中国の属国であった李氏朝鮮
以前このブログで日清戦争のことを書いたのでこの経緯については省略するが、この戦いの目的は、わが国が朝鮮を独立国として清国に認めさせるための戦いであったことは、両国の宣戦詔勅を読めば明らかである。
それぞれのポイントとなる部分の原文と現代語訳が次のURLに出ている。
【日本の宣戦布告文】
「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ」
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にもかかわらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)【清国の宣戦布告文】
「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト二百余年、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ近ク十数年、該国時ニ内乱多ク朝廷ハ小ヲ宇ムヲ懐ト為シ、畳次兵ヲ派シテ前往勘定セシメ竝ニ員ヲ派シテ該国都城ニ駐紮セシメテ時ニ随ツテ保護セリ」
(朝鮮は我々大清の属藩たること二百年あまり、年々朝貢をしていると内外に知れ渡って十数年。内乱が多いので、兵を派兵して平定し、また都城に駐屯させて保護している)
また、日清戦争わが国が勝利し、後に両国間で結ばれた下関条約の第一条にはこう記されている。
「第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缼ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス 因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」
そもそも李氏朝鮮という国は、一三九二年に李成桂が高麗王位を簒奪して高麗王と称したことからはじまるのだが、すぐに明(みん)に使節を送ってその臣下となり、朝鮮の国号と王位を下賜されている。要するに李氏朝鮮は、国家成立した当初から中国の属国であったというのが歴史の真実なのである。
李氏朝鮮の朝貢使節に対する中国の待遇
では中国は李氏朝鮮とどのように接していたのだろうか。黄文雄氏の著書にはこう解説されている。
朝鮮の朝貢使節が北京詣でをする際は、諸侯の礼さえ受けられない粗末な待遇だった。そもそも中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。朝鮮国王の言動が中国皇帝の逆鱗に触れたときは厳しく処罰され、貨幣鋳造権停止の処分を受けたこともある。
天朝の朝貢秩序は、ただ単に正朔(せいさく)を奉じて冊封を受けるだけの「虚礼」ではない。属国、冊封国は、宗主国へ定期的に朝貢使節を送り、回賜(返礼)を頂かなければならなかった。これは朝貢貿易と呼ばれるもので、現在韓国では、「進貢よりも回賜の方が多かった。中国との宗属関係は形式的なもので、実質的には貿易の実益を狙った経済活動だった。政治的な隷属関係ではない」とするのが通説だが、それは事実と異なる。最近の研究によれば、清朝宮廷からの回賜は、進貢のわずか十分の一だったことが明らかになっている。朝鮮は中国に搾取される一方の最貧国であった。…中略…
朝鮮外交をめぐる交渉も李朝朝廷ではなく清国を通して行われていた。朝鮮の国事人事までも、清政府が決めるのである。たとえば李朝政府がメルレンドルフを外務協弁(補佐官)から解任するときには、清末の最高実力者であった李鴻章の承認を得て行った。その後任に海関総税務司を兼任していたアメリカ人ヘンリー・メリルを送ったのも李鴻章である。
一八八五年(明治十八年)、イギリスが朝鮮半島の巨文島を占領したときも、李朝にではなく、イギリス駐在清国大使の曽紀沢に通告を行った。そして曽は、李朝政府に連絡することもなく占領を了承している。国土の変更ですら清国大使の裁量次第だったのである。…中略…
当時の属国状態の象徴的事件は、清国から派遣されていた袁世凱(えんせいがい)による大院君の逮捕と朝鮮支配である。袁世凱は清国内では一介の武弁(武官)にすぎなかったが、朝鮮では国王も服従するような強大な権限があった。
