京都府久美浜町の歴史と文化にふれる旅

京都

久美浜町湊宮の五軒家と天明の大飢饉

 京都府京丹後市にある久美浜湾は、東から佐濃谷川、川上谷川、久美谷川の三河川が注いでおり、北は小天橋(しょうてんきょう)と呼ばれる砂洲によって大部分が日本海と隔てられ、淡水と海水が混ざり合う、波穏やかな潟湖である。

宝泉寺からみた日本海側の砂浜(小天橋海水浴場、葛の浜海水浴場方面) 11/19撮影(以下同じ)

 久美浜湾は山陰海岸国立公園の東の端に位置し、日本海側には約6kmにわたり白砂の砂浜が形成され、反対側の潟湖ではカキ養殖が行われている。

久美浜湾の風景 奥に牡蠣棚が見える

 いまでこそどこにでもあるような漁村の風景なのだが、砂洲が防波堤となって波が穏やかな久美浜湾は今も昔も船舶の繋留に適した場所である。小天橋のある湊宮はかつて北前船の寄港地でもあり、江戸時代前期には蛭子神社のあたりに湊五軒家(小西家本家本座屋、小西家新シ家、小西家下屋、木下家、五宝家)があり、天明の大飢饉が起きた頃、この五軒家で粥を配っていると聞いて丹後一円の飢えた人々が五軒家を目指したという話に興味を持っていた。お世話になった旅館小天橋の女将が五軒家の話を知っている客は珍しいということで、地元の歴史に詳しい宝泉寺(京丹後市久美浜町湊宮1817)の住職と連絡を取っていただいたことはありがたかった。住職からは翌朝いろいろ話を伺うことが出来、貴重な資料のコピーをいただくことが出来たばかりでなく、車で史跡まで案内していただいたのだが、歩いて探すにはわかりにくい場所にあったので、感謝感激である。

群霊曝骨墓

 上の画像は、案内していただいた「群霊曝骨墓(ぐんれいばっこつぼ)」だが、日付は文化六年(1809年)になっており、飢饉から20年以上後に建てられたもののようだ。今も花が枯れないように、地元の方が墓を護っておられることは素晴らしいことだと思う。住職からいただいた『久美浜町史』のコピーには 「群霊曝骨墓」 についてこう解説されている。文中の「熊野郡」は現在の久美浜町を指す。

「熊野郡伝説史」では、次のように紹介している。

餓死者の続出を不憫に思った湊宮の五軒の大廻船業者(五軒屋)が、倉から米を出して粥をふるまった。
 そのうわさをきいて人々は、一杯の粥を得ようと、杖をつき、最後の力をふりしぼって湊宮に向かった。小天橋の長い松の道は、郡内群外から集まる人で綱になった。しかし、その途中で力尽きて倒れる者数知れぬ有様だった。
 この餓死者は、白骨となって風雨にさらされていたが、後になって五軒家の提議により、医師福田・山根・高田三氏達が中心になって白骨を集め、一所に葬った
。」 

 またそのことを裏付ける話として、「後に新道を造ったとき、何十人ともしれぬ白骨が塚から出てきた」と述べている。

 文化六年は、天明の飢饉より二〇年ばかりたっている。この碑に伝えるものが天明の飢饉であったかどうか確証はないが、しかし当時の惨状を知ることはできる。

『久美浜町史』p.158~159
大石塔

 次に住職に案内していただいたのは「大石塔(おおぜきとう)」で、享和元年(1801年)建立されたものである。こんな場所に建てられた石碑なら、周囲は雑草で覆われていてもおかしくないのだが、しっかりと刈り取られているのに感心した。現地の案内板には、

「これは建立の年、天変地異相続き、先はどうなるのだろうと人心が怯えていた。
 その時五軒家の当主、小西伯煕(はっき)氏が仏に安穏を祈願して建立されたものと伝えられている
 小西伯煕氏 は、当時宇内に聞こえた有徳の学者だったようである。」

『久美浜町史』によると、天明四年(1784年)には熊野郡を舞台に農民一揆が起こったという。時系列で言うと、飢饉があり農民一揆が起きて、その十七年後に「大石塔」が建立され、さらに八年後に 「群霊曝骨墓」 が建てられたことになる。

