満州における匪賊・共匪との戦い
前回記事で昭和10年ごろに支那共産党が匪賊を取り込んで北支(現在の華北で、河北省、山西省、山東省、河南省)に移動させたことで北支の共産化が進み、一方ソ連も満州の匪賊を取り込んでいて、日本軍が駐留していた満洲においても、共匪に襲われて日本人の犠牲者が出た事件が何度か起きたことが新聞で報じられていることを書いた。その後満州はどのようになったのか。満州に関する記事を中心に見ていくことにする。
上の画像は昭和11年3月6日の満州日日新聞だが「三月四日現在関東局調査による匪賊状況は、活動匪首三十三名、その匪数一千百七十四名、同集団数二十五名」とあり、随分匪賊が少なくなっているように読める。
しかながら匪賊というものは、捕まえられそうになれば逃げて姿をくらまし、さらに平民の姿に変身してしまえばまず捕まることはないし、安全が確認できればまた匪賊の姿に戻ることもできる。そもそも匪賊の統計があるわけでもなし、匪賊のボスの名前くらいはわかっていても、部下がどれだけいたかはかなりアバウトな数字しかわかっていないようだ。この記事に第四軍管区管下国軍の二月の討匪の実績が書かれている。
戦闘回数五五回、討匪数六五九一人、斃せる匪数二七〇、捕虜一二〇、人質奪還八三、歯獲品小銃五七、弾丸一三九九、拳銃一四、馬匹四一
昭和11年3月6日 満州日日新聞
我軍の損害 戦死下士兵六、戦傷将校七、同下士一三
毎月こんなペースで匪賊を討伐していたら、あと一ヶ月もすれば満州から匪賊がいなくなるように錯覚してしまうところだが、満州における匪賊の害は実際にはその後も続き、翌月に日本軍は満州の兵力増強を決定している。
上の画像は昭和11年4月29日の神戸又新日報の記事だが、次のように記されている。
新京二十九日発電通—在満戦力及び兵力の充実問題は板垣参謀長、阪西大佐の東上によって陸軍中央部との間に意見の交換が行われ、政府当局との折衝により予算問題と関連しいよいよ具体化するものと期待されている、即ち
今日の極東の情勢を以てしては在満戦力及び兵力の増加により国防力の充実が絶対的のものとされ、関東軍当局の中央部に披瀝せんとする要望の根拠は左の如くである
一、満洲国の治安情況についてみるに国内匪賊の数はたゆまざる討伐により逐年激減しているが、残存匪は殆んど共匪と称すべきもので、反満抗日の思想に燃え治安の擾乱を目的としている。現在これらの討伐に日本将兵は毎日四名ずつの尊い犠牲者を出している。これが撲滅には人的物的にもあらゆる整備を必要とする。
二、満蘇国境並に満蒙国境内に頻発する越境紛争事件の根本禍因は、蘇連(ソ連)の尨大なる軍備の脅威によるもので極東赤衛軍二十万に対応するため我が兵力を充実するに共に、道路器材その他戦力の整備をなし国防力の均衡策を実行しなければならぬ
三、支那の共産軍は第三インターの使嗾により現に綏遠チチハルに迫り内蒙を脅威し北支を侵犯せんとしている、これら辺境の擾乱は常に満洲国自体の生存権を脅かすもので日満共同防衛の重責を担う関東軍としては黙視し得ざる話である
要するに満洲国内の治安を百年の安きに置き対ソ関係の均衡をはかり辺境内蒙北支の脅威を排撃せんがため、在満戦闘力及び兵力の増加により実力的措置を講ずる以外極東平和の鍵はないという信念に基けるものである
昭和11年4月29日 神戸又新日報
残存している匪賊は「共匪」、すなわち中国共産党の指導のもとに反政府的に活動していた匪賊であり、彼らのゲリラ行為により日本将兵から平均で毎日四名程度の犠牲者が出ていたというのである。
ソ連と支那の満州戦略
ソ連は多数の共匪を満洲国内に潜入せしめて治安撹乱を続けていたのだ、満州から逃げてきた匪賊のためにソ連領内に兵舎を建築し、そこを共匪の根拠地とした。昭和11年9月24日の大阪毎日新聞には次のように記されている。
