1.りっきゅうさんパーキングから赤山禅院へ
修学院離宮を予約して車で行くときことを決めたものの、離宮に一番近いりっきゅうさんパーキングに駐車できない場合には、他の有料駐車場が遠すぎることが気になっていた。
離宮の近くにいくつかの寺や神社があるのでそこの駐車場を利用したいところだが、きちんと拝観して御朱印もお願いしておけばペナルティを要求されることはないだろうとの考えで、かなり早めに出発した。
たまたま、到着時にりっきゅうさんパーキングが空いていたのでそこに駐車したが、そこが満車の場合は赤山禅院(せきざんぜんいん)の駐車場に入れるという段取りであった。どちらに駐車した場合も、先に赤山禅院を拝観するという計画であったのだが、修学院離宮から赤山禅院までは歩いて10分もかからない程度の距離である。ただし、ここの駐車場もそれほどの広さはなく、5~6台が駐車できる程度である。同院のホームページには駐車場については「ありません。公共交通機関をご利用ください」と書いているので、車での参拝を歓迎しているわけではなさそうだ。
2.赤山禅院とその由来
赤山禅院の参道の入口になぜか鳥居があり、扁額には「赤山大明神」と書かれている。この額は、後水尾天皇の行幸の際に賜った勅額の複製だという。鳥居を見ると神社を連想するのが普通なのだが、赤山禅院は天台宗の寺院で比叡山延暦寺の塔頭寺院の一つである。
上の画像は山門だが毎朝午前六時に開けられて、参拝は午前九時から可能となる。
境内には松や楓の木が多く、秋には紅葉が美しいことで良く知られている。
この寺は仁和四年(888年)に第三世天台座主 円仁の遺命によって創建されたと伝えられ、京都御所から見て表鬼門の方角(東北)に当たる場所にあることから、方除けの神として古来から信仰を集めてきた。上の画像は拝殿だが、この屋根の上に、よく見ると鬼門除けの猿の像が置かれている。猿は邪気を払う力があるといわれている。
上の画像は本殿だが、ここには本尊である赤山大明神が、皇居の表鬼門の鎮守として祀られている。「拝殿」とか「本殿」とかは、神社の建物しか用いない言葉なのだが、そのように案内されているのだ。
境内の中にも鳥居があり階段を上っていくと金神宮や相生宮があり、今も神仏習合の姿を残しているのが面白い。
赤山禅院のホームページに比叡山延暦寺の千日回峰行の解説が出ている。この修行は七年間かけて行われるものだが、その六年目には、比叡山から雲母(きらら)坂を登降して赤山大明神に花を供する「赤山苦行」と称する荒行を百日間行うのだという。行者の足で十四~十五時間かけて約六十キロを一日で歩くのだそうだが、最後に雲母坂の急坂を登って比叡山山頂の延暦寺に戻るという難コースを百回もこなすというのは大変なことである。そして七年目になると、前半の百日間は「京都大回り」で、延暦寺から赤山禅院、さらに京都市内を巡礼し、全行程八十四キロを一日で歩いて延暦寺に戻るというから驚きの距離である。この赤山禅院では、千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職をつとめておられるのだそうだ。
また、境内に福禄寿殿があり、都七福神の一つとされており、御朱印はここで受付けている。
江戸時代後期に京都の俳諧師秋里籬島が著し、絵師竹原春朝斎が図絵を描いた『都名所図会』に赤山禅院の絵が出ているが、昔は山門がなかったようだ。
『都名所図会』の続編である『拾遺都名所図会』 に、雲母寺(うんもじ)が描かれている。この寺の左隣に描かれているのが、修学院離宮の中御殿の一部となった林丘寺(りんきゅうじ)である。
雲母寺は明治時代に廃絶されて、本堂と本尊の不動明王がこの赤山禅院に移されたという。上の画像が赤山禅院の不動堂であるが、この建物が雲母寺から移築されたものであるようだ。
修学院離宮を行く前に、時間があればこの寺を拝観することはなかなか楽しく、歴史的景観が残されているのでお勧めしたい。
3.曼殊院とその由来
修学院離宮の見学の後に昼食を済ませて曼殊院に向かった。ここには参拝者用の広い駐車場があるが、駐車場には「有料駐車場」と書かれていて「当院を拝観している時間のみ無料」とあり「駐車料金 一日 9,500円」と書いてある。修学院離宮の参観者が利用することを排除する意図が丸見えだが、この寺を拝観するのなら無料にしても良いのではないかとも思う。この場所から修学院離宮までは、徒歩で15分近くかかる距離である。
現地の駒札に、曼殊院の由来が次のように記されている。
