相次いだ外国人殺傷事件と五箇条の御誓文

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新政府周辺に少なくなかった外国との交際を拒絶する人々

 学生時代に明治時代を学んだときに最初に五箇条の御誓文の説明を受けたと記憶している。

幟仁親王が揮毫した御誓文の原本(Wikipediaより)

一 広く会議を興(おこ)し万機(ばんき)公論に決すべし

一 上下心を一にして盛(さかん)に経綸を行うべし

一 官武一途庶民に至る迄各(おのおの)其の志(こころざし)を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す

一 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし

一 智識を世界に求め大(おおい)に皇基を振起すべし

我国未曾有の変革を爲さんとし

朕躬(み)を以て衆に先んじ天地神明に誓い

大(おおい)にこの国是を定め万民保全の道を立てんとす

衆亦(また)此旨趣に基き協心努力せよ

 維新政府が五箇条の御誓文を発布したのは慶応四年三月十四日(1868/4/6)のことなのだが、徳川慶喜が大政奉還を奏請(1867/11/9)してから五ヶ月近くも経過している。新政府の国是は本来ならばもっと早く発布されるべきものだと思うのだが、慶応四年一月三日~六日(1868/1/27~30)の鳥羽伏見の戦いのあと一月十一日(2/4)に神戸事件、二月十五日(3/8)に堺事件、二月三十日(3/23)にパークス英公使襲撃事件と外国人襲撃事件が相次ぎ、それらの事件が解決したあとにようやく五箇条の御誓文が発布されているのだ。

 以前このブログで神戸事件が起きたのち朝廷が初めて外交方針を開国和親に改めたことを書いたが、当時の新政府周辺にはさまざまな考えを持つ者がいて、外国との交際を拒絶する者が少なくなかったことを知るべきである。五箇条の御誓文がなかなか出されなかったのは、この御誓文に「開国和親」の内容が当初の案から織り込まれており、それに抵抗した動きが少なからずあったことが主な理由ではなかったか。

東久世通禧(Wikipediaより)

 王政復古後に外国事務総督となった東久世通禧(ひがしくせ みちとみ)が、神戸事件のあとで新政府が開国和親の方針を定めたものの、天皇が各国公使を引見する儀式を行うために随分苦労したことを著書に記している。

 (二月)十三日(東久世)卿は三條(実美)卿に建議して、各国と御交際相成る上は、天皇陛下親しく各国公使に拝謁を賜わる様に致したい。彼らから申出てからお許しに相成りては不都合である。明日にもご決定の上仰せ出されたしという主意であった。

 今日を以て考えれば、各国公使謁見などは当然のことで少しも異議のある筈はない。然るに当時は決してそうではない。公卿の目にも勤王家の目にも一般士民の目にも外国人は人間と言わず異人と称し、その文字の如く人に異なった動物という考えでいた。その異人が朝廷へ参内して天子が御面会に相成ると聞いては愕(おどろ)かずには居られぬ。さすがに三條・岩倉両卿の如きは、各国普通の礼節でそうあるべきことと思うても、老人の公卿、堂上人(どうじょうにん:清涼殿への昇殿を許された家柄の人)、諸藩士の中の国学者など大いに沸騰して反対を唱えた。

 卿は必ず反対が出るであろうと思い、伊達宗城、松平春嶽、山内豊信の如き進歩的の大名とは打ち合わせも致し周旋も頼んであるから、この人々が尽力して朝廷の反対者は押え付けて十四日の会議で公使謁見の事は決定したが、天皇陛下が公使と握手するということになってまた大議論を生じた。いかに西洋の風なりとも、わが国の臣民の手さえ握り給わぬ陛下が異人の手を握り給うは余りにもったいなき御事なり。天照皇太神宮へ対し御申訳があるまいという論だ。この騒ぎで夜に入ってもまとまらず、そこで陛下の御裁可を仰ぐことになって、ようやくきまった。

 これで表の方は通過したれど、今度は奥の宮女が大反対で、中山慶子(なかやま よしこ:明治天皇の生母)が主動者で、奥は総体において根本から不同意。第一異人を御所へ召す事から不服で、天皇御対面なぞはもっての外の事と皆泣いて騒ぎ立てる

 先年幕府の末に継嗣問題が起こって一橋慶喜を西丸に直すという時、幕府の大奥は反対した。慶喜は水戸烈公の子である。烈公は倹約の人で、水戸家の奥女中には木綿の着物を着せて置く。慶喜もし将軍とならば本丸の女中も必ず木綿服となるも知れず、それでは生きた甲斐がないというのが第一の原因で反対したという。これは些細の着服問題で婦女子の心事にはありそうなことなれで、宮中の反対は大きな問題から割り出している。先帝(孝明天皇)はあれほど異人をお嫌いなされた。然るにその御子として異人を御所へ入れ謁見を賜わっては先帝へ御不孝である。天子様を不孝にしては相済みますまいという

 三條はもと攘夷論の本家で、先帝へも攘夷親征をお勧め申した人であるから宮女を説諭する資格が乏しい。また誰にしても女がガヤガヤ騒ぎ立てるのを説き付けるは困難であるから、吾進んで説諭しようという者は一人もいない