五軒屋の衰退

 久美浜は寛文六年(1666年)から江戸幕府の直轄領(天領)となり、当初の代官所は京都府加佐郡にあったようだ。享保十六年(1731年)より五軒屋の拠点であった湊宮に陣屋がおかれたという。しかしながら、五軒屋で潤っていた湊宮も、競合する新しい港が造られて、大きい船が新港を使うようになったために次第に衰退していったという。

 ネットで公開されている『京丹後市の歴史』は同市が編纂した中学校の副読本だが、それによると、

 五軒家が最も栄えていたのは天正期から江戸時代前期だと思われます。資料として確認できる延享三年(1746)の湊宮村の明細帳には、850石積から420石積の船が19艘あったことが記されています。
 しかし、幕末期になると船は小さくなり、弘化二年(1845年)の久美浜代官所の記録では、湊宮村の船は16艘で、最も大きなものが150石積と記録されています。

( 『京丹後市の歴史』 p.40)

 船の数が減っただけでなく、船の規模が百年で急激に小型化している。この理由は湊宮は海底が浅く、湾の入り口が狭いために大型船の航行にはあまり向かなかったことによるもので、小口輸送で生き残りを図るも年々五軒家は衰退していき、後に代官所も久美浜湾の南の久美浜小学校付近に移転されたようだ。
 大正二年(1913年)に久美浜湾口の改修工事が行われて、大型船の運航が可能となったのだが、昭和四年(1929年)に峰豊線(のちの宮津線)が開通し、海上交通は次第に廃れていったといき、今では湊宮の五軒家について残されているのは上記の石碑とわずかに残された記録ぐらいだという。

 その後の五軒家は湊宮を離れていき、住職によると大阪・伊丹の清酒「白雪」を製造している小西酒造は、小西家の分家だろうと言っておられた。小西家は湊宮で酒造業も営んでいたのでその可能性はあるが、小西酒造の創業は1550年とされており、五軒屋が最も栄えていたという「天正期から江戸時代前期」よりも前から、伊丹に分家が進出していたのであろうか。

宝泉寺と久美浜松倉城主・松井康之のこと

宝泉寺山門

 住職に親切にしていただいた宝泉寺(京丹後市久美浜町湊宮1817 )もかなり由緒ある寺である。寺伝によると、この寺は室町時代の末期に創建され、文化財として、松井康之の肖像画(絹本著色松井康之像:京都府有形文化財)、松井康之の嫡男・松井与八郎の肖像画(絹本着色松井与八郎像:京都府有形文化財)と墓(京丹後市史跡)を有している。 

 松井康之は久美浜松倉城主であった人物だが、簡単にこの人物が久美浜の城を任された経緯をまとめておこう。
 織田信長勢が丹後国を侵攻し、1580年代以降は細川藤孝、忠興親子が丹後国を治めるようになり、松井康之は細川家の家老であった。秀吉が天正九年(1581年)の鳥取城攻めを行った際には、松井は丹後水軍を率いて参戦し、秀吉方の城に兵糧を運び入れる一方、鳥取城に兵糧を運び込もうとした毛利水軍を撃退するなど大活躍をした。その功を認められて松井康之は久美浜松倉城を任されたという流れである。

松井与八郎の墓

 宝泉寺は松井康之の帰依を受けて復興したのだが、秀吉は朝鮮出兵を挙行するために細川家に3500人の軍役を課してきた。そのため松井康之と嫡男の与八郎も文禄の役に参加することになったのだが、不幸なことに与八郎が戦場で病にかかり、帰国後まもなく没してしまった。松井康之は大いに悲しみ、十八歳の若さで亡くなった嫡男の供養のために画像を作成させ、立派な墓も建立した。上の画像が宝泉寺に残されている松井与八郎の墓(京丹後市指定文化財)である。与八郎の遺言により、久美浜の海が見える場所に葬られた。

 宝泉寺の境内に「日間浦十二景について」と記された案内板があり、先ほど「大石塔」に登場した 小西伯煕の名前が出てくる。 小西伯煕 はWikipediaにも出ているので、江戸時代の文人として著名な人物のようだ。

