明治初期の方広寺の写真
国際日本文化研究センターのサイトに「京都名所撮影データベース」があり、明治初期に撮影された二十四枚の「京都名所」の写真を見ることが出来る。私自身京都市内の生まれなので、有名な寺社であれば写真を見ればだいたい名前を言い当てることができるのだが、大きな鐘が雨曝しになっているような寂れた寺の写真が「京都名所撮影」という本に載っていることにまず違和感を覚えた。「大仏方広寺」という題名を見て納得したが、この写真を「京都名所」に選んだのは、観光地の美しさではなく、この寺の歩んできた数奇な歴史にあるのだろう。

慶長十九年(1614年)に方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文をめぐり、家康の名前を分断し豊臣の繁栄を願うものだと家康が激怒して豊臣家との対立が決定的となり、のちの大坂の陣により豊臣家が滅ぶことになるのだが、この有名な梵鐘が明治初期に雨曝しになっていたとは知らなかった。
写真の鐘の奥にある建物が大仏殿だが、調べるとこの建物は昭和四十八年(1973年)に木造であった大仏と共に焼失してしまっている。私は大仏殿消失後の方広寺しか知らないので、この写真にピンとこなかったようである。
『都名所図会』に描かれた方広寺
京都の俳諧師秋里籬島が著わし、図版を大坂の絵師竹原春朝斎が描いて安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会』という本があり、この全ページと翻刻文が先程の国際日本文化研究センターのHPで紹介されている。

この『都名所図会』第三巻に方広寺の立派な伽藍の絵が描かれているのだが、出版された当時の大仏殿は壮大な建物であった。
『都名所図会』の本文には「大仏殿方広寺は、後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は廬舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向にして、東西二十七間南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置、長は壹丈四尺なり。門の内には高麗犬あり、金色にして長七尺…」などと記されている。
一丈は三.〇三メートル、一尺は三十.三cmであるから、方広寺大仏の高さ六丈三尺は約十九メートルということになる。ちなみに東大寺の大仏は五丈三尺で約十六メートル(実測十四.七メートル)であるから、方広寺の大仏は東大寺の大仏よりもひと回り大きかったということになる。
また方広寺大仏殿は高さが四十九メートル、南北八十八メートル、東西五十四メートルということなのだが、現存で世界最大の木造建造物である東大寺大仏殿と比較すると、高さは四十九メートルで同じだが、東大寺は正面が五十七.五メートルで奥行きが五十.五メートルだから、僅かながら方広寺大仏殿は東大寺大仏殿よりも大きな建物であったのだ。
また敷地については、現在の豊国神社や京都博物館が方広寺の境内であったというから、今の西本願寺や東本願寺よりも広い境内を持つ大寺院であったようなのだ。
方広寺の歴史
しかしながら、方広寺の歴史を調べてみると、何者かに呪われたかのように何度も倒壊や破損を繰り返している。今回はWikipediaの記事などを参考にして、方広寺の歴史を振り返ってみたい。
天正十六年(1588年)に豊臣秀吉が発した刀狩令には、「没収した武器類を方広寺の大仏の釘や鎹(かすがい)にする。そうすれば百姓はあの世まで救われる」と書かれていたことは有名な話だが、この寺の造営が開始されたのは天正十四年(1586年)で、刀狩令の二年前から工事が始まっているのである。
文禄四年(1595年)に大仏殿がほぼ完成し、高さ約十九mメートルの木製金漆塗坐像大仏が安置されたのだが、翌年の慶長元年(1596年)に地震があり、開眼前の大仏が倒壊してしまった。
翌年秀吉は善光寺の本尊*を方広寺の本尊としたのだが、この頃から秀吉は病気になり、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになった。翌慶長三年(1598年)にこの本尊を信濃(もともとの本尊のあった信濃善光寺)に送り返すのだが、秀吉はその仏像が送られた翌日(八月十八日)に亡くなったのだそうだ。そして八月二十二日に大仏のないままで、方広寺大仏殿で開眼法要が行われたという。
*善光寺の本尊は戦国武将の思惑で全国各地を流転し、当時は甲府にあった。