(東久世通禧 述『維新前後 : 竹亭回顧録』博文館 明治44年刊 p.256~258)
維新前後 : 竹亭回顧録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

東久世通禧はいかにして頑迷な宮女たちを説得したか

中山慶子(Wikipediaより)

 この宮女たちの説得役として、岩倉具視が東久世通禧を指名したのだが、東久世が見事にその役割を果たしたのである。非常に面白いところなので再び引用させていただく。

 早速中山慶子はじめ尚侍(しょうじ:後宮の長官[女官])典侍(てんじ:後宮の次官[女官])などいう主だった宮女を呼び出し、まず一通り彼らが主張するところを聞き、いかにもごもっともな意見である。われらも実は異人大嫌いで、彼らに面会するのは穢(けが)しく存ずることなれば、陛下謁見を賜わるということ、甚だ好ましからぬ事である。

 然るにこれを断れば彼らは、外国の天子の名代を軽蔑されては、自国の天子の御恥辱になる。君辱めらるる時は臣死すべき筈なれば、六ヶ国の兵隊を引き連れ直に京都へ打って入るという次第で、これにはほとんど当惑いたしておる。

 当節諸藩の兵皆関東へ下り、京都は至って御手薄であるところ、六ヶ国の兵隊は大軍であるから一日も防ぐことはできぬ。万一京都へ乱入いたせば日本の女をば捕えて外国へつれゆくかも知れぬ。その上京都は焼き立てらるるは必定なり。御所も無事ではあるまいと思う。それでも一切異人は御所へ入れぬという訳にはいかず、余儀なく各国普通の例によって謁見を賜わり、無事を繕うほかあるまいと思う。万一異人に京都をとられたら、先帝へ対してそれこそ申訳がないと懇ろに話されて、さしも大反対の宮女も返す辞がない。とうとう泣き寝入りの姿で奥の方はたちまち沈静に及んだのである。然るに攘夷の夢いまだ覚めざる有志家の為に意外の騒動を引き出すに至ったのは残念の次第というべし。

(同上書 p.258~259)

 東久世が述べたことは大げさではあったかもしれないが決して出鱈目ではなく、実際に新政府軍の主力は旧幕府軍征伐のために関東に向かっており、京都や大坂の防備がかなり手薄になっていた。一方の外国軍は兵庫港開港から日が浅かったために、外国海軍の主力が大阪湾にあったのである。もし外国との関係がこじれた場合は、新政府は戦っても勝ち目はなかった。また新政府がいつまでも外国人を拒絶すれば、外国勢が再び旧幕府方に接近することがあり得たのである。新政府としては早急に、幕府に代わって外国との窓口になることが求められていたのだが、東久世は宮女を脅かすことで彼女らの説得に成功し、ようやく天皇が各国公使に謁見を賜わることが朝議で正式に決定したのである。

フランス公使舘の夜の宴席に届いた堺事件の情報と東久世の反応

 二月十五日(3/8)に東久世は外国官知事の伊達宗城とともに大坂に赴き、新政府に外国事務局を置いて交易通商の窓口となることを告げ、さらに天皇陛下が諸国の公使等に謁見を賜わる旨を告げている。各国公使等は非常に喜び、その日の夜は東久世と伊達はフランス公使館で各国公使が集まる宴席に招かれて参加している。ところが、宴席の途中で場の空気が一変してしまう。東久世の記録を続けよう。

 各国公使一同食卓に着き乾杯終わりて食事また半なるころ、俄かに各公使悉(ことごと)く席を起って別室に退き、何かしきりに弁論する体なれば、卿大いにあやしく思って、書記官シイボールを招き、いかなる訳にて各公使は退席したるかと問えば、書記官ただ今堺より急報がまいり、一大事件が起こりし由。その詳細は分からざれど、土佐藩兵士等フランス水夫の士官、水夫の十余人を砲撃したりということである。貴国早く善後の策をなさざれば是より大事を醸すに至るは必然の事と存じます、と言われて卿も宗城も愕然として、それは打ち捨ておくわけにはまいらずと急に公使館を辞し、卿は直ちに馬に鞭打って泉州堺にいたった

 この時、はや夜の子の刻(23時~1時)近くである。卿は急ぎ町役人を呼び出しフランス人の死骸ひとつを探し出す者には金三十両遣すべし。漁夫どもを集め速やかに探索せよと命じたれど、最初は皆怪しんでこれに応ずる者がない。そのうちに一人の漁夫、海岸の水中より一屍を引き上げたれば卿はたちどころに三十両渡す。これを見て、われもわれもと馳せ参り、船を漕ぎ出し網を海中に下ろして探索す。卿は町役人に下知して数ヶ所に大篝火を焚かせ、漁夫を督促したれば夜の明けるまでに十一個の死骸を引き上げた。卿は一体毎に毛氈をもて包み、これを棺に納めさせ、そのこと終りしは十六日午前六時なり

(同上書 p.259~260)