新京本社特電【二十三日発】最近密山南方興凱湖西側附近の露領内で盛んに兵舎の建築を急ぎつつあるが、右に関し信ずべき情報によれば該兵舎は露国国境監視部隊のものではなく、意外にも露国の傀儡となって常に満洲国内および国境附近を攪乱しつつある共産匪の一大根拠地であることが判明し、日満当局を激昂させている。
東北抗日連合軍第四、第五軍は約三割の朝鮮人を有する満鮮混合匪で、兵力約三千、別に被服製造を担当する二十歳前後の朝鮮人娘を主体とする満鮮混合娘子軍を有している。今年度のアヘン収穫が思わしくないので、八月中旬善後策を講ずるため密山南方の西楊河に集結して秘密会議を開いた結果、同地を根拠地として露国の支援下に活動することになり、木造板屋根の大兵舎三棟の建築に着手したが、露国当局は奇怪にも同匪団の兵舎建築を黙認せるのみならず積極的に支援を与えアタマノフ駐屯の露国軍憲はこれに遠距離爆破に用いる電力応用の猛烈な爆薬や弾丸、糧食等を豊富に支給し、兵舎に附随する広大な練兵場の設置およびアヘンの栽培をさえ許している。…中略…
なお確実な情報によれば最近蒋介石と露国当局との間に満洲国治安攪乱計画に関する密約が成立し、本年九月または十月を期し、露国は、国民政府より尖鋭なる闘士約二百名を迎えて孔憲栄のもとに隷属せしめ、在満の共匪と相呼応して、活溌な反満抗日運動を開始せんと目下着着準備中であると伝えられている。
昭和11年9月24日 大阪毎日新聞
ソ連は匪賊団にただ兵舎を建築しただけではなく、武器や食糧も支給していたのである。さらに蒋介石とソ連とは満州国の治安撹乱で合意し、密約が成立していたとも書かれている。共匪は反満抗日運動の先兵として重宝されていたようだ。
上の画像は昭和11年10月21日の大阪朝日新聞だが、上記の大阪毎日新聞とは異なる視点から、ソ連と支那との接近について述べている。
以夷制夷を伝統とする支那の対外政策と世界赤化の運命が東亜において決せられるというソ連の根本思念とは一脈相通ずるもののあるところへ、満洲事変を契機として一は抗日、一は圧日という直接的共同目的が一致したのであるから、中ソの関係は相当突き進んだもののあることは否めないところである。現に今回の日支重大交渉においても国民政府内の親ソ派が頻りに暗躍して日本の要求を過大に宣伝し、あるいは抗日的気勢をあげているが、そもそも今回の諸事件そのものについてもこれが直接間接の原因中にソ連およびその操縦にかかる親ソ傾向分子の存在することは明瞭であって、支那からすれば一部軍閥などの私利的見地に立つソ連利用。ソ連からすればこの機に乗ずる共産主義勢力の進展拡大が中ソ勾結の事実となって現われて来たのである。
昭和11年10月21日 大阪朝日新聞
「以夷制夷」というのは「後漢書」鄧禹伝に書かれていて、外国を利用して他の国を抑え、自国は戦わずに利益を収め、安全を図るという外交政策をいう。この記事には蒋介石とソ連との密約の話はどこにも出てこないのだが、蒋介石がソ連の外交策に協力したように見えるのは、密約があるというのではなく支那の伝統的な外交政策である「以夷制夷」によるものと筆者は判断しているようだ。この記事の最後に蒋介石が共匪を満州に追放することに躍起になっている事情が書かれている。
国民党部や共産党は表面日本との交渉がないから無責任に抗日でも排日でも高唱し得るが、蒋介石は南京政府を代表しているだけ苦しい手品を使わねばならぬ。第一日本に対して公然、抗日を宣言することは出来ない。その点は党部や共産党を利用する。けれども共産党と全面的に握手することはソ連には都合よくなるが、英、米などの支那に関心を有する列強の支持が得られなくなる。のみならず廂を貸して母屋をとられる恐れが多分にある。そこで中共が打倒蒋介石を叫んでいるのを捉えて長江筋の南京政府の地盤から駆逐し辺疆西北に送り込む。もちろんその息の根を止めるだけの打撃は与えることも出来ないが与えようともせぬ。自己の地位や地盤さえ脅かされねばそれでいいのである。どうせ手の届かない満洲国で共産軍が活躍してくれるのは彼の最も願うところであり隙を見ては満洲国に共匪を送り込む所以はここにある。満洲国を攪乱させることはソ連に対しても忠実なる使徒となることが出来るからである。
