但馬妙見山の妙見信仰
昨年の秋にこのブログで大阪府にある能勢妙見山のことを書いたが、この能勢妙見山は、福島県相馬市の相馬中村神社、熊本県八代市の八代神社とともに日本三大妙見の一つに数えられている。しかしながら、かつては兵庫県八鹿にある但馬妙見山が日本三大妙見の一つであったのだが、なぜ能勢妙見山と入れ替わることになったのか。その理由は明治初期の神仏分離令が大きく関係しているのだが、本題に入る前に「妙見信仰」とはどのような信仰なのかについて簡単にまとめておこう。
Wikipediaによると「妙見信仰」は、「インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもの」とある。「仏教の天部」は天界の住民の総称で、神や眷属を指している。
中国の南北朝時代(西暦439~589年)には「妙見」を説く経典が存在していて、唐の時代になると妙見信仰が発展し妙見関連の経典や行法が流布し、この「妙見信仰」が高句麗や百済出身の渡来人によって日本にもたらされたのが六、七世紀(飛鳥時代)頃と考えられているのだが、重要なことは「妙見信仰」ははじめから仏教として日本に伝えられ、わが国の神仏習合の観念から再構成されたもののとは異なるという点である。
その後妙見信仰は開運厄除けの仏様として全国に広がっていき、特に鎌倉時代以降は武門将士の間で信仰が盛んとなっていったという。
では但馬にいつごろ妙見信仰が伝わり、日本三大妙見といわれるまでになったのはいつの時代なのか。
日光院のホームページには、次のように解説されている。
当院は飛鳥時代敏達天皇(572年)のころ、日光慶重の御開創に始まります。第二世慶覚、第三世覚重を経て、第四世重明の時代に本尊妙見堂及び、本地仏薬師瑠璃光如来を本尊とする薬師堂が、この地(石原)に建立されました。
日光院ホームページ 但馬妙見 日光院縁起
我が国において妙見大菩薩の霊場は数多くありますが、当山こと但馬国の石原妙見(略して但馬妙見)は霊符縁起によりますと、下総国の相馬妙見、肥後国の八代妙見と共に日本三妙見の一つとされています。中国近畿地方一帯の妙見尊を奉祭する寺社の総本家として多くの人々の信仰を集めていました。 このころ当院は盛隆を極め、塔中に成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊の十カ寺を有し、別に求聞持堂、護摩堂、仁王門など全備し、また、西方五十丁山上に、奥の院(現在の名草神社の地)を有し、石原全山にわたる構想実に雄大な山陰随一の一大霊場でありました。
但馬妙見日光院の歴史
戦国時代に入って二度の兵火により多くの堂宇を失ってしまい妙見尊の本殿と薬師堂だけが残されたのだが、寛永九年(1632年)に快遍は帝釈寺の本拠である日光院を奥の院に移して復興させ、石原村の旧域には成就院のみを再建したという。
その後江戸幕末まで特筆すべきこととして出雲大社から三重塔を譲り受けたことがあるが、その点については後述することとする。明治維新直後に新政府より神仏分離を余儀なくされ、その結果かつて成就院のあった場所が日光院となり、かつて日光院のあった妙見山中腹の堂宇は名草神社となり、出雲大社から譲り受けた三重塔は名草神社の社殿として残された。
日光院(養父市八鹿町石原450)の境内の案内板に但馬妙見の三重塔と神仏分離に関する重要なことが簡潔に書かれているので紹介したい。
天正年間、羽柴秀長の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永九年には、ここから西方五十丁の妙見中腹に移転復興し、三代将軍家光公より三〇石の御朱印地を賜りました。また、寛文五年には出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。そして妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄をきわめました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治九年七月八日、遂に『寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ』という布達にて、再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っています。
