大原寂光院と建礼門院徳子
大原三千院の駐車場から寂光院(京都市左京区大原草生町676)に向かう。駐車場は寂光院の近くにもあるが、空いていない可能性があるのと道幅がかなり狭く、観光バスの駐車場から約800mの道を歩く観光客も多いので、対向車や歩行者とのすれ違いなどで苦労することになる。適当なところで空いている駐車場を利用することをお勧めしたい。
拝観手続きを済ませると寂光院の小さな山門が見えてくる。
寂光院は天台宗延暦寺派の尼寺で、寺伝では推古天皇二年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母・玉照姫(恵善尼)が初代住職であるというが、開創については諸説があり明確なことはわかっていない。
上の画像は寂光院の本堂だが、平成十二年(2000年)に焼失してしまい、平成十七(2005年)年に再建されたものである。火災時に、鎌倉時代に造られた本尊の木造地蔵菩薩立像も一部が焼けてしまったのだが、像内にある三千体以上の地蔵菩薩などは無事であったので、像内仏ともども重要文化財に継続指定され、現在は収蔵庫に安置されているそうだ。今の本尊は、旧本尊の新造時の姿を忠実に模して制作されたという。
安永九年(1780年)に出版された『都名所図会』に室町時代に建築されたという寂光院の本堂が描かれているが、この本堂の少し左に建礼門院徳子が棲んでいた庵があったという。
建礼門院徳子は平清盛の娘で、高倉天皇の中宮となり安徳天皇の生母となる。寿永四年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家軍が敗れ、安徳天皇と平時子(清盛の妻)は入水し、平家一族は滅亡。徳子は生き残って京へ送還されたのち出家して、この大原寂光院に移り住んだという。
境内に「御庵室遺蹟」と書かれた石碑がある。この場所に建礼門院徳子の御庵室があったと伝えられている。
『平家物語』の灌頂巻に、後白河法皇(高倉天皇の父)が文治二年(1186年)に大原に御幸され、徳子と会うために大原寂光院を訪ねる有名な場面がある。
突然の法皇の行幸に徳子は花摘みに行って留守であったが、法皇は侍女の阿波内侍に案内を請い御庵室のなかをご覧になったところ、一丈四方の仏間と寝所だけという、昔の栄華と比べてあまりの簡素な生活に法皇は落涙されたという。しばらくして花摘みから帰ってきた徳子は、落魄した身を恥じらいはじめは会うことを拒んだが、阿波内侍に説得されて涙ながらに法皇と対面する。徳子は波乱万丈の人生を振り返りながら、この庵で安徳天皇と一門の人々の菩提を弔っていることを話し終えると、法皇はじめ供の者も皆涙するばかりであったと書かれている。
『平家物語』の記述をそのまま史実として鵜呑みにはできないが、建礼門院徳子がここに隠棲したことは間違いないことであろう。明治以降は宮内庁の管理となり境内から切り離されてしまったが、建礼門院徳子の陵墓が寂光院の奥に残されており、陵墓につながる石段が寂光院の東側にある。しかしながら徳子がその後この地で過ごしたかについては記録が残されておらず、没年についても諸説があるようだ。
八瀬竈(かま)風呂と、朝廷と八瀬童子との関係
大原から敦賀街道を南に進むと「八瀬」という地域がある。江戸時代の『都名所図会』では「矢背」と書かれていてその地名について次のように解説されている。
天武帝大友王子と位を争いて山城の北へ馳給いし時、王子の軍兵追いかけ奉りて射かけければ、御背に矢中けり。これ故に名とす。(又八瀬とも書)当所に竈風呂あり、天武帝の矢の跡平癒のためしつらいしを始とせり。(今も竈風呂七八軒ありて、何れも国名を名乗る。竈風呂には青松葉を焼き、効能勝るるとなり)
「矢脊」という表記については、壬申の乱の際に、この地で天武天皇が背中に矢傷を負ったという故事に由来することが書かれており、八瀬の竈(かま)風呂は天武天皇がその疵を平癒するために考案されたというのだが、Wikipediaによると、この故事は「歴史学的な見地から否定されている」という。壬申の乱において八瀬で戦いがあったという記録はなく、私もなんとなく竈風呂の箔付けのために造られたフィクションではないかと考えるのだが、八瀬の竈風呂の歴史はかなり古いようで、藤浪剛一 著『東西沐浴史話』によると、
建武三年正月三日、後醍醐天皇が足利尊氏をこの地に避け給うたとき、近侍の人々の傷ついたもの多く、この竈風呂に浴して瘡疾を治して、天皇を奉じて叡山に登った。かくて里人の供奉したのを、天皇から感賞を蒙ったとて、この里人は今日も尚、賢殿の御湯殿の御用を勤める。
(藤浪剛一 著『東西沐浴史話』p.201~202昭和十九年刊)
上の画像は『都名所図会』の八瀬竈風呂の挿絵だが、竈風呂はサウナのような風呂と理解すればよいだろう。江戸時代中期に七~八軒であった竈風呂も明治三十年頃には五~六軒となり、今も営業しているのは平八茶屋と八瀬かまぶろ温泉ふるさとの二軒だけだという。
八瀬かまぶろ温泉ふるさとには昔使っていた竈風呂が残されていて、京都市指定有形民俗文化財に指定されている。この竈の所有は八瀬童子会になっているのだそうだが、八瀬童子というのは八瀬の村民のことで、代々朝廷の駕輿丁(がよちょう:高貴な人々を運ぶ役割)をつとめ、明治天皇・大正天皇の葬送では八瀬童子が輿丁(よてい)といって天皇の棺を載せた輿(こし)をかつぐ役割を果たし、昭和天皇の時には、皇宮護衛官が八瀬童子の古式の装束を着て輿丁にあたったそうだ。