その後秀吉の遺志を継ぎ豊臣秀頼によって大仏の再建が行われたが、慶長七年(1602年)に鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上してしまう。この火災については徳川家康が江戸に幕府を開いた直前の事だけに、放火説も根強くあるようだ。
慶長十三年(1608年)十月に、豊臣秀頼は再び大仏および大仏殿の再建を企図する。慶長十五年(1610年)から建築が始まり、慶長十七年(1612年)に大仏殿と銅製の大仏が完成した。この時は徳川家康も諸大名に負担を命じて協力したようである。
慶長十九年(1614年)に梵鐘が完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ落慶法要を行おうとしたが、七月に徳川家康より梵鐘の銘文に不吉な語句があると異議が唱えられ法要中止の求めがあった。有名な「方広寺鐘銘事件」だ。

上の画像が有名な方広寺の鐘だが、方広寺に行って鐘の銘文を拝見しに行くと「君臣豊楽」「国家安康」という文字が白墨でわかりやすく囲まれていた。
この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が金地院崇伝らと画策して問題化させたものであるという考え方が一般的であるが、銘文を作った文英清韓という人物は豊臣氏とつながりが深く、同じ南禅寺住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立していたと言われており、文英清韓が自ら「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明したことが宝暦二年(1752年)に編纂された『摂戦実録』という書物に記されているという。『摂戦実録』は相模小田原藩四代藩主の大久保出羽守が儒者の樋口弥入に大坂の陣関連の記録を集大成させたものだが、事件から百四十年近く経過したのち、譜代大名が書かせたものであることを割り引いて読む必要があると思う。

皮肉なことに、方広寺で創建以来の姿で今も残っているものはこの鐘だけなのだ。 鐘の銘文が徳川家を冒涜するものだとしながら、大坂の陣で豊臣軍を打ち破っても、家康はこの鐘を鋳潰さなかったし銘文を変えさせることもしなかった。何か徳川家康の意図があったような気がするのだが、この点はよくわからない。
ちなみにこの鐘の高さは四.二メートル、重さは八十二.七トンとかなり大きく、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘の一つとされ、国の重要文化財に指定されている。
話を方広寺の歴史に戻そう。
方広寺鐘銘事件の四十八年後の寛文二年(1662年)に大きな地震があり、また大仏が傷んでしまい再び木造で造られることとなる。壊れた大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたそうだ。

さらに寛政十年(1798)年に落雷による火災で大仏殿も木造の大仏も焼失してしまう。先程紹介した「都名所図会」の大仏殿の絵も、上に掲載した「洛中洛外図勝興寺本」に描かれた大仏殿も、この時に焼失する前に描かれたものである。
この焼失の後は、さすがに江戸幕府は元の規模の大仏殿や大仏を再建することはしなかった。天保年間(1830~1843)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上だけの大仏像と仮殿を造り寄進したのだが、それも、昭和四十八年の三月二十八日の深夜の火災で焼失してしまった。冒頭で紹介させていただいた「京都名所撮影」の古写真に写っていた鐘の後ろの建物は消失前の仮殿ということになる。
創建以来約四百年の間に、大仏は五回潰れ大仏殿は三回倒壊したということになるのだが、方広寺の大仏殿や大仏がまるで魔物にとりつかれているか、何者かに呪われているかのような歴史なのだ。
方広寺の本堂と鐘楼

上の画像は方広寺の現在の本堂だが、失われた「京の大仏」の十分の一のスケールの仏像(江戸時代中期制作)が本尊として安置されているという。十分の一といっても高さは二メートル近くあるので充分に大きな仏像である。他には、左甚五郎作の龍の木彫りの彫刻や、境内の大国道の天井画として制作された縦横四メートルにも及ぶ「神龍図」などを所蔵しているそうだ。残念ながら 本堂や大黒堂の内部は普段は公開されていないのだが、たまに特別公開されることがあるという。