つまり、寛永九年*から明治九年*まで(二四五年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。
そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。…
日光院境内にある案内板
*寛永九年=西暦1632年、明治九年=西暦1876年
このように、今の名草神社の建物はもともとはすべて日光院が所有していたものであるのだが、明治九年の布達で名草神社の所有とされたこと、および今の日光院はそれまで同院の末寺であった成就院に移したものであることが書かれている。
隠れた紅葉名所 但馬妙見日光院
上の画像が日光院の山門。大きな銀杏の木は樹齢六百年といわれている。
この寺には戦国時代に山名宗全が戦勝祈願をした古文書が残されており、県指定文化財となっている。山門の向かいには「但馬妙見日光院 妙見山資料宝物館」があり、妙見三重塔にかかわる古文書などが多数収蔵されているそうだが、残念ながら施錠されていたため入れなかった。
階段を上り境内に足を踏み入れると、ケヤキや銀杏の巨木が伸びて樹木の霊気を感じさせるような空間が広がる。
上の画像が日光院の護摩堂(拝殿)だが、ここで妙見大菩薩の法灯が今も守られている。
正面の扁額には「妙見大菩薩」と書かれており、左の扁額には「妙見宮」と書かれている。
「宮」というと神社のようなイメージがあるが、かつては「妙見大菩薩」を本尊としていた霊場はすべて「妙見宮」と呼ばれていたそうだ。
護摩堂の後方には本殿があり、かつて妙見山中腹にあった妙見大菩薩は明治期にここに遷座された。本殿向背には龍の彫刻があり、丹波紅葉めぐりで紹介させていただいた中井権次正貞が彫ったものである。
お寺でありながら境内の中に鳥居があり、神仏習合を感じさせる独特な雰囲気がある。この寺の紅葉も素晴らしいので、多くの方に拝観をお勧めしたいのだが、観光客は私の前に一組あっただけだった。
出雲大社が日光院に三重塔を譲った経緯
日光院から名草神社に向かう。距離は7.6㌔程度だが細い山道を走らなければならないので二十分近くかかる。
上の画像が名草神社の三重塔(国指定重要文化財)で、この塔は日光院の案内板に書かれていた通り、妙見杉を寄進したお礼として、出雲大社が三重塔を日光院に譲り渡したものだが、そもそもなぜ出雲大社に三重塔が存在していたのだろうか。
次のURLに江戸時代寛永期の出雲大社の境内図が紹介されている。この図にははっきりと三重塔や鐘楼などが描かれていて、昔は出雲大社も神仏混淆であったことがわかる。
出雲大社から仏教的色彩が払拭されたのは寛文御造営の時で、第六十八代国造尊光がその決断を下したという。
出雲大社が御造営のための木材の入手に難渋していたところ、寛文三年(1663)十二月に但馬妙見山に適材が多数あることがわかって、日光院に対して用材を譲渡して欲しいとの申し入れを行った。翌年、日光院は出雲大社を訪れ、日光院には塔を建立する計画があるので、出雲大社に譲渡する材木代金は塔の建築費用に充当する考えであるが、もし出雲大社の三重塔を破却する予定であるならば日光院が譲り受けたい。それがかなうならば材木は出雲大社に進上するとの考えを述べる。その後、出雲大社が塔を譲渡する決定を下して、当時の日光院隠居(快遍)が大変喜んだというのだが、そのような経緯は出雲大社に残されている『寛文御造営日記』に詳細が記録されており、次のURLにその原文と現代語訳が掲載されている。これを読めば出雲大社は日光院を但馬妙見と認識し、日光院に大社の三重塔を譲ったことは誰でもわかる。
但馬妙見の神仏分離
時代は進んで明治維新の直後に神仏分離令が出されたのだが、当初は妙見大菩薩を神と仏とを明確に区別することが難しく、但馬妙見の神仏分離はなかなか進まなかった。
しかしながら、政府は明治五年(1872年)の「社寺有山林原野上地命令」で日光院の寺有地であった妙見山全てを没収し、明治六年(1873年)二月に「妙見宮」を「名草神社」に改称させて妙見信仰とは無縁の「名草彦命」を祀らせ、明治九年七月には、豊岡県が「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを明け渡す」との布達が日光院に出されている。
