法隆寺が荒廃した明治初期
聖徳太子ゆかりの法隆寺は、鎮守社をいくつか持っていたが、そのうちの龍田明神(現在の龍田神社)、天満宮(現在の斑鳩神社)は法隆寺の境内から離れているので、明治元年に神仏分離令が出されてもあまり問題にされず、境内に存在した総社明神、五所明神、白山権現は天満宮に遷祀されることで神仏分離の問題を乗り切り、大きな破壊行為はなかったようだ。
しかしながら、新政府が『五箇条の御誓文』を発表し、祭政一致の方針に基づき、相次いで神仏分離にかかわる命令が出されたことによる寺僧たちの動揺は大きかった。法隆寺が一番苦しい時期を経験した千早定朝は、明治維新の際に自らが体験した激動時代を次のように述べたという。
安政(1855~60年)・万延年中(1860~61年)の頃、破仏家・平田篤胤の国学大いに流行す。わが本寺若輩の僧等もこれを学ぶ。
彼の破仏の説を深く信じ、仏法はあさましきものと思い誤り、甚だしきに至りては我ら坊主になりしは自分の本心より出しにあらず。父母師匠に誘われ父母の進めにより坊主になりしなり。
今想えば、国家の罪人、今父母の誤りを速やかに帰俗してこれを謝罪せんと、ついに退寺離散す。また朝野にも廃寺廃仏の論に立てり。
(高田良信『「法隆寺日記」をひらく』NHKブックス 昭和61年刊 p.25~26)
平田篤胤が唱えた国学は当時の士族を中心に多くの人に読まれていたのだが、寺僧たちもそれを読んで大いに惑わされていたのである。平田派は、仏教は無用の長物であり、僧侶は天下の遊民であるとし、宗教は神道を以て足るのであり、国家のために仏教は除くべきであると主張していたのである。
青年期に明治維新の混乱期を体験した仏教史学者の村上専精(せんしょう)は、『神仏分離史料』の序辞でこのように記している。
回顧するに、吾輩が少年時代よりして青年期に移る頃の書生論は、実に気炎万丈であった。自ら天下を併呑するの概あったと言ってよい。而してその論ずるところを聞くに、廃仏論にあらざれば討幕論であった。討幕論にあらざれば攘夷論であった。唯ひとり青年の者ばかりこれを論じたのでない。中年の人もこれを論じた。老年の人もこれを議した。三人五人相会することあれば、席上の座談は必ずこの三問題の中の一を選んで、口角沫を飛ばすと言わんが如き状況であった。顧えば真に壮快なことであった。…
然り而して明治の新政は実にこれ等の人によって成ったのだ。
(『神仏分離史料 第一巻(復刻版)』名著出版 昭和45年刊 p.22)
丹波国の寺院に生まれ育った村上専精ですら、青年であった幕末の頃は各世代で廃仏論を議論していたというのであるから、法隆寺の僧侶たちも同様な状況にあったと考えて良いだろう。そして幕府が倒れ、そのあとで誕生した明治新政府の宗教政策を司る神祇事務局が発足すると、その主要メンバーは、平田派を中心とする廃仏家の国学者、儒者であったのである。そして、新政府が最初に実行した政策が神仏分離であったことに仏教界は大混乱を来した。
法隆寺の寺録は秀吉の検地以来千石で、奈良の寺院の中では二万五千石の興福寺、三千二百石の東大寺に次ぐ数字であったのだが、この寺録は毎年法隆寺を維持運営することはできても、伽藍の修理費を捻出する余裕のある額ではなかったという。ところが法隆寺の伽藍は元禄期に大修理がなされてから百五十年を経過しており、相当傷んでいたのである。
しかしながら新政府は、明治四年の正月に全国の社寺の領地を返上することを命じたため法隆寺は寺領からの収入を失ってしまう。さらに明治七年に政府は全国の寺の寺禄を逓減し十年間で全廃することを通知し、法隆寺の場合は一年目が四分の一の二百五十石、二年目がその半分の百二十五石と年々減らされることとなり、困窮の道を歩むこととなるのである。
岩波新書の『博物館の誕生』に、当時の法隆寺の荒廃の状況が次のように記されている。
戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。
(関秀夫著『博物館の誕生』岩波新書 75p)
…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。
(同上書 81p)
このような難局にあたり、聖徳太子以来の法統を護らねばならぬとの固い決意で、法隆寺の改革を唱えたのが、中院の住持・千早定朝であった。
千早定朝による法隆寺の改革