聚景楼十二奇絶山水真図

 上の画像は境内に掲示されているものと同じで、 小西伯煕 が著書の『松江近体詩』に描いた 「聚景楼十二奇絶山水真図」 だが、住職がコピーを用意していただいたのを自宅で撮影したものである。
「日間浦 」というのは久美浜湾を意味し、 伯煕 は、「天橋立が天下にその名を知られているのに日間の浦はその陰に隠れて知られていないことを遺憾とし」聚景楼という楼閣を建てて、文人墨客を招いて詩酒風流の会を催したという。この絵は、 聚景楼 からの景色を描いたものだという。

 住職からはいろいろ説明頂いた上に、宿泊していた旅館小天橋まで送っていただき本当に有難かった。住職を紹介していただいた旅館の女将とともに厚く御礼を申し上げる。

蛭子神社

 上の画像は宝泉寺のすぐ近くにある蛭子神社(ひるこじんじゃ:京丹後市久美浜町湊宮1662)。小天橋の守り神で、この神社の周辺に「湊五軒家」があったのだそうだ。

如意寺

如意寺駐車場から見た久美浜湾

 旅館から久美浜湾を左に回って如意寺(京丹後市久美浜町1845)に向かう。上の画像は寺の駐車場から見た久美浜湾である。宗派は高野山真言宗で、「関西花の寺 二十五か所霊場」の第七番目の札所で、年間約十万人の参拝客が訪れるのだそうだ。

如意寺 仁王門

 上の画像が仁王門で、金剛力士像二体は鎌倉時代初期に制作されたものだという。
 寺伝によると、如意寺は奈良時代の天平年間に行基が開基した寺で、鎌倉時代後期には伏見天皇が帰依されて「如意寺」墨書の勅額を下賜されたという。しかし、室町時代中期の応永年間に兵火に遭い、多くを焼失してしまい、戦国時代、江戸時代に、明治時代に何度か建て替えられてきたという。

如意寺 不動堂

 昭和五十八年に新改築された不動堂だが、わが国唯一の重層宝形造の建築物だという。

如意寺本堂

 江戸時代の様式のままに昭和初期、中期に大修理されたという本堂。本尊の十一面観音菩薩は秘仏である。
 本堂の裏には「珠山千年石の庭」があり、回遊式の遊歩道がある。四月上旬にはミツバツツジの自生林が一斉に花を開くほか、季節季節に多くの花木や山野草が咲くという。

本願寺

 次の目的地は本願寺(京丹後市久美浜町1)。

本願寺 勅使門

 寺伝によると天平二年(730年)に行基が開山したと伝えられ、平安時代に恵心僧都が中興したという。上の画像は鎌倉時代初期に建築された勅使門で京丹後市の有形文化財に指定されている。

本願寺 本堂

 上の画像は鎌倉時代に建築された本堂で国重要文化財に指定されている。事前によく調べておけばよかったのだが、拝観には事前に予約が必要であった。『ひたすら仏像拝観』というサイトに詳しいレポートが出ているが、素晴らしい仏像である。次回来るときには予約して訪れたい。

豪商稲葉本家

 次の訪問地は豪商稲葉家住宅(京丹後市久美浜町3102)。
 稲葉家は織田信長の家臣で美濃国の稲葉一族の末裔と伝わるが、久美浜の地で糀(こうじ)製造で財を成し、それを元手に廻船業で巨万の富を得たという。ただ蓄財しただけではなく、九代市郎右衛門は天明の飢饉の時に多量の米を提供し、十代市郎右衛門は天保の大飢饉の救済で毎年百六十石を十一年間献納し、その功績により名字帯刀を許されたなどの記録が残されている。 

豪商稲葉本家 内部

 この住宅は十二代市郎右衛門が明治十八年~二十三年(1885~1890年)にかけて建築したもので、当主は府会・国会議員を歴任した地元の名望家であったという。

豪商稲葉本家 外観

 戊辰戦争開始当時、天領である久美浜に新政府は「山陰道鎮撫総督」である西園寺公望を派遣し、征討軍一隊が久美浜の本願寺と、稲葉本家に分宿したという。
 江戸から明治時代にかけて、藩主や代官・文人などを迎えた離座敷は大幅に改修され、現在は名物の「ぼたもち」で一服できるようになっている。

