂仁天皇二十六年(紀元前4年)に、伊勢の五十鈴川の聖地(いまの伊勢神宮)に常永遠(とことわ)にお鎮まりになった。しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮内宮の元の宮として『元伊勢内宮』あるいは『元伊勢皇大神宮』『大神宮さん』などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の熱い信仰が続いている。
皇大神社 パンフレット
表参道には自然石の石段が続き、地元の方により掃き清められている。左右には深い神秘的な森と何本もの杉の巨木が聳え立っている。二百二十段の石段を登るといよいよ御本殿である。
上の画像が拝殿と茅葺の神明造の御本殿。御本殿の千木は内ソギで堅魚木(かつおぎ)は十本ある。御神殿の左に幹だけ写っている木は龍灯の杉といい、樹齢二千年と推定される御神木である。
皇大神社から天岩戸神社へ向かう。天岩戸神社へは駐車場に戻って車で行くよりも皇大神社から歩いていく方が早いと教えていただき、案内の通り山を下りながら天岩戸神社に向かう。上の画像は途中にある日室岳(ひむろだけ)の遥拝所で、一願成就の信仰から「一願さん」と呼ばれているという。日室岳は原生林に覆われ神霊降臨の神山で禁足の聖地なのだそうだ。
日室岳の下を流れる宮川渓谷に、秘境・天の岩戸がある。大きな岩の上に天岩戸神社が祀られているのだが、本殿に直接参拝をするには、チェーンを両手で握りながら高さ4メートル程の岩を登る必要がある。若ければチャレンジしたかもしれないが、あまり無理をせず、近くの遥拝所から参拝させていただいた。
天岩戸神社から宮川沿いの道を歩いて皇大神社前の駐車場にもどり、車で豊受大神社(福知山市大江町天田内60)に向かう。3km程度なので5分程度で到着する。
上の画像は豊受大神社の黒木鳥居だが、案内板によると「黒木鳥居とは、樹皮のついたままの丸太をもって組み合わされた鳥居で、日本最古の鳥居形式」だという。
豊受大神社のリーフレットによると、内宮が四年間の御鎮座ののち再び倭(やまと)に大宮地を求めて出御されたのちもこの地を移動されることなく、内宮が伊勢に鎮座するようになってようやく遷座したのだという。
豊受大神は御鎮座以来御移動がなく此の真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されて来ました。ところが…雄略天皇二十二年に皇祖天照大御神の御神勅が天皇にありました。その御神勅は「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居るといえども、一人にては楽しからず。神饌をも安く聞食すこと能わずと宣して、丹波の此沼の真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」とのお告げでありました。同様のお告げが皇大神宮宮司大佐々命にもありましたので、天皇に奏上されたところ、非常に驚き恐れ給いて、直ちに伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立され、大佐々命をして、豊受大神を御遷座になったのであります。
豊受大神社 リーフレット
この解説の中で「真名井」という地名が出てくるのだが、この地名がどこを指しているかについては異説がある。日本三景の天橋立の付け根に当たる場所に丹後国一之宮の籠神社(このじんじゃ)があり、この神社の奥宮(境外摂社)である真名井神社から伊勢に外宮が移されたとする説があるのだ、どちらが正しいかについてはよくわからない。
上の画像の正面が拝殿と本殿で、本殿は神明造茅葺の建物で外削ぎの千木を持ち、棟に堅魚木(かつおぎ)を置いている。
境内には巨木が林立していて、上の画像の中央は樹齢千五百年の龍灯の杉。古いものが大切に残されているのを見るとなんだかパワーをもらったような気分になる。
天寧寺の紅葉
次の目的地は天寧寺(てんねいじ:福知山市字大呂1474)。
現地の案内板には寺の由来についてこう書かれている。
天寧寺は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、貞治四年(1365)地元の地頭大中臣宗泰(おおなかとみむねやす)が、自らの氏寺に愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)を開山として招いたのに始まる。足利義持ら将軍家の帰依を得て、寺は大いに隆盛を誇った。
この寺院に伝わる絹本着色十六羅漢像・即休契了像は国の重要文化財として、また薬師堂・開山堂…は府の文化財として指定されている。
当時、京都五山の寺々は大きく華美に流れたのだが、この寺は厳格な禅宗文化を伝えていると評価されている。
上の画像は京都府指定文化財の薬師堂。内部の拝観はできなかったが、天井には原在中の筆による雲竜が描かれているという。
この寺も紅葉が楽しめる寺なのだが、まだまだ色づき始めといったところだった。見頃は11月下旬に入ってからではないだろうか。
長安寺の紅葉
最後の目的地である長安寺(福知山市字奥野部577)に向かう。この寺は、西国薬師霊場第26番札所であり、「丹波のもみじ寺」として有名である。上の画像は駐車場から山門に向かう道の紅葉である。
寺のリーフレットにはこの寺の由緒についてこう書かれている。
長安寺は第三十一代用明天皇の第三皇子、麻呂子親王(聖徳太子の御実弟)が勅命によって丹波の国大江山に棲む鬼征伐の途次、戦勝祈願のため薬師如来像を刻みこの地に奉祀されたと伝えられています。
その後、再三の火災にかかり消失しましたが、福知山城主、杉原家次公(豊太閤の正妻寧子の方の伯父)によって再建され、飛鳥後代の名作麻呂子親王御自作薬師如来像を安置し、現在臨済宗南禅寺派別格地となっています。
山門に向かう石段の登り口だが、11月下旬にもなればもっと色づいていることだろう。
これは樹齢六百年とされる長安寺のイチョウ。古くから薬師如来御霊木とされ、「授乳のイチョウ」として女性の信仰の対象となっているとのことである。
山門を抜けると、重森完途の作庭による枯山水庭園「薬師三尊四十九燈の庭」がある。
方丈と薬師堂の内部拝観もできる。上の画像は薬師堂の天井彫刻で、中井権次一統の第五代正貞の銘があるのだそうだ。
長安寺の境内は広く、高低差もあるのでいろんな角度から景観を楽しむことが出来る。上の画像は開山堂付近から撮ったものだが、モミジの木が多いので3割程度の紅葉でも十分楽しむことが出来た。上の画像の中央は薬師如来御霊木のイチョウの木で色づくまでもう少しかかりそうだが、できることなら長安寺のモミジとイチョウの両方が色づく頃にまた訪れたいものである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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