ソ連としては支那を赤化しその翼下に収めることが出来ればそのこと自体が素晴らしい成功であるのみならずこれによって日本の対支政策を食い止め満洲国を完全に赤色で包囲することが出来る。満洲窒息政策である。世界赤化の成否は極東において決するとまでいって力を入れているのはこれがためであり日本が支那の赤化に重大なる関心を持つ所以もここに存する。
昭和11年10月21日 大阪朝日新聞
このように満州に匪賊を送り込もうとする動きが存在する以上、満州で匪賊による犠牲者がなくなることは期待できないのだが、すでに満州には多くの日本人が「開拓移民」として送り込まれており、それ以降も続々移民が送り込まれていた。
満州開拓で移民した日本人たちの生活
昭和6年(1931年)の満州事変以降、日本政府の国策として満州や内蒙古、華北に多くの日本人が入植したのだが、満州国が成立した昭和七年から終戦の昭和二十年までに満州、蒙古に開拓民として合計約二十七万人が移住したと言われている(「満蒙開拓移民」)。もっとも昭和十一年までの五年間は「試験的移民期」で、年平均の移住者は約三千人、昭和十二年からは「本格的移民期」となり、年平均三万五千人が送り込まれたという。
昭和12年6月19日から3回にわたり大阪朝日新聞が満州の弥栄村に移民した日本人の生活状況を連載記事で伝えているが、先遣隊が入植した昭和八年頃は、いつ匪賊が襲ってきてもおかしくない状態で、大草原を開拓していった人々の苦労は想像以上のものがある。
丘の麓の部落には日の丸の旗が日本人ここにありとばかりひるがえっている。列車は第一回武装移民の耕作地帯に入ってきたのだ。苦難のうちに建設された弥栄村の十五部落はこの丘陵地域に点在しているのである
村の中心永豊鎮はもと紅槍会匪の根拠地で、村役場は頭目の巣窟だった。昭和八年二月先遣隊が機関銃をかついでのりこんだときはまだ匪賊の暖をとっていた火が炉にもえていたというほど物凄いところ。土塁を築いて鉄条網をはりめぐらしてあるのも物々しい。それだけに死線を越えてきた団員らの意気込みも涙ぐましく悲壮だ。
野原のまん中に一町ぐらいの間隔をおいて立並んだトタン屋根の住宅は団員が自ら建築したもの。三百二名の団員はこの春までに皆家が完成しそれぞれ家族をよびよせたり花嫁さんをもらったり希望に満ちた家庭を作りあげ、この三月をもって建設当初の共同経済から個人経済に転じた。
役場の隣には赤煉瓦二階建の堂々たる気象台が出来上り、専門家が満洲農業と気象の関係について統計的研究をはじめるし、村の共営事業の販売、購買、製粉、製油、精米、農産物加工などは漸く軌道にのってきたし、木工、鉄工、蹄鉄工、煉瓦工などそれぞれ個人営業を認めた集団農業がこの春を転機として満洲農業移民の理想である中産自作農創設への第一歩を踏み出したのである。トラクターによる処女地の開墾、既墾地の播種(はしゅ:種まき)、水田の構築、山崎団長指揮のもとに村の人人はいま目のまわるような忙しさだ。…中略…
村の小学校は学童が三十三人、家が遠いので寄宿舎住まいだ。夜など家を恋しがって先生を困らせたりしないところ。さすが屯墾地の子供たちだと感心させている。建設の村の苦労は匪賊のあいもかわらぬ跳梁だ。三月には伐木運搬中の団員が三名匪襲に戦死をとげた。最近は耕馬の盗難が頻々とある。新しき土の開墾にはいいしれぬ苦難と犠牲がともなっているのである。(団野特派員記)
昭和12年6月19日 大阪朝日新聞