十三代 稲葉市郎右衛門像

 入口に銅像のある十三代市郎右衛門は、私財を投じて鉄道敷設に尽力した人物だという。

神谷太刀宮と神谷磐座

 次の訪問地は神谷太刀宮(京丹後市久美浜町1314)。

神谷太刀宮 参道

 どこにでもありそうな神社だが、延喜式の神名帳にも記載されている歴史ある神社である。
 鳥居は、宝永四年(1707年)に建てられたと記録されている。

神谷太刀宮 拝殿

 拝殿の奥の本殿は天明元年(1781年)に建てられたもので京都府の有形文化財となっている。摂社の八幡神社本殿は京都府登録文化財である。

神谷磐座

 この神社の道路の反対側にある磐座(いわくら)は必見だ。大きな岩が真っ二つに垂直に割れており、しかも割れ目は南北を指しているという。この割れ目から北極星を観察できるのだという。
 神社が建てられる前からこの岩が自然に崇拝されていた歴史があるのだろう。「神谷太刀宮」という神社名も、岩を真っ二つに割ったイメージから名づけられたのであろう。近年「鬼滅の刃」の大ヒットで、この岩が注目されているのだという。

旧久美浜県庁舎 玄関棟

 神谷太刀宮の境内に相当傷んでしまって近づけない建物がある。この建物は明治三年(1870年)に久美浜県庁の玄関棟として建てられたものがこの場所に移築されたのだが、京都府の有形文化財の指定を受けている。せっかくの文化財なのだから、しっかりと修理してほしいものである。
 久美浜県は、明治元年(1868年)に設置された当初は丹後、丹波、但馬、播磨、美作五ヶ国の旧幕府領、旧旗本領を管轄したが、明治二年(1869年)に但馬、播磨、美作が生野県として分離され、但馬南部の一部を篠山藩に移管した。その翌年に久美浜県の新庁舎が完成したのだが、明治四年(1871年)の第一次府県統合により豊岡県に編入され、久美浜県は廃止となった。新築されたばかりの庁舎は後に豊岡県庁として移築され、この玄関棟のみが久美浜に残され、この地に移されたという経緯である。

宗雲寺

 次の訪問は 宗雲寺 (京丹後市久美浜町1268)。

宗雲寺 十六羅漢の庭

 この寺の開山は、千畝周竹和尚が永享四年(1423年)に常喜寺を建立したと伝わるが、案内板によると「天正十年(1582)に松井康之が久美浜松倉城主となり、父正之、「清月宗雲禅定門」菩提のために叔父の南禅寺住持玄圃霊三(げんぽれいさん)和尚を中興開山として招き、天正十五年に再興された。なお、文禄元年(1591)の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、松井康之、与八郎父子と共に 玄圃和尚も外交僧として従軍している。
 当寺は、以上の由緒により、開山当時や、 玄圃霊三に関係する資料など多くの歴史資料が保存されている。また庭園には蓬莱石を中心に多数の石組と心字池を配し、小規模ながら枯淡な造りとなっている。そのほかに長禄二年(1458)の銘の残る宝篋印塔や松井康之の父正之、母法壽(ほうじゅ)をまつる肥後の墓などの文化財が伝えられている。」とある。
 内部拝観を受付ているかがよくわからなかったので、平成元年に作庭された十六羅漢の庭だけの撮影となったが、 宗雲寺庭園は京都府指定文化財となっている。次回訪問するときは予約して訪問したい。

 当初の予定では次にかぶと山に登って、展望台から久美浜湾全体をカメラに収めたかったのだが、体調がよくなかったので見送った。駐車場から徒歩で30分で久美浜湾の絶景が楽しめる。NAVITIME Travelのサイトにいい写真が掲載されているが、久美浜湾と日本海を隔てる小天橋は天橋立によく似ている。

円頓寺

円頓寺 仁王門

 最後の訪問先の円頓寺(京丹後市久美浜町円頓寺727)に向かう。この寺は久美浜町といっても久美浜湾からは少し離れた位置にある。画像は円頓寺仁王門で京丹後市指定文化財だ。
 かつての円頓寺は三十六坊を数える伽藍を誇ったのだそうだが、数度の火災により衰微していき、残った一坊が現在の円頓寺だという。この仁王門は本堂から200m以上離れているにはそのような事情によるようだ。