明治二年(1869年)に、明治政府が皇室歴代の位牌を祀る施設「恭明宮(きょうめいぐう)」を造営するため、方広寺の南半分を没収しそこに建っていた鐘楼が取り壊されてしまったために、方広寺の鐘は長い間雨曝し状態になっていたのだが、明治十七年(1884年)に鐘楼が再建されて現在にいたっている。天井には綺麗な彩色画が描かれている。
鐘楼の中に入ると明治二年に取り壊される前に屋根の軒先に吊るされていた風鐸や柱の金輪などが無造作に地面に置かれているが、桃山時代に建築された初代の鐘楼は今の鐘楼とはけた違いの大きさであったことが分かる。
ちなみに、恭明宮は明治六年(1873年)に政府の方針が転換されて、皇室歴代の位牌などは皇室菩提寺である泉涌寺(せんにゅうじ)などへ移されてしまい、恭明宮はわずか二年で廃止されている。その後は建物が小学校などに再利用されたのち、明治二十三年(1890年)に帝国京都博物館(現・京都国立博物館)の建設地として正式に決定されたという。
豊国神社の歴史
方広寺の南側には豊国神社がある。この神社の歴史も興味深い。
豊臣秀吉は慶長三年(1598)八月に六十三歳で没し、その遺命により東山阿弥陀峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として豊国廟が建てられ、その周囲に八十余りの廟社殿が建設され、御陽成天皇は秀吉に正一位を授け豊国大明神を与えられたという。
しかしながら慶長二十年(1615)の大阪の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により豊国大明神の神号が廃され、さらに豊国神社の破却を命じられ、社領は没収され、社殿は朽ちるまま放置されてしまう。
ところが、徳川幕府が倒れたのち明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸した際に、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府を作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告し、明治十三年(1880年)に方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し遷座が行われたという。

豊国神社の唐門は桃山時代の建築で、「京の三唐門」の一つとされ国宝に指定されている。ちなみに「京の三唐門」の残りの二つは西本願寺の唐門(伏見城から移築)、大徳寺の唐門(聚楽第から移築)で、「京の三唐門」総てが秀吉に繋がるのである。
この唐門は明治の再興の際に南禅寺の塔頭「金地院」から移築されたものであるのだが、南禅寺の「金地院」というのは、家康のブレーンであり、方広寺の鐘銘に難癖をつけて豊臣家を追いつめることを家康に進言したとされている金地院崇伝が居住し再興させた寺院である。
この唐門がなぜ南禅寺の金地院にあったのかを調べると、金地院崇伝は金地院の境内に「東照宮(金地院東照宮)」を創建し、江戸幕府からこの豪華絢爛な唐門を下賜されて、東照宮入口の正門としたのだという。
では、南禅寺の金地院に移設される前にこの門はどこにあったのかについては、もともと豊国神社にあったという説、二条城にあったという説、伏見桃山城にあったという説に分かれるのだが、現在は伏見桃山城の城門であったという説が多数説のようだ。
明治になって徳川時代に廃絶されていた豊国神社の再興が決定し、方広寺のかつての境内に豊国神社が遷座され、さらに明治十三年(1880年)に南禅寺金地院から唐門が豊国神社に移築されたのである。
秀吉が作らせた豪華絢爛な唐門は、江戸時代は政敵であった家康を祀るために用いられたのだが、明治になってようやく秀吉の元に帰って来たとでも言えば良いのだろうか。
方広寺が大寺であった時代の痕跡

今の方広寺の境内は随分狭くなってしまったが、かつては大寺であったことがわかる場所がいくつか残されている。たとえば巨石で作られた豊国神社正面の立派な石垣や、神社正面に向かって道路が途中から異常に広くなっていることである。ヤフーの航空写真で確認するとよくわかるのだが、神社の正面を南北に通じる「大和大路通り」が、現在の方広寺から国立博物館までが数倍広くなっている。また、東西に走る「正面通り」も方広寺に近づくと道幅が拡がっているのがよくわかる。

わが国において豊臣秀吉という人物の評価は江戸時代には貶められ、明治になって復活し、第二次世界大戦後には再び貶められるようになった。
拙著に書いたが、秀吉の時代に多くの寺社が宣教師に教唆されたキリシタンにより破壊され、また多くの日本人が奴隷として世界に売られて行ったのだが、当時のスペインやポルトガルにわが国を侵略する意思があり、宣教師がその先兵の役割を担っていることを秀吉が察知し、伴天連追放令を出している。その後、秀吉は朝鮮出兵する前ゴアのインド総督(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)に降伏勧告状を突き付けて恫喝したのだが、このような戦前・戦中にはしっかり書かれていたような史実の多くが、戦後のわが国ではほとんど伏せられてしまっていた。このことと、秀吉が戦後になって貶められていることと無関係ではないはずだ。
いつの時代においてどこの国においても、時の権力者は自らにとって都合の悪い史実を封印し、都合の良い歴史を編集して国民に拡散するものだが、戦後のわが国ではいまだに戦勝国にとって都合の悪い史実が封印され、彼らにとって都合の良い歴史を今も広められていることを知るべきである。
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