県令に無住寺等の財物の処分が任されていた
明治四年(1871年)七月に行われた廃藩置県に伴い、寺社領を与える主体であった領主権力が消滅したために寺社領の法的根拠が失われ、明治四年と八年(1875年)に発布された上知令により境内を除く寺社領が没収され、寺の収入源の多くが絶たれてしまった。旧藩主からの支援もなくなり、新政府からの支援もなく、特に檀家を持たない寺は窮乏し、この時期に廃寺となった寺も少なくなかった。また、前回の「歴史ノート」で記した通り、廃藩置県により旧藩主は知藩事を解任されて東京移住を強制され、県の行政は新政府が送り込んだ県令に委ねられて全国各地で開明的な施策が行われて、多くの古いものが破壊されたり売却されたりした。
森本和男著『文化財の社会史』には奈良県の初代県令・四条隆平(しじょう たかとし)の行政についてこう記されている。
路傍の石仏移転、無檀無住の寺院を廃して、附属物を売却して学校費に充てるように県から達が出された。1873年(明治六)11月までに設立された学校の立地場所は、ほとんどが寺院もしくは廃寺であった。開明政策や殖産興業と結びついた仏教排除が、県行政によって独善的に進められたため、四条隆平は廃仏知事と呼ばれたり、大仏を潰して大砲にするという風聞まで流れた。
(森本和男著『文化財の社会史』彩流社2010年刊 p.33)
新政府から派遣された県令の誰もが、公明正大な行政を行っていたわけではない。中には権力を用いて文化財を私物化する者もいた。
県知事が寺院の名品を収奪することもあった。二代目の奈良県県令であった藤井千尋も積極的に開明政策を進めた。特筆すべき施策は、東大寺を会場にして奈良博覧会を開き、法隆寺や東大寺など各社寺の宝物類、旧家や好事家の所蔵品のほか商工業製品、名産品等を陳列した。数回にわたって開催された奈良博覧会によって、彼は各社寺に伝来する名品に精通していたのであろう、吉野郡某寺所蔵の「文治元年源義経」と銘のある五~六寸の金銅製観音を私物化し、真宗僧侶に無償で与えてしまった。
(同上書 p.33)
藤井千尋は初代県令の四条隆平の後を継いで、明治六年十一月から明治九年四月まで奈良県令を勤めた人物である。前回の歴史ノートで明治六年(1873年)七月十七日に教部省が、社寺にある物品を勝手に処分することを禁じて、どうしても処分する場合は教部省へ詳しい状況を報告せよとの布告を出していることを書いたが、当時の県令は寺の生殺与奪権を握っており、その気になって寺に圧力をかければ何でもできたのである。
大阪府でも、神社の仏像、仏具の焼却、仏堂の除去が奨励された。さらに、路傍の地蔵妙見、稲荷道祖神などの小祠をも、取り除くように命じられた。堺県の初代県知事となった小河一敏は、豊後岡藩士で平田学派門下であった。知事任命の拝を受けると、すぐさま管内の大社に奉幣し、祭祀日には必ず烏帽子直垂を着て参拝するほどであった。後に彼は平田派国事犯事件で捕縛された。維新当初、仏教関係の物品はさほど徹底的に処分されていなかった。だが1873年(明治六年)に、還俗した神官となった旧僧侶が転任あるいは罷免され、新たに官選神官が任命されると、残っていた旧寺院関係の建築物、器具が、新任者の手によって売却もしくは棄却された。
二代目の堺県知事は税所篤(さいしょ あつし)であった。彼は薩摩藩士で、大久保利通、西郷隆盛、吉井友美と交友があり、維新後は内国事務局判事、大阪府知事、河内県知事、兵庫県知事を歴任していた。堺県知事となった後、1877年(明治二十)に再び奈良県が設置されると、奈良県知事となった。
(同上書 p.33~34)
堺県令・税所篤の時代に奈良の多くの文化財が失われた