たとえば『明治天皇御大葬誌』にこのような記事がある。
八瀬村は古く醍醐天皇時代より宮中の冠婚葬祭に召し出され御用命を受けつつあり、慶応四年三月十一日には村民中より輿丁十人、吊台持二人、足台持二人、内侍所棒持二十八人、等召し出されて先帝の供奉申し上げ、…
かくの如くなるを以て古くより同村は租税を免除せられ献上品の如きも一般の如く宮内省の手を経ず直接主殿寮に出頭して献上しつつありき…
(『明治天皇御大葬誌』p.85-86大正元年刊)
八瀬の人々が租税を免除された経緯については、『京都府の歴史散歩 中』に次のように解説されている。
1336(建武3)年、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬の村人が輿をかつぎ、弓矢をとって護ったことから、諸役免除の特権を受け、河内国・和泉国など全国十三ヵ国の国名を名乗ることも許された。こうしたことから、八瀬童子は後醍醐天皇に特別の思いをもっており、それは朝廷に対して献身的な態度となって継続した。
(『京都府の歴史散歩 中』p.107山川出版社)
正中の変のあと宮中に監禁されていた後醍醐天皇を援け比叡山に逃がしたのは八瀬童子であり、傷ついていた近侍の人々に八瀬の竈風呂を勧めて傷を癒したことが深く感謝されたということであろう。
このような経緯から八瀬は租税が免除されるようになったのだが、宝永七年(1710年)に比叡山との境界論争が勃発した際に、時の老中で訴訟の担当であった秋元但馬守喬知が八瀬村の租税免除の特権を認めた裁決をし、その恩に報いて「赦免地踊り」(京都市登録無形民俗文化財)が行われるようになったという。この祭りでは女装をした少年が紙灯篭を頭にのせる灯篭踊りが八瀬天満宮の摂社・秋元神社に奉納されるのだそうだ。昔は毎年十月十一日だったが、最近では体育の日の前日の夜八時に行われているという。
上の画像は八瀬童子の氏神である八瀬天満宮(京都市左京区八瀬秋元町)である。『都名所図会』には、左に手ぬぐいを頭にかぶって薪や柴を頭上に乗せて売り歩いた人々が描かれ、右側に旅人と弁慶背比べ石が描かれている。この石は現在、本殿石段下の傍に移設されているが、昔はこの神社の境内入口にあったという。
八瀬の紅葉名所・蓮華寺
八瀬近辺には瑠璃光院や栖賢寺などいくつかの紅葉名所があるが、額縁庭園で有名な蓮華寺(京都市左京区上高野八幡町1)に向かう。この寺の紅葉は以前はそれほど有名ではなかったと思うのだが、平日にもかかわらず予想した以上に観光客が多く、特にマイクロバスで外国人の団体が来ていたのには驚いた。SNSなどでこの寺の庭園の美しさが世界でもよく知られているのであろう。この寺の庭は鴨居・敷居と何本かの柱が額縁のようになって切り取られた景色が美しいと言われているのだが、観光客が多かったので、とりあえず最前列で撮影した画像を紹介したい。
Wikipediaによると、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院が応仁の乱で焼失し、寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義(ちかよし)が近義の祖父・重直の庵があった場所に寺を再建したのだそうだ。
近義の祖父・重直は美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれたのだが、晩年になって得度して、上高野に寺院を建立することを願って土地まで手に入れたが果たせなかったという。そこで、近義が祖父の菩提を弔うためにこの寺を造営したと考えられている。
再建に際して近義は、実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧を開山として招いたことから、この寺は比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となり、現在の寺号は、境内地がかつて同名の廃寺の跡地であったことに由来するという。
上の画像は天明七年(1787年)年に刊行された『拾遺都名所図会』の挿絵で、下半分が蓮華寺の境内で、上半分が現在の崇道神社である。神社の名前が変わったのは、大正四年に高野神社、伊多太神社、小野神社の三社が合祀されたことによる。
蓮華寺の造営にあたって、詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野派画家の狩野探幽、黄檗宗の開祖である隠元隆琦や第二世の木庵性瑫らが協力したことが記録に残っているというが、これらの文人の協力により素晴らしい庭園が完成し、今もその庭が美しく残されていることは嬉しい限りである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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