袁世凱支配下の漢城(ソウル)はじつに悲惨であった。清兵三千人が市民を掠奪、暴行し、両班(ヤンパン)の家にも侵入して女性を凌辱する。女性たちは強引に酒席で妓生(キーセン)にされ、乱暴狼藉される。李朝の高官でさえ、清国の領事や軍人から殴る蹴るの暴行を受け、何も言えず泣き寝入りしていた。朝鮮はあくまでも事大(属国)に徹し、なす術がなかったのである。
『日本植民地の真実』扶桑社 平成15年刊 p.166~170
このように李氏朝鮮は、以前は清国に搾取される悲惨な国であったのだが、わが国が日清戦争に勝利することによって、五百十余年ぶりに明・清の束縛を脱して晴れて独立国家となることができたのである。
李氏朝鮮が近代的国家となることを熱望し、改革をしようとした日本
しかしながら、独立国とはいえ自国を守れるだけの力量があまりにも不足していた。当時の李氏朝鮮は非常に貧しい国であり、兵力も乏しく、清国やロシアが攻め入ったら簡単に滅ぼされていたことは確実であったし、実際にロシアは朝鮮半島の領有を明らかに狙っていた。
朝鮮半島南端から対馬まではわずか五十キロの距離しかなく、もし朝鮮半島がロシアに占領されたならば、いずれロシアがわが国の生存を脅かす存在になることを怖れて、わが国は朝鮮が近代国家に改革され、自立した国家となることを熱望していたのである。
日清戦争を機に朝鮮半島における清国の影響を排除することに成功したわが国は、朝鮮の近代化改革(『甲午改革』)を推進しようとしたのだが、当時の李氏朝鮮という国がどれほど前近代的な国であったかは、わが国が提案した近代化策の一部を読むだけでなんとなくわかる。
1. 今後は清暦を廃止し、開国紀年を用いる
2. 貴賤門閥に拘らず人材を登用する
3. 人身売買の禁止
4. 貴賤の別なく寡婦の再婚を許す
5. 平民にも軍国機務処に意見を提出することを許し、卓見の持主は官吏に採用する。
6. 官吏の不正利得を罰する
7. 司法権限によらぬ捕縛や刑罰の禁止
8. 駅人・俳優・皮工など賤民身分の廃止
9. 拷問の廃止
10. 租税の金納化 …
このような提案が二百七項目もあったというのだが、この国はその後も内紛が続いて改革はうまく行かなかった。また日清戦争勝利後の三国干渉でわが国がロシアに譲歩したことが韓廷内の対立を一層深刻化させることとなり、朝鮮は貴重な時期に独立を忘れて大院君派*と閔妃派**との内部の暗闘に明け暮れることになるのである。
*大院君(たいいんくん):李氏朝鮮で、直系でない国王の実父に与えられる称号。ここでは二十六代高宗の父・興宣大院君を指す。李朝末期の朝鮮王朝の実権を握り、激しい排外、攘夷策をとった。
**閔妃(びんひ):二十六代高宗の王妃。閔氏一族を登用し守旧事大 (親清) の政策をとり,政権を義父大院君や親日開化派と争った。
閔妃と結託して李氏朝鮮を支配しようとしたロシア
ロシアは閔妃と結託して親日内閣を倒し、親露派で朝鮮を支配しようと画策するに至る。明治二十八年(1895年)にロシアは親日派一掃のため、日本人教官に訓練された二大隊(「訓練隊」)の解散と武器の押収を命じたのだが、この動きに訓練隊の将兵は激昂し、日韓の有志と共に王宮に入り、閔妃を殺害して権力を奪還したという。(乙未[いつび]の変)
通説では、日本人が閔妃を暗殺したとされているのだが、ロシア側の記録でも、韓国側の複数の記録でも朝鮮人の禹範善が暗殺したことが記述されているし、禹自身も自供している事実をなぜ無視するのであろうか。
当時の朝鮮では異常な事件がその後も相次いでいる。
閔妃暗殺事件の翌月には、親露派は王宮を襲撃して国王をロシア公使官に奪い去ろうとしたのだがこの時は親衛隊によって阻まれた。
しかしながら翌一八九六年には、ロシアは武力を背景に国王を奪い取ってしまったのである。中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』にはこう解説されている。
…一月、騒乱鎮圧で首都の警備が手薄になった虚に乗じて、ロシア公使ウェーバーは公使館防衛の名目でロシア水兵百名を引き入れ、親露派と謀って国王を王宮から奪取してロシア公使官に移した(二月十一日)。この事件を国王の「露館播遷(ろかんはせん)」と言うが、背後には米国の後援もあった。
政局は逆転し、金弘集・魚允中らは惨殺され、多くの親日派は日本に亡命した。この時殺害された大臣たちは、四肢を切り裂かれ肉を食われるなどの異常な光景が現出したとF・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』は記している。