堺県というのは明治元年に現在の大阪府南西部にあった和泉国の旧幕府領・旗本領を管轄されるために設置され、明治二年(1869年)以降和泉国、河内国の全域を管轄することとなり、、明治九年(1876年)の第二次府県統合で奈良県を編入することになったのだが、明治十四年(1881年)に大阪府に編入されて廃止となった県である。そして、税所篤は明治三年(1870年)~十四年まで堺県知事・堺県令をつとめたのち、明治二十年(1887年)に奈良県が再設置されると、再び二年間奈良県知事を務めたのだが、文化財を収奪して財を成したことが疑われている。
『埃まみれの書棚から』という奈良の古寺、古仏についての素晴らしいホームページに、昭和二年の文藝春秋七月号に掲載された「柳田国男・尾佐竹猛座談会」と題し、芥川龍之介、菊池寛も座談に加わって語られた内容の記事の一部が引用されている。「〇〇子爵」は税所篤を指す。尾佐竹猛(おさたけ たけき)という人物は明治文化社会史研究家で当時は大審院(今の最高裁)判事だった人物だが、彼の発言に注目である。
柳田:○○○事件ですか。それから一番ひどいのは○○子爵ですね?
尾佐竹:堺の県令をして居る時分に奈良の大抵の社寺の古物などを持って帰るのですね。 あれなんか県令の勢で強奪したり又はすり替へるのですからね。
芥川:さういふのは裁判沙汰にならなかったのですか。
尾佐竹:明治初年の県令といふものは大名の後継者の積もりで素破らしいものであり、司法権も警察権も有ってゐるといふ大したものでしたからね。
そして民間は奴隷根性が抜けぬ時ですからね。
柳田:奈良の古物といふものは、あの時分によほど多く無くなったといひますね。
尾佐竹:県令が御覧になるからといって取り寄せて返さぬ、又は、刀の中味などをすり替へて返す。
それはまだいいとして、属官が旅費を貰って出張して、古墳を堂々と発掘して、その地方の豪家に命令して泊まって、そして貴重品は県令様のポケットに納まるといふのですからね。
それで居て旧幕時代の奉行代官から見ると善政を施してゐるといふのですよ。
奉行代官から見るとそれでもまだズッと清廉潔白なんです、まるでレベルが違ひますからね。
芥川:さうですかね嫌になっちゃふね。
尾佐竹:まだいろんな事がありますね。けれども余り言ふといけないから。」
税所篤が収奪した内山永久寺の名品
『文化財の社会史』に奈良県天理市にあった名刹・内山永久寺の名品が税所に奪われたことが記されている。
この寺(内山永久寺)は、石上神社の神宮寺であったが、廃仏毀釈によって僧侶がすべて復飾し、堂塔はなくなり、仏像などは散逸してしまった。役人が検分にきて、寺の仏像、仏画、仏具を庄屋の中山平八郎に、年十五両の預り料で無理やり押し付け、その後、如何とも処分勝手たるべしと言い渡した。目ぼしい物は中山に預けられたのだが、そのうち両界曼荼羅、真言八祖、小野小町、弘法大使などの絵画、彫刻類の名品が、当時堺県知事であった税所篤の手に渡った。現在藤田美術館にある旧永久寺宝物の一部は、この税所篤を通して、藤田伝三郎のものになった。永久寺の廃寺とともに権勢家であった税所篤が、寺宝を収奪したのであった。後に九鬼隆一らが1888年(明治二十一年)に行った宝物調査の際、税所は、信貴釈迦像、雪舟の維摩、夏珪の山水、李迪(りてき)の牧童、住吉慶恩作と伝える地蔵堂縁起、兆殿司(ちょうでんす)の観音、又平の人物、顔輝(がんき)の予譲、兆殿司の日本武尊、詫麿栄賀の不動、周文の観音、恵心僧都の二五菩薩、狩野元信の三仙、土佐光信の狐草紙など、他の寺院や収蔵家たちを寄せ付けないほど、多数の絵画の名品を所蔵していた。
(『文化財の社会史』p.34)
九鬼隆一らが明治二十一年(1888年)に宝物流出を防ぐ目的で実施した宝物調査は全国規模で行われ、都道府県別に寺社所蔵品や個人コレクションの目録が作成されている。その記録のなかで、奈良県の個人コレクターのリストが同上書のp.293に紹介されていて、ランキングの第一位が税所篤である。