 このように、東久世は各国公使の集まっていた宴席を飛び出してすぐに堺に向かい、フランス水兵らの遺骸を徹夜で引き上げさせ、遺骸を納めた棺を天保山沖のフランス軍艦に届けたのだ。

 このブログで堺事件の事を書いたが、その記事の中でイギリスのパークス公使が京都の土佐藩邸にいたミットフォードに出した書状に「フランス公使の要求が受諾されないと、すぐに交戦状態になるかもしれない」(『英国外交官の見た幕末維新』p.150)と書かれていたことを書いた。フランス公使のロッシュは新政府と交戦することも辞さない姿勢で、各国公使と協議をしていたのである。当時新政府の軍の主力は関東に向かっており、外国軍の主力は関西に集中していて、外国と戦うことになれば新政府に勝ち目はなかったことは東久世の書いている通りなのである。

 東久世が犠牲になったフランス人全員の棺を翌朝に届けた行動がなかったとしたら、フランス公使の怒りはもっと激しいものとなり、さらに厳しい条件の提示があったのかもしれないのだが、とにかく維新政府はロッシュの要求をすべて受け入れ、土佐藩士の処刑と償金支払いなどでこの事件は解決することが出来たのである。

パークス公使襲撃事件と五箇条の御誓文

 堺事件が解決して、天皇が各国公使を謁見し開国の大方針を宣明する日が二月三十日(3/23)と決定し、イギリス、フランス、オランダの公使等がその日に皇居に向かい、フランス公使ロッシュとオランダ総領事ファン・ボルスブルックは天皇の謁見を済ませたのだが、イギリス公使パークスは皇居に向かう途上で難に遭っている

英公使パークス襲撃事件(Wikipediaより)

 前回の「歴史ノート」にこの事件の事を詳しく書いたので繰り返さないが、この事件で十一名が負傷し、パークスはベルトを切られたが無事であった。

 天皇の謁見の後に開かれた宴席でその情報に接したフランスのロッシュは、直ちにパークスのいる知恩院に向かい、パークスに対し「すぐに兵庫に戻り、軍艦に乗って横浜に向かい、徳川を支援して新政府と戦おう」と説得したのだが、パークスは「新政府の後藤象二郎と中井弘蔵が奮闘してくれて自分の命が救われた。謁見の式を受けずに帰路に就くような、天皇に対してそんな不敬なことはできない」と断ったことが記録されている。

 パークスは三月三日(3/26)に天皇の謁見を受け、翌日(3/27)には襲撃した犯人の斬首が行われ、その十日後の十四日(4/6)に五箇条の御誓文が発布されているのだが、御誓文が発布されるまでにどのような経緯があったのだろうか。

由利公正「議事之体大意」

 明治新政府は発足当初から国是を模索しており、慶応四年(1868年)一月上旬に由利公正が「議事之体大意」五箇条を起案し、福岡孝弟が修正した原稿があったのだが、公卿らは「異国の体に倣えるものであり、神武天皇の古に復る神国の体ではない(『維新史 第五巻』p.387)」の反対により前に進まず、それが長らく放置されていたという。放置された理由は、「開国和親」を国是とすることに反対するメンバーが少なくなかったことが原因であろう。

木戸孝允(Wikipediaより)

 『木戸孝允公伝. 上』には、五箇条の御誓文建白の経緯についてこう解説されている。

 朝廷、王政の復古を各国公使に告げ給い、また外交の廟議既に決定したれば宇内の公法にしたがいて施行すべき趣旨を海内一般に示諭せられたりしも、維新の日なお浅くして、その趣意未だひろく通徹せず。これが為に諸藩各々方嚮(ほうこう)を異にしてその使節区々たり。殊に攘夷の思想なお滔々として弥漫し、備前藩士は英国水兵と衝突し、また土佐藩の兵士フランス人を殺傷し、尋で各国公使召見の儀あるにあたり、英国公使の遭難ありて頻々国家の禍患を惹起し、草莽の輩妄(みだ)りに身命をなげうち、あえてこれを顧慮せざるの傾向あり

 ここに於いて、公(木戸孝允)はこの形情を察知して深く将来を危憂し、わが国体に鑑みて千考万慮苦心焦思するところありしが、三月遂に朝廷に上書して、速やかに国是の方針を一定あらせられ、天皇親しく公卿、諸侯及び百官を率いてこれを天地神明に誓い、もって聖旨のあるところを汎(あまね)く天下の衆庶に示諭し給わんことを建白せり

(木戸公伝記編纂所 編『木戸孝允公伝. 上』明治書院 昭和2年刊 p.914)
木戸孝允公伝. 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 出来たばかりの新政府には、憲法もなければ法律も何もなかった。せめて維新政府の統治の根本原則を明らかにして、政策の方向性を国内外に示す必要があったのだが、外交や貿易の問題に関して「開国和親」を基本方針とすることには反対論が根強く、なかなか方針が定まらなかったのである。しかしながら、外国人襲撃事件に伴う新政府の危機を三度にわたり経験したことによって攘夷論の妄信者は激減した。そこでようやく開国和親を国是とすることが受容される環境が整い、木戸孝允が動いて由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されたと理解すべきではないだろうか。

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 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
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