山岳信仰の聖地・吉野山と金峯山寺
奈良県南部の「吉野山」は、一つの峰の名ではなく山地の広域地名で、役小角(えんのおづぬ:山岳修行者、修験道の開祖)が開創したと伝えられる金峯山寺(きんぷせんじ)のほか、吉水神社、如意輪寺、竹林院など多くの社寺が存在する、古くからの山岳信仰の聖地である。
近世までは金峯山寺蔵王堂を「山下 (さんげ)の蔵王堂」と呼んで、その一帯を「山下」と呼び、吉野山の南方の山上ヶ岳の山頂近くの大峯山寺を「山上の蔵王堂」と呼んで、二つの蔵王堂は不可分のものであったという。中世には山下に百数十、山上に三十六の寺が存在し、「金峯山寺」は山上・山下の二つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であったのだが、明治時代のはじめに金峯山寺と大峯山寺が分離され、現在に至っている。
上の図は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」で、絵図の中央にある大きな建物が金峯山寺蔵王堂である。この近くに鳥居が描かれているが、これが有名な「銅(かね)の鳥居」で、銅製の鳥居では日本最古のもので国の重要文化財に指定されている。
この鳥居の扁額には「発心門」と書かれていて、修験者はこの鳥居に手を触れて巡り「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との讃仏歌を三度唱えて入山するのだという。
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり中心的な信仰対象となっているのは蔵王権現だが、金峯山寺のホームページでは「今から1300有余年前、金峯山山上ヶ岳に役行者が一千日の修行に入り、感得された権現仏であります。権現とは権(仮り)に現われるという意味で、本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現されました」と解説されている。蔵王権現像は、右手を頭上に振り上げ、右足も蹴りあげて、憤怒の相をしているところに特徴があるが、このような仏像は、インドや中国には例がなく、日本独自のものだと考えられている。
金峯山寺の蔵王権現像は、中央の像が釈迦如来(7.3m)、向かって右が千手観音像菩薩(6.1m)、左の像が弥勒菩薩(高さ5.9m)を「本地」とするもので、それぞれ過去、現世、来世を象徴していると言われている。拝観すると誰でも圧倒的な迫力に感動すると思うのだが、残念ながら秘仏であるために普段は非公開である。
金峯山寺の神仏分離
明治新政府が五か条の御誓文を発表した三日後の慶応四年(=明治元年、1868年)三月十七日に、神祇事務局から神社における僧職の復飾(ふくしょく:還俗すること)の命令が発せられ、さらに三月二十八日に神号を仏号で称えることの由来書の提出と神社から仏教的要素の排除を命じている。
金峯山寺は五月に持明院・教学院のもと蔵王権現の由来と復飾の免除などの口上書を弁事務所に提出したのだが、六月に吉野全山に対し蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよとの通達が出たのである。この通達に僧侶たちは抵抗し、蔵王権現は仏体であり、僧侶が復飾するいわれがないと強く主張し続けたのだが、十月に神祇官は蔵王権現が仏体なら取り除け、山内に地主神社(金精大明神)があるので、本来神地であると主張したという。
しばらく膠着状態が続いたが、明治四年(1871年)正月に上地令が出て山地などが取り上げられ、明治五年(1872年)九月には追い打ちをかけるように修験道廃止令が発布されている。
そして六年(1873年)一月には教部省より「白鳳以前に復古致し、地主神金精明神を以て本社と定め、金ノ峯ノ神社と称うべし。尤も蔵王堂並びに仏具仏体等、悉く皆、取除き致すべき事。但し、社僧・修験は望みに任すべき事」との指令が出ている。
