満州馬賊の頭領
前回記事の最後に昭和8年(1933年)3月19日から連載された満州日報の武装苦力の話の一部を紹介させていただいたが、支那で匪賊の討伐軍を起こし匪賊の根拠地に向かわせたところ、討伐軍が「匪賊平定」を声明したので確認すると、匪賊の頭目はその日から官軍の将官になっており、部下の頭目たちはそれぞれ将校に任ぜられ、手下の匪賊どもはすべて官軍に編入されていたという話には多くの読者が驚かれたと思う。彼らは実際には戦わず、勝ったことを演技で伝えて報奨金を受取ろうとするのだ。
彼らの支那の戦争の仕方については次のように記されている。
彼等は戦争の前に、チャンと勝利計画というものを造って置く。支那の戦争は選挙のようなもので最大多数の兵数を集めたものが勝と決っている。戦争が始まると、先ず型通り相手の軍備の欠点を数え上げ、こっちがこの位優勢だということを示して「今後なお依然として其位置に留るならば、如何なる事変に遭遇するやも知れず」というような通電を発する。これが予備戦である、俺の方が優勢だから降参して了え、という通電であるから滑稽である。この通報戦が、相手に利き目がないと、第二線を張ってやっと二、三千の兵を繰出して見る。その頃はもうちゃんと「敵の戦死何千、捕虜一万五千、負傷何万」という大げさな公表が飛んで、外国電報にまでなる。これが勝利の予定計画である。
これを真向から信じたらとんだ話で、僕が天津に居て、北支駐屯軍の某中尉に聞いた話であるが、上海事変当時、銃砲戦最も激烈なり、と発表した十九路軍の公表が実は農夫二人の死亡、水牛一頭の斃死、雛鶏数羽の掠奪があっただけのそれであったという事である。支那軍は、大妄想の逆宣伝がうまい。僕は北平で、上海事変を主にした排日宣伝の映画を見たが、その映画の中では日本の将校がぞくぞくと後手に縛されて捕虜になっていた。だから、土匪軍に出た軍隊なども、生命からがらになって逃げ出す迄は、陸軍総長に、勝って勝って勝ちまくっているような電報を矢次ぎ早に打つそうである。
軍閥の諸将連がインチキである。だから支那の武装苦力(クーリー)は苦力や家畜のように敵味方の間に売買される。大体彼等武装苦力は自分が誰と戦争をしているかさえ知らないものが多いのである。只傭われたから鉄砲を打っているだけの事で、今日は紅色の襟章、次は緑、次ぎは黒と、次ぎ次ぎに変って行く。しかもその襟章も、ふらふら敵の陣地にまぎれ込まないマークであって、それが附属軍閥の精神を表徴する足しにはならないのである。
「満州日報」1933年3月19日
「苦力」とは出稼ぎの下層労働者とよく解説されているが、奴隷に近い扱いを受けていて、戦争になると敵味方の間で売買されていたという。要するに彼らは国や国民を守るために戦うという意識はなく、混乱に乗じて掠奪することに熱心であった。
張作霖、馬占山が馬賊の頭梁だったという事は、これは世間周知の事実である、その故か学良の手下には馬賊、匪賊の変わった軍隊でなかったものがないようである。
満洲事変当時、満蒙には十余万の土賊があったといわれている、その満蒙十余万の土賊の系統は、五人の馬賊大頭目に属しているといわれている
錦州広寧にある巫閻山に、その五大頭目の誓文が掲げられ、その縄張りが決められているという事であるが、それに依ると五大頭目第一位が老北風、第二位が天下芳、三位が天楽、四位が満蒙公、五位が常勝という事になっている 。彼等は先祖代々からの馬賊である、各手兵が一万、少くとも五千円以上の財産を持っているだろうといわれる。
「満州日報」1933年3月21日
張作霖は教科書などでは「満州の実力者」などと書かれているが、「馬賊の頭領」であったことをなぜ戦後の日本人に隠すのであろうか。張作霖の長男・張学良についても彼の出自を明確に書いている本はほとんどないのではなかろうか。馬賊頭目第一位の老北風、及び第二位の天下芳は、張学良の配下で動き、また満洲の各地を襲った紅槍会匪、大刀会匪なども、学良の指導が背後にあったと言われている。
上の画像は昭和7年(1932年)9月6日の東京朝日新聞だが、彼らの最大の関心事は金を儲ける事であり、そのための手段は問わなかった。