税所篤が発掘したとの噂のある古墳
税所篤が収奪したのは奈良の文化財だけではなかった。彼は考古遺物についても収集癖があり、堺県令時代に松丘山古墳(大阪府柏原市)、長持山古墳(大阪府藤井寺市)、美努岡萬墓(奈良県生駒市)、仁徳天皇陵(大阪府堺市)を発掘して考古遺物を強引に手に入れたとの疑惑があることが『埃まみれの書棚から』に出ている。
最後の仁徳天皇陵は誰でも知っている我が国最大の前方後円墳で、最近の教科書では、被葬者が特定されていないため、『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』などと呼ばれているようだ。ややこしいので、とりあえず、ここでは『仁徳天皇陵』と呼ぶことにするが、税所篤はこの『仁徳天皇陵』の石室を発掘し、その副葬品を持ち出したという疑惑がある。ボストン美術館に仁徳天皇陵から出土した「獣帯鏡、環頭太刀の把頭、馬鐸、三環鈴」が収蔵されているのだが、この副葬品が発掘された経緯については、最近の研究では税所篤が意図的に発掘し盗掘したという説が現在では有力説なのだそうだ。
税所篤と大久保利通
税所篤は大久保利通と子供の頃から仲が良かったらしく、Wikipediaで「大久保利通」の項目を読むと、何度か税所の名前が出てくる。ちょっと気になるのが、大久保利通が明治八年(1875年)から一年かけて麹町三年町に建てた白い木造洋館を建てた建築費用は「恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる」と書かれているところだ。
税所が大久保に貸した金額については判らないが、洋館の建築資金ともなれば小さい金額ではなかっただろう。税所がこの金をどうやって捻出したかが問題なのだが、普通に考えれば、県令である税所の給与が大久保よりも多いことは考えにくい。恐らくは県令の力で奪った文化財を売却して蓄財した金を大久保に融通したのであろう。
この税所篤が明治十四年(1881年)まで堺県の県令を勤め、明治二十年(1887年)に奈良県が再設置された時に再び奈良県の知事となり、同じ年に維新の功を認められて子爵になっており、彼の疑惑について追及されることはなかったようである。
廃仏毀釈についての通説
一般的な高校教科書である『もういちど読む山川日本史』では廃仏毀釈について、「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた(p.231)」と、神仏分離令が出されたことで自然発生的な運動が全国に広がったような書き方がされ、明治政府が関与しなかったような叙述になっているのだが、国家権力の関与なくして、短い期間でこれだけ多くの寺院が廃寺になり、多くの仏教文化財が失われることはありえないだろう。
いつの時代もどこの国でも、「為政者にとって都合の良い歴史」が編集されて公教育やマスコミで広められ、「為政者にとって都合の悪い史実」が伏せられて人々の記憶から消えていく。我々日本人は、幕末から明治の歴史について、いつの間にか「薩長にとって都合の良い」「キレイ事の歴史」に洗脳されてしまってはいないだろうか。明治維新から百五十年以上経ったのだから、もっと多くの史実を掘り起こして、その功罪について公平な視点で議論されるべきだと思う。
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コメント
しばやんさん、こんにちは。いつも楽しくブログを拝見しています。
大紀元の『第六章:神に対する反逆』に、面白い記述があります。
https://www.epochtimes.jp/p/2019/08/36830.html
<ソ連の状況>