上の画像は、教部省が本社と定めよとする金峯神社であるが、金峯山寺蔵王堂の規模からすればあまりにも小さい神社でありしかも蔵王堂から四キロ以上も離れた場所にある。こんな指令では僧侶や信者の納得が得られるはずがない。同年六月に奈良県は教部省に対し蔵王堂は仏閣のまま、寺僧もそのままにする旨上申したのだが、教部省は蔵王堂の取り壊しは取り消したものの、他の点は譲らなかったという。
そして明治七年(1874年)についに奈良県は「金峯山内金峯奥ノ宮、口ノ宮と称すこと、仏像は信者の望みに任せ…、一山僧侶は復飾に相任せ候…」との通達を出し、蔵王堂は金峯神社の口ノ宮、山上は奥ノ宮となり、竹林院、南之坊、蓮蔵院、喜蔵院、櫻本坊、東南院、小松院、十方院、密場院、持福院、角之坊の十一院が止むを得ず復飾したのである。
奈良県も蔵王堂の破壊に抵抗した
どうやら教部省と奈良県との考え方が、根本的に異なっていたようだ。『神仏分離史料』に弁護士の播磨辰次郎氏の記録が収録されている。
ところでおかしいのは、中央政府と地方庁との間に意見の扜格(かんかく:食い違い)を生じ、押し問答数年にわたりて、決定を見ることができぬ。それは中央政府は、何でもかんでも神なりとして、神社に引き直すべしと言う極端の考えの下に、高圧的専制的に地方官庁に命令するけれども、地方庁は実際を調べてみると、神でない、仏であるというて、中々政府の命令に承服せぬ。即ち命令を実行せぬ。果ては蔵王権現の尊像の絵図を持ち出し、地方庁の官吏が態々上京し、中央政府に対して、極力抗争弁論するという始末。当時の地方庁の官吏の心意気は感心である。そこで中央政府も一寸閉口し、蔵王権現が神なりや仏なりやの問題をさし措き、とにかく従来金峯山寺に属し、地主神なりとせし金精明神を独立の神社とし、金峯神社と称し、仏像仏具は早々取り除くべく、地方庁に命令した。しかし地方庁では、やはり蔵王権現は仏なり、蔵王堂は存置すべきものなりと主張して、中央政府の命令を実行せぬ。最後には、無理やりに、山下蔵王堂を金峯神社の口宮、山上蔵王堂を金峯神社の奥宮と称することにして、一応の結末をつけた。つまり蔵王堂の建物をば、無理に金峯神社の出張所同様にしたのみである。御幣を立て鏡を掛けて、祝詞をあげる等、瑣末の形式においては、無理に改めたけれど、庶民信仰礼拝の目的は、到底官権を以て左右することはできぬ。尊霊信仰の象徴物たる山上蔵王堂の龍穴や、山下蔵王堂の蔵王権現尊像すらも、事実においてこれを動かすこと出来ぬ、またこれを動かせば信仰礼拝者もなくなる。なんでも蔵王像の前に白幕を張り、その前に御幣や鏡を立てて、これを礼拝したということである。この如く、神仏分離は唯申訳に不徹底なる無理な奇怪な結果となった。
(『神仏分離史料 第三巻[復刻版]』名著出版 p.101~102)
結局金峯山寺は神社とされ僧侶は復飾することになり、山上と山下の蔵王堂の建物は残されることとなったのだが、巨大な蔵王権現像は動かせないので白幕を張って隠すこととし、代りに鏡を置いた。そして、蔵王権現を除く一山の仏像・仏具などは密蔵院に集められ諸仏堂とされたという。
藤原時代の宝鏡を奪い取った官吏
以前このブログで、奈良県の古刹の文化財を奪い取った県令・税所篤のことを書いたが、金峯山寺もまた同様な被害を受けている。被害があったのは明治七年(1874年)のことだから、群馬県出身の藤井千尋が県令であった時代である。事件は本尊の検査に入った官吏によって行われた。『神仏分離史料』にはこう記されている。
驚くべく悪(にく)むべきは、…本尊検査の際、不法横暴なる官員が、金峯山本堂内陣の内殿に安置せる宝鏡を横領せしこと是なり。即ち明治七年(1874年)八月五日より、同月十五日に渡りて、奈良県社寺方稲生眞履が外一名を伴い、出張検分したのであるが、その六日に山上登山、七日雨中午後より内陣検分、一和尚竹林院龍敬、二和尚蓮蔵院洞盛案内、戸長副戸長等は入るを禁じ、内陣内さらに白木造りの内殿を開き、奉安の宝鏡三面を、これ預かるとて、官権を以て携え帰りたり。而してその後これを返還せずそのうち一面は転じて今は美術学校の所蔵に帰し、他の一面は骨董商の手を経て、大阪の紳商玉手弘通の所蔵に帰し、他の一面は今なお稲生眞履の許に所持し、その庭園に小さなる石の祠を立て、其の内に安置し居れり。宝鏡は藤原氏時代の古鏡にして、裏面に蔵王権現の尊像を毛彫りにしてある。美術品骨董物としても、好古家の垂涎し措かざる処…