「最澄が比叡山上に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院で、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つに数えられる。門跡とは皇族や摂関家の指定が代々門主となる寺院の事で、当寺では明応四年(1495)に伏見宮貞常親王の子、慈運大僧正が入手したことに始まる。
初代門主の是算(ぜさん)国師が菅原家の出身であったことから、菅原道真を祭神とする北野天満宮との関係が深く、平安時代以降、明治維新に至るまで、曼殊院門主は北野天満宮の別当職を歴任した。
数度の移転を経た後、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた良尚(りょうしょう)法親王により、江戸初期の明暦二年(1656)に現在地に移された。」
曼殊院は数多くの文化財を保有しており、国宝の絹本著色不動明王像(黄不動)、古今和歌集(曼殊院本)1巻のほか、国指定重要文化財は建物では大書院、小書院、庫裏のほか玄関障壁画(紙本金地著色竹虎図)11面、木造慈恵大師坐像、源氏物語 蓬生、薄雲、関屋 3冊などがあり、国宝の二点と絵画、書籍、古文書の一部は京都国立博物館に寄託されている。。
曼殊院書院庭園は江戸時代の枯山水庭園として著名で、国の名勝に指定されている。
庭園は、書院の前面に白砂を敷いて水面をあらわし、島や背景の築山を設け、築山間には石橋を架けて深山幽谷の世界を表現している。
また勅使門の西北には曼殊院天満宮が祀られている。
『拾遺都名所図会』 に曼殊院と曼殊院天満宮が描かれているが、今の位置関係と明らかに異なる。『拾遺都名所図会』が出版されたのは天明七年(1787年)であるが、それ以前は曼殊院の東の山中に天満宮があったようである。『拾遺都名所図会』にはこの場所に月林寺(げつりんじ)という寺があったことが記されている。
4.鷺森神社
曼殊院の勅使門から西に歩いて進むと、途中で鷺森(さぎのもり)神社の森が右手に見えるようになる。うるしの常三郎という漆器店の近くに、神社の森に通じる小径の入口がある。
そこから森の中を進むと御幸橋という石橋があり、そこを渡り石段を進むと鷺森神社の拝殿がある。
この神社にも駐車場が存在するのだが、このあたりの道路は狭くて分かりにくく、また参拝者用駐車場には数台程度のスペースがあるだけだ。ここの駐車場から修学院離宮までの距離は10分程度だと思われるが、修学院離宮に車で来た場合にりっきゅうパーキングが満車であれば、①赤山禅院②鷺森神社の駐車場に入れるか、それがだめならかなり離れた有料駐車場に入れるか、リスクを承知で曼殊院の駐車場に入れるという選択になるが、観光シーズンの休日の場合は、いずれも満車となるリスクがあり、公共交通機関を利用するほうが賢明だと思う。
鷺森神社の由緒について、神社の案内板にこう記されていた。
「当神社創建は貞観年間*にして、今より壱千百年余り前に、比叡山麓の赤山明神の辺に祀られてあったが、応仁の乱の兵火に罹り社殿焼失し、今の修学院離宮の山中に移し祀られてあった。
後水尾上皇この地に離宮を造営されるにあたり、此の鷺森に社地を賜わり、元禄二年(西暦1689年)遷座相成り、修学院・山端地区の氏神神社として現在に至っている。
後水尾上皇も霊元法皇も修学院行幸の際には当神社へも参拝され、霊元法皇享保十四年三月三日行幸の御時
をりいると見し鷺森すぎかてに
わけきて今日はむかふ神垣
との御製あり。」
*貞観年間(859~877年)
霊元法皇は修学院離宮造営に関わった後水尾上皇の第十九皇子で、第百十二代の天皇陛下(在位1663~1687年)となられたが、その後院政を開始され、元禄七年(1694年)に政治の実権を東山天皇に戻されたのだが、宝永六年(1709年)東山上皇が急逝すると再び院政を再開し、父の後水尾天皇と並んで長期に亘って院政を行ったことで知られている。
また正徳三年(1713年)には出家されて法皇となられたが、法皇となられた事例はそれ以降は存在せず、霊元法皇は歴史上最後の法皇である。境内に御製の歌碑が建てられている。
上の画像は鷺森神社の拝殿だが、安永四年(1775年)に改築されたものだという。
このような神社の歴史を知ると、この神社の鎮守の森が地元の人々によって大切にされてきた経緯がよく理解できる。緑深いこの地は、桜や楓が多く植わっており秋は紅葉の隠れた名所となっているという。修学院離宮も赤山禅院も曼殊院も鷺森神社も、ネットで画像検索すると素晴らしい紅葉の景色が数多く紹介されている。今度近くを訪れる機会があれば、紅葉を楽しめる季節にしたいものである。
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