国王はロシア公使官より詔勅を下し、親日派の逮捕を命じ、断髪令その他の改革事項の撤廃を宣言したため、朝鮮の混乱は極に達した。この異常な変乱で日本人三十余名が殺害され、十余万円の財産が被害を受け、わが国の勢力は失墜した。国王と共に朝鮮政府もロシア公使官内に入り、朝鮮政局は完全にロシアの掌握する所となった。
ロシアは兵力を以て親露内閣を保護し、二人の顧問によって財政と軍事を掌握した。二十人のロシア士官で韓国軍隊を訓練し、武器弾薬はウラジオストックより輸入した。更にロシア語学校を創設し、咸鏡道の鉱山採掘権を獲得するなど、着々と勢力を扶植した。このようにして国王が露館にあった一年間、ロシアは朝鮮に対する保護政治の実を挙げた。またロシアの利権獲得は他の列強を刺戟し、国王の露館滞在中、朝鮮は多くの利権を列強に譲渡する結果になった。
朝鮮国王と政府がロシア公使官の中に遁入してしまった結果、朝鮮の政策はロシア公使官に於いて決定されるという奇観を呈し、朝鮮政局の前途は甚だ憂慮すべき状況となった。
中村粲『大東亜戦争への道』p.71~72
わが国はこれ以上のロシアの南下を阻止するため、結局ロシアと協商して、明治三十年(1897年)二月に国王は一年ぶりにロシア公使官から王宮に戻ったのだが、ロシアはわが国との約定を無視して、朝鮮と密約を結び、ロシア人の軍事教官を韓廷に送り込んだり鴨緑江の伐採特許を獲得したりしている。そのような状況下の九月に、朝鮮国王は皇帝と称し、国号を大韓と改め、形式は独立国の体裁を整えたものの、実質はロシアの属国であった。
ロシアが李氏朝鮮を支配していた時代
この時期に朝鮮半島を旅行したイザベラ・バードは『朝鮮紀行』でロシアが支配した時代を、親日派が組閣した時代と比較してこう記している。
ロシア公使館に遷幸〈せんこう〉して以来国王が享受した自由は朝鮮にとっては益とならず、最近の政策は、総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは、対照的に好ましくない。
昔ながらの悪弊が毎日のように露見し、大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。国王の寵臣のひとりが公に告発されたときには、正式の訴追要求がなされたのに、その寵臣はなんと学務省副大臣になっている! 一八九五年十月八日[乙未事変]の反逆的将校や、武力で成立した内閣の支配からも、心づよくはあっても非人道的なところの多かった王妃の助言からも、また日本の支配力からも解放され、さし迫った身の危険もなくなると、国王はその王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ、チェック機関があるにもかかわらずふたたび勅命は法となり、国王の意思は絶対となった。…中略…
人が理由もなく投獄され、最下層民の何人かが大臣になった。金玉均を暗殺した犯人が式部官に任命され、悪事をつづけてきて有罪の宣告を受けた者が法務大臣になった。官職をこっそり売買したり、国庫に入るべき金を途中で着服したり、貧乏な親戚や友人を「箔づけ」して官舎に住まわせるためにほんの数日間だけしかるべき官職に就けたり、高官が少しでも非難されたらすぐに辞任するという習慣がはびこったりした結果、国政はつねに混沌とした状態にあった。善意の人ではありながらも優柔不断な国王は、絶対的存在であるのに統治の観念がなく、その人柄につけこむさもしい寵臣のおもちゃであり、貪欲な寄生虫にたかられ、しかもときには外国の策士の道具となっている。そして常設しておくべき機関を壊すことによって政府の機能を麻痺させ、私欲に駆られた官僚の提案する、金に糸目をつけない計画を承認することによって、経済財政改革を一過的で困難なものにしている。こんなめちゃくちゃな政治のやり方は、ロシア公使館にのがれて自由を得るまでの国王には決して見られなかったものである。
イザベラ・バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫 p.538~539
このようなロシアのやり方が韓国民の反発を招くようになり、ロシア勢力は一旦韓国から引き揚げて南下政策の矛先を満州に向けたのだが、一九〇三年になると再び対韓侵略の意図をもって動き出した。ロシアは森林保護を名目に鴨緑江河口の竜岩浦を軍事占領し、わが国の抗議を無視して軍事要塞の建設を開始したのである。
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