紅葉の盛りに京都大原の古刹を尋ねて

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江戸時代には存在しなかった「大原三千院」とその歴史

 紅葉の時期に京都大原三千院を拝観したいと思って旅程を立てているときに、江戸時代後期の安永九年(1780年)に秋里籬島の著した『都名所図会』に、「三千院」の記述がないのに違和感を覚えた。天明七年(1787年)の『拾遺都名所図会』にも名前が出ていないので、Wikipediaで三千院の歴史を調べると、この寺は八世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、その後応徳三年(1086)東坂本(現在の滋賀県大津市)の梶井に本拠を移したのだが、貞永元年(1232年)の火災ののち洛中や東山の各地を転々としたという。その後、元禄十一年(1698年)に五代将軍・徳川綱吉が、京都御所の近くの寺町広小路に寺地(現在の京都府立大学と附属病院の敷地)を与えて、その場所に170年余り存在していたのだが、明治四年(1871年)に現在の大原の地に移ることとなり、この時に寺の名前を「三千院」に改称したのだそうだ。

 古い歴史を持つ三千院がこんなに移転を繰り返していたとは知らなかったが、Wikipediaには、三千院が大原に移るまでの経緯について次のように解説されている。

 元永元年(1118年)、堀河天皇第三皇子(第四皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。最雲法親王は大治5年(1130年)、第14世梶井門跡となった。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王(尊雲法親王)も入寺したことがある。最雲法親王は保元元年(1156年)、天台座主(天台宗の最高の地位)に任命されたが、同じ年、比叡山の西麓の大原に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。…

 明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗(仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、公家町(京都御所周辺の寺町広小路)の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称した

Wikipedia 三千院より
三千院 - Wikipedia

 このようにWikipediaでは、この寺は明治維新後に「大原政所」に寺の本拠を移したとあるのだが、『都名所図会』にはこの場所は「梶井宮円融院梨本房」として次のような記述がある。

 呂の川の北にあり、天台の座主にして諸門を推てこれを祖とす。(当院むかしは東坂本にあり、梶井の芝とて今に旧跡のこる。それより船岡山の麓にうつし、近代此地へうつすとなり)極楽院(当院にあり、恵心僧都の妹安養尼の庵室の旧跡なり)…

『都名所図会』 梶井宮円融院梨本房
梶井宮園融院梨本坊解説画像

 また『都名所図会』には大坂の絵師竹原春朝斎が描いた大原近辺の絵がある。絵を拡大すると分かるのだが、この絵の一番右下に描かれている石垣の建物が「梶井宮旧跡」であり、境内の中に極楽院の屋根が描かれている。

 『都名所図会』では、現在の三千院よりも、他の寺の記述の方がはるかに詳しく書かれていることに興味を覚え、三千院に行くついでに、周囲の寺院もいくつか拝観する計画を立てて、先日訪問して来た。

大原三千院と往生極楽院

 最初に訪れたのは三千院(京都市左京区大原来迎院町540)である。有名観光地なだけに、平日とはいえ観光客が随分多い。

 客殿の庭園、聚碧園は池泉観賞式庭園で、江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ)による修築と伝えられている。

 有清園は宸殿より往生極楽院を眺める池泉回遊式庭園で、青苔に杉や檜などの立木が並び、この季節は柔らかな苔の上に散る紅葉の景色が美しかった。奥に建っている建物が往生極楽院(国重文)である。

 往生極楽院は12世紀にこの地に建てられた阿弥陀堂で、平安時代末期に制作された国宝の阿弥陀三尊像が安置されている。Wikipediaによると、かつては三千院とは別の寺院であり、明治四年に三千院がこの地に移ってから境内の中に取り込まれたものと書かれているのだが、宝永二年(1705年)に著された『山城名勝志』によると、「昔一院を為す、今小堂一宇、梶井宮庭中に在り」とあるので、江戸時代の初めにはすでに往生極楽院は梶井宮の庭の中に取り込まれていたと解釈すべきである。(次のリンクの793枚目に往生極楽院の記事が出ている。)

山城名勝志

 往生極楽院南には朱塗りの朱雀門があり、現在は常時閉じられているのだが、かつてはこの門が往生極楽院の門であったのだそうだ。

 往生極楽院南側、弁天池脇のふわふわした苔の中に、いくつものお地蔵さまが気持ちよさそうにたたずんでいる。石彫刻家の杉村孝が制作した作品とのことだが、わらべ地蔵と名付けられて親しまれている。

 境内を散策すると北側には律川が流れていて、橋を渡ったところに鎌倉時代の大きな阿弥陀如来の石仏が安置されている。

 境内の散策ルートの最後に円融蔵(えんにゅうぞう)があり、往生極楽院の実物大の「舟底天井」に、藤原時代の人々が現世に往生極楽を願って描かれた天井画が復元されているほか、寺宝などが展示されている。

来迎院、勝林院と大原声明(しょうみょう)

 大原を訪れる観光客の大半は三千院と寂光院と宝泉院は拝観しても、他の寺を訪ねる人はかなり少ない。しかし三千院の東にある来迎院(京都市左京区大原来迎院町537)は仏像好きの方には必見だと思う。三千院の住所が大原来迎院町540であることからわかるように、来迎院はかつて大原地区では相当重要な寺であったはずなのである。