(同上書 p.103)
Wikipediaに稲生眞履(いのう まふみ)という人物が出ていて、三河出身の宮内省官僚で、「東京帝室博物館の学芸員となり、特に刀剣を始めとする古美術に精通した」とあり、多分この人物が宝鏡を奪い取った犯人なのだろう。こういう泥棒のような行為は許せないのだが、Wikipediaやコトバンクに名前が出ていることからしてこの事件で重い処分がなされたわけではなさそうだし、この宝鏡が元に戻されたかどうについてもよくわからない。
寺院に戻った蔵王堂
話を元に戻そう。明治七年(1874年-へよ)には吉野一山は金峯山寺の地主神金精明神を金峯神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることが定められた。住職が復飾し神社となった寺では、仏像・仏具、石仏、石塔、梵鐘などを取り除く費用捻出のために、堂宇や仏具などの売却が行われ、連日のように仏像仏具などが焼却されたという。
しかしながら、どこにでもあるような小さな金峯神社を吉野全山の本社にせよと言われても、偉容を誇る蔵王堂とは比べものにならない。しかも、口宮や奥宮には蔵王権現が祀られていないことになっている。吉野山の参詣者は激減し、参詣に来る人は鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、奥宮では行者堂に参詣したというのだが、これでは吉野山の経済が成り立たず、このままでは衰えていくしかない。
吉野一山の嘆願もあり、また政府の宗教政策の緩和もあり、明治十二年(1879年)に東南院が、十三年(1880年)に竹林院、桜本坊が天台宗寺院に復帰している。この時に諸仏堂に置かれていた仏像が戻されたという。そして十八年(1885年)には、総代五名、桜本坊、竹林院、東南院、善福寺、如意輪寺、長泉寺などが連署し蔵王堂復旧の嘆願を行い、十九年(1886年)に大阪府知事から蔵王堂の復旧が許可され、二十二年(1889年)に金峯山寺の称号に復帰したのである。
一方内務省は同年六月に、吉野山に後醍醐天皇を祭神とする官幣中社吉野宮を創建することを告示し、二十五年(1892年)社殿竣工して、吉水院から後醍醐天皇像を遷座している。三十四年に官幣大社に昇格し、大正七年(1918年)には吉野神宮に改称されている。政府は後醍醐天皇の故地である吉野には立派な神社がどうしても欲しかったのだろう。
同じ時期に神社にさせられた修験の寺院は、山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などがあるが、いずれも二度と寺院に戻ることはなかった。吉野の二つの蔵王堂は寺院に復した珍しい事例である。
寺院に復することができたのは、金峯山という場所が七世紀に役小角が修行中に蔵王権現が現れた由緒ある地であるとの修験者や信者の思いが強かったとか、門前町である吉野町民の運動の成果とも言われているが、修験者・信者・町民のすべての努力が咬みあった結果なのだろうと思う。
この時期に廃寺となったり神社になったり荒廃した寺院の多くは、そのいくつかが欠けていたのではないだろうか。以前書いた内山永久寺にしても、談山神社となった妙楽寺にしても、興福寺にしても、僧侶は政府から言われるがままに全員還俗して神官となったが、法隆寺や東大寺や金峯山寺は僧侶が容易に信仰を捨てずにいたからこそ、多くの貴重な文化財を今日に残すことができたのではないか。
いかなる時代も、まず当事者が理不尽なことには闘う姿勢がなければ、信者や民衆の支持も得られず、守るべきものが守れないのだと思う。
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