明治五年(1872年)に千早定朝は、一山の推挙によって法隆寺の一﨟職(住職)となるのだが、就任早々、太政官布告により大宗派への所轄を促されている。そもそも法隆寺は一定の宗派を名乗らず、聖徳太子の三経義疏と大師の伝記を研鑽することを使命とする多宗兼学の寺であった。法隆寺としては聖徳太子以来の伝統を守るため、独立本山として認可されることを再三政府に願い出たが却下されたという。やむをえず定朝は一山協議にはかり、あくまで一時的処置として真言宗管長と密約を結んだうえで、法隆寺は真言宗に所轄を依頼することとなった。
この所轄を依頼してからは、真言宗からは一刻も早く離脱して、独立を計り、寺の再興を願う日々を送ることとなった。
その一方では、復興基金の確立を計るべく節約に努め、寺僧たちは従来の塔中寺院での生活をすてて、明治八年(1875年)より同十四年(1881年)に至る七年間、薬師坊という建物に合居している。これは、諸経費の節約はむろんのこと、一山の結束を強めるためでもあった。…中略…
この合居中、寺僧たちは、千早管主を中心として、寺の復興と、いかに真言宗からの独立を計るべきかを真剣に模索していた。
(『「法隆寺日記」をひらく』p.25~26)
法隆寺献納宝物
当時は寺を維持するために貴重な宝物を売りに出す事例が少なくなく、法隆寺においても例外ではなかったという。しかしながら、法隆寺には千三百年来守り伝えられてきた皇室にゆかりのある重要な宝物が少なからずあり、それらは散逸させずに後世に伝えられることを願っていた。千早定朝がリーダーシップをとり一山協議を重ねた末、法隆寺は、いくらかの下賜金があることを期待して、明治九年(1876年)にこれ等の宝物類を皇室に献納することを願い出ることにしたのである。
その後、政府において評議が重ねられ、明治十年に内務省が法隆寺の古器物の調査を行い、その結果、明治十一年(1878年)に献納の儀が決定し、その酬金として一万円が下賜されることとなった。
これらの献納宝物のほとんどは聖徳太子の御遺物と伝えるものをはじめ、法隆寺にとって生命とでもいうべき貴重な品々であった。
それを献納しようというのであるから、まさに法隆寺にとって前代未聞の大事件であった。それをあえて決断した僧侶たちのいうにいわれぬ心情が目に浮かぶ心地さえする。もし、その決断をしえなかったならば、今日の法隆寺は存在しなかったのではないかと身の毛のよだつ思いがする。
なぜならば法隆寺も他の寺々と同じように徐々に宝物類が売却され、法隆寺に一大危機が訪れていたと思うからである。その結果、献納宝物以外のものまで売り払われ、今日の法隆寺の姿が消滅していたことだろう。
しかし、幸い当時の僧侶の英断によって、法隆寺献納宝物という名のもとに最も確かな譲り主である皇室へ献納し、由緒ある宝物が散佚することなく、そのままの姿で今なお保存されていることに対して、まさにこれは当時の寺僧の一大功績として讃美の言葉を送らざるを得ない。世に多くの人々は「法隆寺が貧しかったために宝物を皇室に献納した」ということのみに終始して、その時の事情や、もし献納が行われなかった場合に生じる結果を考えようとはしてくれない。
(同上書 p.41~42)
この時に皇室に献納した宝物は三百点を超えるもので、Wikipediaに詳しく解説されている。かつては皇室の所有で「法隆寺献納御物」と呼ばれていたが、戦後の昭和二十四年(1949年)に一部を除いて国有とされ、以降「法隆寺献納宝物」と呼ばれている。大部分が飛鳥・奈良時代の作品で、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。
ただし「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。「聖徳太子及び二王子像」は聖徳太子を描いた最古の肖像画で、昭和五年(1930年)から昭和五十九年(1984年)までの高額紙幣に使われた聖徳太子の肖像画はこの絵をモデルにしていたと言われている。
上の画像は平安時代に描かれた聖徳太子絵伝(国宝)の一部である。法隆寺は大型の仏像や堂塔に付属する移動困難なもの以外の宝物のほとんどをこの時に献納したといわれているが、随分思い切ったものである。
では献納によって下賜された一万円はどのように使ったのであろうか。
記録によると、一万円の内、八千円で公債を購入し、それを県庁に保管を依頼し、その年利六百円と若干の雑収入をもって法隆寺の維持料に充てたのであった。賜金の残り二千円は伽藍諸堂の修理費に使われた。
この公債を法隆寺永続の資本金とするため、懸命に諸経費の節約に努め、年々新たに公債を購入することとなる。…
このようにして、献納によって得た賜金が明治十一年(1878年)以降の法隆寺の資本金となり、法隆寺再興へと大きく一歩前進することとなった。