・1919年、レーニンは旧思想を制限するという名目で、大規模な宗教弾圧を開始した。1922年、彼は財産の没収、特に富裕な大寺院から財宝を「どんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で」没収する決議を秘密裏に可決した。
・ソビエト政権になるまで4万400あったロシア正教会は、1939年までに100あまりに減ってしまった。ソビエト全体の98%にのぼる正教会の寺院が閉鎖された。カトリック教会も同様に根絶された。
<中国の状況>
・1951年、中国共産党は宗教的集会の参加者は死刑あるいは終身刑に処すと宣言した。多くの仏教徒が寺院を追われ、還俗させられた後、強制労働所に送られた。カトリックやその他の西洋宗教の信者たちは投獄され、拷問された。中国人の宣教師たちも処刑され、あるいは強制労働所に送られた。他のキリスト教徒も同様に迫害された。
・仏教の経文と舎利塔を水に投げ込み、あるいは地面に打ちつけて破壊したり、溶かしたりした。彼らは野蛮かつ早急なやり方で、寺院や仏教の広間、マニ(チベット仏教の仏具)の壁や舎利塔を冷酷に破壊し、数多くの装飾品や貴重品を仏像や舎利塔から盗みだした。政府の購買部は、非鉄金属の購入に際して明確な規定を提示しておらず、そのため仏像、舎利塔、供物容器の破壊に拍車がかかった。
ソ連では、教会が破壊されましたが、ユダヤ教のシナゴーグは多くが破壊を免れたと言います。最後の中国共産党がチベット仏教に対して行った宗教弾圧は、今回の記事とかなり類似しています。廃仏毀釈は、明治政府の政策というより背後のDS、つまり共産主義者(旧約聖書の民)が行ったと思います。
シドニー学院さん、いい情報をいただきありがとうございます。
「大紀元」は米大統領選のニュースや中国情報収集で時々読ませていただいていますが、歴史的事実についても結構面白い記事があるのですね。
共産主義もカルト宗教のようなところがありますので、一党独裁国家になると既存の宗教が否定され、その宗教施設と文化財が破壊される可能性は感じていましたが、ソ連や中国における文化財破壊はたしかに明治の廃仏毀釈に似ていますね。薩摩藩ではすべての寺院が破壊されましたが、それが外国からの教唆によるものなのかどうかは、まったく記録が残っていないのでそれを断定することは難しいところです。戦国時代のキリシタン大名の所領で宣教師の教唆により徹底的に寺院が破壊されたことは、ルイス・フロイスの記録などで確認できるのですが、明治の廃仏毀釈についてはそのような記録がないので仮説の域を出ません。天皇中心の国家神道も一種の「一神教」的なところがあり、他宗教に対して否定的な考えになります。いつの時代もどこの国でも「一神教」が純粋化することによって、異教の文化を否定して破壊に及ぶことがよくあるので、明治時代の廃仏毀釈が国内要因であった可能性が高いのではないかと、今のところは考えています。
こんばんは☆
「県令に無住寺等の財物の処分が任されていた」を拝読いたしました。
新政府の任命した県令(知事)によって全国で開明的な施策が行われるはずなのに、古い物を破壊したり売却されたのはとても残念なことですね。
また、一部の県だけと思いますが、県令自らが財物を私物化しことにはあきれます。
Ounaさん、コメントありがとうございます。
新政府が最初に実行した政策が神仏分離だったわけですが、各地で多くのトラブルを起こしたようです。焼かれた文化財も多いのですが、二束三文で売られて外国人が喜んで大量に購入するのを見て、一儲けを考えた県令は他にいてもおかしくないのですが、そのような情報は封印されたのでしょうね。文芸春秋の昭和二年の記事を紹介しましたが、そんな時期でも税所篤の名前を伏せられていたのですから、明治時代の高官の悪事は大っぴらに言えない空気があったのではないでしょうか。