 三千院の南に呂川(ろがわ)が流れ、三千院の石垣に沿って坂道を道なりに進んでいくと来迎院があるのだが、この道を進む観光客はわずかしかいない。上の画像は途中の道を撮ったものだが、赤い門は三千院の朱雀門で、白壁の内側は三千院の有清園になる。

 来迎院は魚山(ぎょざん)と号する天台宗延暦寺派の別院で、この寺の歴史を寺のリーフレットで簡単に振り返っておくと、九世紀に慈覚大師円仁が天台宗の声明(しょうみょう)の修練道場として開山したのがはじまりだという。声明というのは、経文に音曲をつけて歌詠するもので、音楽的な色彩が強く、のちの邦楽(今様、浄瑠璃、謡曲、民謡など)に影響を与えたと言われている

 寺は一時衰微するも天仁二年(1109年)に良忍上人が再興し、良忍が集大成した魚山流(ぎょざんりゅう)声明がのちに天台声明の主流となったという。声明を修練する僧侶や貴族が大原に集まるようになり、盛時には坊が四十九もあったという。そのため延暦寺は、今の三千院のある場所に梶井政所を設置して(1156年)、これらの大原の寺を統括させたという。

 上の画像が来迎院の山門だが、三千院境内の東にある観音堂からは直線距離で100m程度なのだが、三千院からは正面の御殿門から行くしかなく、400m程度歩くことになる。

 上の画像が来迎院の本堂で内陣中央に木造薬師如来坐像・木造阿弥陀如来坐像・木造釈迦如来坐像があり、いずれも藤原時代の仏像で国の重要文化財である。脇侍に不動明王、多聞天立像があり、これも藤原時代の仏像だ。このような貴重な仏像は、多くの場合宝物館のガラスケースの中に入れられていることが多いのだが、この寺の本堂に入堂すると仏像を遮るものは何もなく、昔の人々と同じ祈りの空間の中でこれらの貴重な仏像を間近に鑑賞できるのはありがたい。

 次に三千院の北にある勝林院(京都市左京区大原勝林院町187)に向かう。

 勝林院も来迎院と同様に天台宗延暦寺の別院で魚山(ぎょざん)と号し、九世紀に慈覚大師円仁が天台声明の道場として創建したとされるがその後衰微し、長和二年(1013年)に寂源によって声明による念仏修行の道場として復興され、勝林院が建立された。そののち來迎院も再興されると、大原は天台声明の研究研鑽の拠点となり、この両院を「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」と総称するようになったという。

 文治2年(1186年)には法然と顕真などによる宗論、いわゆる「大原問答」がこの寺で行われ、念仏を唱えれば極楽浄土に往生できると法然が経典を引用しながら説くと、御本尊が光を放ち、法然の主張が正しいことが証明されたと伝わっている。

 かつて大原の寺を栄えさせたのは来迎院と勝林院なのだが、今はいずれも観光客は少なく、三千院や宝泉院の人気には大きく及ばない。大原の声明は浄土宗などの多宗派にも影響を与え、語り物や琵琶法師の源流となったものであるので、仏僧の生の声明を聴きながらと古い仏像を鑑賞できる寺院として、もっと観光客を呼ぶ方法はないのだろうかと思う。

庭園が有名な宝泉院

 大原で三千院に次いで観光客の人気が高いのは宝泉院(京都市左京区大原勝林院町220)である。この寺は勝林院の子院であるのだが、観光客のほとんどは勝林院を素通りして宝泉院に向かう。

 Wikipediaによると、この寺は声明の大家として名を残した宗快訪印によって嘉禎年間(1235年頃)に創建され、当初は了性坊と呼ばれていたが15世紀に断絶してしまい、元亀年間初頭に幸淵が了性房旧蹟に坊を再興し宝泉坊と名付け、正徳六年に宝泉院と改められたという。

 観光客のお目当ては、宝泉院の庭園にある。

 上の画像は盤桓園(ばんかんえん)と名付けられた庭で、この名前の意味は立ち去りがたいという意味だそうだ。庭の中央に圧倒的な存在感のある樹は京都市の天然記念物に指定されている樹齢七百年の五葉の松で、拝観客はお抹茶と和菓子をいただきながらこの庭を鑑賞することが出来る。

 住職の話によると、この庭園は「額縁庭園」といって、客殿の柱と柱の空間を額に見立てて鑑賞するのが一番良いのだそうだが、観光客が多いので柱と庭の景色だけを撮ることは諦めるしかない。ネットで写真を検索すると、客間の奥から撮影した美しい写真が沢山ある。夜に訪れてライトアップされた盤桓園もぜひ鑑賞してみたいものである。

 宝泉院には江戸中期に作庭された鶴亀庭園もある。また、関ヶ原の戦いの際に豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃した徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名の霊を慰めるために、自刃した場所の床板を天井にして祀った「血天井」がある。小規模ながら、結構楽しめる寺である。


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 ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

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