(同上書 p.42)
千早定朝のリーダーシップにより法隆寺の復興は軌道に乗り、明治十五年(1882年)には真言宗の同意を得て、再興するすることが決定した興福寺とともに「法相宗」として独立を果たしている。
寺僧の困窮
しかしながら、明治七年(1874年)に寺録全廃が通知されて以降、寺僧への配分もなくなり、金銭に困窮する寺僧がではじめ、私有物だけでなく塔頭に伝わる仏像や仏画、仏具等を処分して糊口をしのぐ者が少なくなかったという。
また、法隆寺伝来と称するものが巷間に出回り、その宝物が法隆寺伝来品であるとする証明書を寺僧が作成するといった事件もあったという。明治二十一年(1888年)に役所から報告を求められて、寺僧一同が捺印した連判状が前掲書に紹介されている。
近来我国美術品追々貴重ナルヨリ随テ仏像仏画等ヲ提携シ巨利ヲ得ントスルモノモ在 之中ニハ法隆寺所蔵ニテアリシ仏像或ハ仏画ナリト唱ヘ塔中僧侶ノ証明書ヲ携帯スル者モ在之趣相聞ヘ以テノ外之事ニ候 …万一右様之儀発顕仕候節ハ如何躰之御処分ニ相成リ候決テ違輩仕間敷候…
(同上書 p.45~46)
このような連判状を提出しているということは、同様なことが頻繁に起きていたということを示している。法隆寺でこういうことが起こるのであれば、他の寺も推して知るべしである。
また法隆寺の仏像などの盗難もよくあったようである。明治十四年(1881年)には金堂の金銅観音像と百万塔が盗まれ、十八年(1885年)には金堂、西円堂の仏画などが盗まれ、二十一年(1888年)には金堂の玉虫厨子内准胝観音木像等、明治二十五年(1892年)には地蔵堂の観音像、明治三十六年(1903年)には綱封蔵の金堂観音像三体、明治三十八年(1905年)には金堂の橘夫人厨子屏風付属の七仏のうちの二体、明治四十四年(1911年)には綱封蔵南蔵の釈迦誕生仏、釈迦如来像などが盗まれている。犯人が寺僧とは限らないのだが、法隆寺の仏像は高く売れることがわかったうえでの犯行なのだろう。
平成元年(1989年)にパリのギメ東洋美術館の収蔵庫から、法隆寺金堂の西の間に安置されている金銅・阿弥陀三尊像の右脇侍であったはずの、勢至菩薩像が発見されている。
ギメ東洋美術館はフランスの実業家であるエミール・ギメが収集した古美術品を所蔵しているが、ギメは1876年(明治9年)に日本、中国、インドを旅し、日本では神仏像六百体余り、三百点以上の宗教画、和漢の文書千冊以上を収集したという。勢至菩薩像はその時に入手したものと考えられている。
法隆寺にはこの仏像が失われた記録は残されておらず、江戸時代に失われたことも考えられるのだが、法隆寺が最も荒廃していた明治初期である可能性が高いと思う。
この勢至菩薩像は平成六年(1994年)の「国宝法隆寺展」で里帰りし、法隆寺金堂の阿弥陀三尊像の右に安置された画像が「古物礼賛」のyumiさんの記事に紹介されている。
話はエミール・ギメに戻るが、wikipediaによると彼は1876年の8月26日に横浜に上陸して11月3日に神戸を出港して中国に向かったという。わずか70日間の滞在で、ギメは二千点近い仏像、仏画、文書を購入して持ち帰ったのだが、当時のわが国は、外国人が良質なものばかりを大量に購入できる環境にあったことを物語っている。新政府が明治四年(1872年)に文化財の保護のために「古器旧物保存方」を制定して四年もたっているのに、このような状態であったことを知らなければ、欧米の美術館や博物館に、国宝・重要文化財級の仏像や仏画等が大量に所蔵されていることを理解することは難しい。
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コメント
こんばんは☆
いつもありがとうございます。
「法隆寺における廃仏毀釈・神仏分離の危機」を拝読いたしました。
法隆寺は建物が破壊されることなく、ほぼ昔の姿のまま残ったのは、当時僧侶が寺を存続し守るためにはどうすればよいか、苦心した結果であることがよくわかりました。
けれど、明治も終わり近くになってからでも、たびたび盗難にあったのは残念なこと。
今、私たちが拝観できるのは、危機を乗り越えてくださったおかげで、ありがたいことです。
Ounaさん、コメントありがとうございます。
こういう苦難を乗り越えて現在があるのですが、法隆寺のホームページにはこのような歴史が全く書かれていません。このことは法隆寺に限らずほとんどの寺社が同様なのですが、苦難の時代を乗り越えてきた歴史を知れば、何百年もの間守られ続けた文化財の貴重さがより深く認識されることになると思います。