 宝泉寺の住職が話しておられたが、久美浜町には平安時代・鎌倉時代の貴重な仏像を持つ寺がいくつもあり、廃寺となった寺の古い仏像が公民館などに預けられている事例もあるのだそうだ。
 円頓寺には平安時代に制作された本尊薬師如来と日光・月光菩薩像があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。薬師如来坐像及両脇侍像の画像は京丹後市のHPに出ているが、是非実仏を鑑賞したいものである。寺にはほかにも鎌倉時代に制作された熊野十二社権現懸仏や銅経筒を所蔵しており、いずれも京都府の指定文化財となっている。

 円頓寺の寺伝によると、用明天皇の皇子が当地に於いて鬼退治し、その後七ヶ寺を建立し薬師如来を安置したことに始まるという。丹後・丹波には同様のいい伝えを持ち、薬師如来を本尊とする寺院がほかにも多数あるのだそうだ。

円頓寺 本堂

 上の画像は円頓寺の本堂で、万治年間(1658~1661)に豊岡市城崎町の温泉寺から移築したものと伝わり、現在京丹後市の指定文化財となっている。
 この寺も内部拝観を受付けているかがわからなかったので拝観を諦めたのだが、ネットで調べると、重要文化財の写真を撮影して公開している人もいるので、事前予約していれば拝観が可能だったのだろう。今度久美浜方面に行くときは、事前に連絡して平安仏を拝観したいと思う。

 以上、久美浜の寺社をいくつか巡って来たが、大きな寺や神社はないものの価値ある文化財が大切に守り継がれて残されているとの印象を受けた。
 宝泉寺の住職も言っておられたが、久美浜町では漁師、旅館をやっている家以外は、若い人は地元を去る人がかなり多いとのこと。若い人の働く場所がなければそういう選択にならざるを得ず、その結果として高齢化が進んでいくばかりとなる。日本海の新鮮な魚介類と温泉目当てだけでは他の観光地と競合するばかりで、地域の発展は見えてこない。
 若い世代が地元に残って普通の生活ができるようにしないといけないのだが、これだけ素晴らしい文化財を多数保有し、地元の人々が誇れる歴史を持っているのだから、もっと久美浜町の魅力をアピールして地域の活性化が図れないものだろうかと思う。久美浜町はその潜在力を感じさせる地域である。

スポンサーリンク

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
   ↓ ↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。

 前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。

全国どこの書店でもお取り寄せが可能です。もちろんネットでも購入ができます。
電子書籍もKindle、楽天Koboより購入できます。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことが可能です。

内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。

 

コメント

  1. 天橋立には何回か行ったことがあるんですが、久美浜方面は、知りませんでした。素敵です

    • しばやん より:

      久美浜は歴史を知ると興味深い場所なのですが、文化財があまり残されておらず、残っていても公開している寺社が少ないので観光地としての人気は今ひとつですね。

タグ

GHQ検閲・GHQ焚書222 対外関係史81 中国・支那66 地方史62 ロシア・ソ連59 反日・排日51 アメリカ46 イギリス46 神戸大学 新聞記事文庫44 共産主義39 情報戦・宣伝戦38 ユダヤ人36 神社仏閣庭園旧跡巡り36 日露戦争33 軍事31 欧米の植民地統治31 著者別31 神仏分離31 京都府30 外交30 政治史29 コミンテルン・第三インターナショナル27 廃仏毀釈27 朝鮮半島26 テロ・暗殺24 対外戦争22 キリスト教関係史21 支那事変20 西尾幹二動画20 菊池寛19 満州18 一揆・暴動・内乱17 豊臣秀吉17 ハリー・パークス16 大東亜戦争15 ドイツ14 紅葉13 海軍13 ナチス13 西郷隆盛12 東南アジア12 神仏習合12 陸軍11 ルイス・フロイス11 倭寇・八幡船11 アーネスト・サトウ11 情報収集11 満州事変10 人種問題10 スパイ・防諜10 分割統治・分断工作10 奴隷10 大阪府10 奈良県10 徳川慶喜10 不平士族10 インド10 フィリピン10 戦争文化叢書10 ペリー9 和歌山県9 イエズス会9 神社合祀9 国際連盟9 岩倉具視9 フランス9 寺社破壊9 伊藤痴遊9 欧米の侵略8 伊藤博文8 文化史8 A級戦犯8 関東大震災8 木戸孝允8 韓国併合8 兵庫県8 自然災害史8 ロシア革命8 オランダ8 小村寿太郎7 ジョン・ラッセル7 飢饉・食糧問題7 山中峯太郎7 修験7 大久保利通7 徳川斉昭7 ナチス叢書7 ジェイコブ・シフ6 中井権次一統6 兵庫開港6 奇兵隊6 永松浅造6 ロッシュ6 紀州攻め5 高須芳次郎5 児玉源太郎5 大隈重信5 滋賀県5 ウィッテ5 ジョン・ニール5 武藤貞一5 金子堅太郎5 長野朗5 日清戦争5 5 隠れキリシタン5 アヘン5 財政・経済5 山縣有朋5 東京奠都4 大火災4 日本人町4 津波4 福井県4 旧会津藩士4 関東軍4 東郷平八郎4 井上馨4 阿部正弘4 小西行長4 山県信教4 平田東助4 堀田正睦4 石川県4 第二次世界大戦4 南方熊楠4 高山右近4 乃木希典4 F.ルーズヴェルト4 4 三国干渉4 フランシスコ・ザビエル4 水戸藩4 日独伊三国同盟4 台湾4 孝明天皇4 スペイン4 井伊直弼4 西南戦争4 明石元二郎3 和宮降嫁3 火野葦平3 満洲3 桜井忠温3 張作霖3 プチャーチン3 生麦事件3 徳川家臣団3 藤木久志3 督戦隊3 竹崎季長3 川路聖謨3 鹿児島県3 士族の没落3 勝海舟3 3 ファシズム3 日米和親条約3 平田篤胤3 王直3 明治六年政変3 ガスパル・コエリョ3 薩英戦争3 福永恭助3 フビライ3 山田長政3 シュペーラー極小期3 前原一誠3 菅原道真3 安政五カ国条約3 朱印船貿易3 北海道開拓3 島津貴久3 下関戦争3 イザベラ・バード3 タウンゼント・ハリス3 高橋是清3 レーニン3 薩摩藩3 柴五郎3 静岡県3 プレス・コード3 伴天連追放令3 松岡洋右3 廃藩置県3 義和団の乱3 文禄・慶長の役3 織田信長3 ラス・ビハリ・ボース2 大政奉還2 野依秀市2 大村益次郎2 福沢諭吉2 ハリマン2 坂本龍馬2 伊勢神宮2 富山県2 徴兵制2 足利義満2 熊本県2 高知県2 王政復古の大号令2 三重県2 版籍奉還2 仲小路彰2 南朝2 尾崎秀實2 文明開化2 大江卓2 山本権兵衛2 沖縄2 南京大虐殺?2 文永の役2 神道2 淡路島2 北条時宗2 徳島県2 懐良親王2 地政学2 土一揆2 2 大東亜2 弘安の役2 吉田松陰2 オールコック2 領土問題2 豊臣秀次2 板垣退助2 島根県2 下剋上2 武田信玄2 丹波佐吉2 大川周明2 GHQ焚書テーマ別リスト2 島津久光2 日光東照宮2 鳥取県2 足利義政2 国際秘密力研究叢書2 大友宗麟2 安政の大獄2 応仁の乱2 徳富蘇峰2 水野正次2 オレンジ計画2 オルガンティノ2 安藤信正2 水戸学2 越前護法大一揆2 江藤新平2 便衣兵1 広島県1 足利義持1 シーボルト1 フェロノサ1 福岡県1 陸奥宗光1 穴太衆1 宮崎県1 重野安繹1 鎖国1 藤原鎌足1 加藤清正1 転向1 岐阜県1 宮武外骨1 科学・技術1 五箇条の御誓文1 愛知県1 トルーマン1 伊藤若冲1 ハワイ1 武藤山治1 上杉謙信1 一進会1 大倉喜八郎1 北条氏康1 尾崎行雄1 石油1 スターリン1 桜田門外の変1 徳川家光1 浜田弥兵衛1 徳川家康1 長崎県1 日野富子1 北条早雲1 蔣介石1 大村純忠1 徳川昭武1 今井信郎1 廣澤眞臣1 鉄砲伝来1 イタリア1 岩倉遣外使節団1 スポーツ1 山口県1 あじさい1 グラバー1 徳川光圀1 香川県1 佐賀県1 士族授産1 横井小楠1 後藤象二郎1 神奈川県1 東京1 大内義隆1 財政・経済史1