但馬妙見信仰の存続の危機に諸国の信者たち数百人が集まり、仏像や経典などの寺宝を末寺の成就院(今の日光院のある場所)に運び込み、それまで日光院のあった場所には鐘楼以外の建物のみを残し、末寺と合流することでなんとか妙見信仰は守られたのである。
その後日光院は明治政府を相手とする行政訴訟をおこし、明治三十九年にようやく勝訴して但馬妙見山の山林全てを取り戻したという。
日光院のホームページにはこのような経緯が詳しく記されている。
このような経緯から、かつて日光院のあった場所は名草神社となり、三重塔がそのまま神社の建物として残されたのだが、本来ならばこの塔は明治時代の神仏分離の際に現在の日光院の境内に移すべきであったと私も思う。
この三重塔の近くに八鹿町教育委員会が建てた案内板がある。そこにはこう書かれている。
この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久(あまこつねひさ)が願主となって大永七年(一五二七)六月十五日に建立したものと伝えます。
出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文五年(一六五五)九月に標高八百メートルのこの地に移築されました。…
八鹿町教育委員会が建てた案内板
と、塔を主語にした曖昧な書き方で、肝心の日光院のことがどこにも書かれていない。この説明であれば、名草神社が妙見杉を提供した縁で出雲大社から名草神社にこの塔が移築されたとしか読めないだろうし、なぜ神社の境内の中に塔が存在するのかということも、誰も分らないであろう。
階段を上っていくと拝殿(国指定重要文化財)が見えてくる。
拝殿を抜けると名草神社の本殿(国指定重要文化財)がある。平成二十四年(2012年)に訪れた時には屋根が破損していたのだが、令和四年(2022年)十月に修復されたようだ。
近くに拝殿と本殿についての養父市教育委員会の案内板があった。
古くは妙見社と称し、近世には但馬地方を中心に庶民の崇敬を集めた。…
養父市教育委員会の案内板
名草神社の社殿は、近世但馬地方における妙見信仰の繁栄を背景に造営された。
などと、ここでも建物を主語にして肝心なことを誤魔化しているのだが、もともとは日光院の建物であったことを一言も書かなくては、ここへ来た観光客はこの建物は初めから名草神社の拝殿・本殿として建てられたものとしか思わないだろう。そもそも名草神社の祭神の「名草彦命」は妙見信仰とは何の関係もないものだ。
上の画像は名草神社の社務所(養父市指定文化財)。以前訪れた時は神社の方が一人おられたのだが、今回は無人であった。
養父市にある国指定重要文化財のすべてがこの名草神社にあるのだが、観光客は私のほかに一組いただけだ。歴史的建造物のある空間を独占できることは個人的には嬉しい事なのだが、なぜ国指定重要文化財の建物が三つもあるのにもかかわらず、観光客が少ないのだろうか。
都心から遠いとか、道が狭いとかいろいろ理由があるだろうが、古い歴史があり価値のある観光資源を持ちながら観光客が集まらないのは、長い間真実の歴史を隠す側にまわってきた養父市や八鹿町に問題があるのではないだろうか。
いつの時代も「権力者側にとって都合の悪い史実」は歴史叙述から排除される傾向にあるものだが、「廃仏毀釈」に関しては明治から昭和の初期頃までは「権力者側にとって都合の悪い史実」であったとしても、少なくとも今のわが国の権力者にとっては決して都合の悪い史実ではない。むしろ、「隠された興味深い真実」であり、江戸時代から明治時代を考える上で興味を覚える人は少なからずいると思うのだ。
単に重要文化財の歴史的建造物を見るだけなら、こんな遠くまでわざわざ足を運ばなくとも京都や奈良にいくらでもある。それでも私がここを訪れようと思ったのは、その真実の歴史に触れて強く興味を覚え、このドラマのような出来事のあった現場に立って、古き時代に思いを寄せてみたいという衝動が湧いたからである。
名草神社も兵庫県も八鹿町も、そろそろ明治期の権力者にとっての「きれいごとの歴史」から脱して、出雲大社との関係や廃仏毀釈に関わる興味深い歴史の真実を語る立場から、日光院とともに観光客の誘致に取り組んでみてはどうだろうか。
名草神社も日光院も、何も知らずに訪れてはそれほど面白いところではない。しかし、歴史の真実を知れば知るほどどちらも訪ねてみたくなり楽しい旅行ができる、そんな場所である。
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