昭和十二年から本格的に移民を推進するというのに、満州で匪賊の被害のことが高頻度で新聞の記事になっては国策の妨げになることは誰でもわかる。新聞の見出しに「匪賊」の文字が出てくるような記事が、その後は少なくなっていくのだが、匪賊の被害が減っていたから新聞記事が減ったわけではなかろう。
上の画像は昭和十三年二月二十五日の大阪毎日新聞だが、「満州国治安完成へ」などと随分違和感を覚える内容が書かれている。先ほど昭和十一年三月六日の満州日日新聞の記事を紹介したがそこには「三月四日現在関東局調査による匪賊状況は、活動匪首三十三名、その匪数一千百七十四名」とあり、その頃から匪賊数が大幅に増加していることになるのだ。いつの時代も新聞などのマスコミの大半は政府に忖度して、政府が進める政策にあまり矛盾しないように記事を書くように配慮するものなのだろう。
満州国撹乱し続けるソ連と満蒙開拓青少年義勇軍
上の画像は昭和十二年六月二十九日の大阪朝日新聞だが、ソ連が匪賊のリーダーに満州国撹乱を指令したと報じている。こんな指令が出ている満州が安全な地域であるとは思えない。
【同盟新京二十八日発】新京に達した情報によれば、グロデコウ赤軍司令部では高梁(コウリャン)繁茂期を利用して満洲国の治安攪乱を企てるため、東部国境に潜伏中の劉三侠、鮑老五の両匪首を司令部に招致し、両匪首は五月末東部国境からソ連領内に侵入しゲ・ペ・ウの案内でグロデコウ赤軍司令部にいたり、秘密指令とともに多量の弾薬、銃器の補給を受けて満洲国内に引返したといわれ、新京官憲でも警戒している。
昭和12年6月29日 大阪朝日新聞
昭和十三年には日本内地の数え年十六歳から十九歳の青少年を満洲国に開拓民として送出する「満蒙開拓青少年義勇軍」が開始されている。治安に問題がなければ満蒙にこのような義勇軍を送り込む必要はないはずではないか。
移民計画の本旨
昭和13年5月7日 国民新聞
内地の純真な青年を多数満洲大陸に送り、先ず十三年度に三万人の青年を送り出すこととし、全国道府県別に按分配当して募集の上、内地で約二ヶ月間の訓練を経た後渡満させ、更に現地の訓練所で約三ヶ年間農民に必要な心身の鍛練を行い、建国精神を徹底させ農業技術を習得させ、現地訓練を終了したものは逐次既計画の集団移民として夫夫(それぞれ)拓務省の補助下に独立させる。
Wikipediaによると、昭和十三年から昭和二十年の敗戦までの八年間に八万六千人の青少年が送り出されたという。終戦時には在満日本人は二十二万人いたと言われているので、三割以上は開拓義勇軍として送られたメンバーであったのだ。
また長野県下伊那郡の阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」のパンフレットによると、義勇隊開拓団が「入植した場所を地図で確認するとソ連国境近くに多く入植している(p.25)」という。「訓練を施された青年たちは、いざという時には武器をとり国境警備の任務に充てられた」と記されている。
終戦直前にソ連が参戦し、その混乱時に在満日本人の内八万二千人が死亡・行方不明となり、三万六千人がソ連に抑留されたと言われているが、最も危険な地域に派遣されていた義勇隊開拓団メンバーについては、大半が犠牲になったことは想像に難くない。
角田房子 著『墓標なき八万の死者 : 満蒙開拓団の壊滅』によると、義勇隊の多くが「敗戦の混乱期にむごたらしく若い命を絶たれた。(p.84)」と書いている。
満州開拓については戦後の日本人にはほとんど何も知らされてこなかったのだが、支那大陸に於ける匪賊の存在を知れば、わが国が軍隊を派遣したのは侵略目的ではなく自衛のためであることが誰でも理解できると思うし、このような支那の匪賊に関する史実を知らなければ満州の問題を正しく認識することはできないと思う。
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