【奉天特派員五日発】東北失地回復の名の下に義勇軍や兵匪の操縦に大金をバラまいて居る学良は軍費不足に名を借りて窮余の一策として北平博物館の宝物を米国骨とう商に二束三文でたたき売ってしまったが、それで味を占めた彼は到頭東洋の宝庫といわれ世界の骨とう愛玩家の垂ぜん万丈の清朝の遺宝北平宮殿内の文華殿と武英殿にある天下の珍宝全部を盗み出し、既に二十個の大箱に荷造りして上海に発送準備中である。買主は有名な米国の骨とう商で時価一億元以上のものをたった二千万元で手にいれ既に代金は外国銀行を通じて学良に支払い済みとある。
「東京朝日新聞」昭和7年9月6日
張作霖や張学良は富豪の財産を掠奪したり国宝などの文化財を売却して相当な財を成したことは言うまでもないだろう。遼寧省瀋陽(旧奉天)市に、張作霖・張学良の私邸が残されていて、「張氏帥府」として一般公開されているようだ。張作霖は中国共産党の初期の幹部である李大釗を処刑した経歴があり、張学良も終戦後五十年以上軟禁されている。にもかかわらず彼の邸宅が残されて観光地として公開されているということは、張学良やその兄弟が中国共産党に多大な貢献をしたというような裏の歴史がおそらく存在するのであろう。
北満の貧農が匪賊化した事情
満州国は日本軍と満州軍が匪賊を討伐することで治安はかなり改善していったのだが、日本軍が駐屯していない地域では匪賊が蟠踞していて、地方から満州を目指した貧農が匪賊化していったという。
昭和10年4月19日の満州日報は次のように報じている。
【佳木斯(ジャムス)*】日満軍の再三の討匪及び治安工作班の活動に依って北満の治安は漸次確立されているが、日本軍隊の駐屯しない特殊地域にあっては尚地方民が近傍に蟠踞する匪団と密接不離な連絡を保ち満洲国の政治工作を妨げている。殊に北鉄東部線珠河県下の如きは今尚匪賊の跳梁甚だしく下層民と合流して富農を襲って金品を強奪し列車転覆を企てている。
事変直後における如き兵匪又は職業的匪賊は漸次少くなったが、父祖伝来の土地を失った貧農が大部分を占めている。従って住民の通匪(つうひ:匪賊と連絡を取ること)はこれら地方において最も甚だしく、満洲国の政治工作上重大な関心事となっている。…中略…
*佳木斯:中華人民共和国黒竜江省に位置する地級市。中国最東部にあり。貧農が土地を放棄し匪賊の群に続々投じつつある実状は軽視するべからざるものがあろう。
まして農民の匪賊化及び住民の通匪を単に整備上の欠陥又は指導菅の無能に帰せしめ、職業的自衛団の設置に依って補足せんとする如きは姑息の手段にすぎない。 これら匪賊化した貧農は必然的に共産主義的傾向を有し、共匪と連絡して地方の富農を襲い列車を襲撃するのが常である。
昭和10年4月19日 満州日報
日本軍が駐屯している場所ではこのようなことはなかったのだが、日本軍が駐屯していないような特殊な地域に於いては匪賊による襲撃事件が頻発した。たとえば東部線鉄道に関して言うと昭和八年四月から九年八月までの間に二十七回も匪賊の襲撃を受けている。このような事件が頻発した背景には、二度にわたる大きな自然災害が北満を襲い、飢餓に瀕した貧農が匪賊化したのだという。
昭和七年及び同九年における北満の大水害は一般農家の農作物を悉く流出し、罹災者は飢餓に瀕して親戚知已を頼って一時避難し、或は全く離農し緑林の生活に身を投じたものか極めて多い。
今珠河県下における昭和九年八月の水災状況を示せば …中略…
かくして北満の貧農は社会的組織の欠陥と天災とに原因して続々匪賊の群に投じこの慮に乗じて中共党其他共産分子が煽動しその指導によって反満半日の政治的反抗となり治安を撹乱しつつある
同上
「緑林の生活に身を投じ」とあるが、前漢の末期、王莽(おうもう)の即位後、王匡(おうきょう)・王鳳(おうほう)らが窮民を集め湖北省の緑林山にこもって盗賊となったという故事から、「緑林」は「盗賊のたてこもる地」を意味する言葉となった。北満に移住した貧農たちの多くが、共産分子に煽動されて匪賊になり、治安を悪化させたと理解してよいだろう。
満州で共匪の襲撃事件に日本人が巻き込まれた
満州で日本軍が駐屯している地域では治安が比較的良かったはずなのだが、昭和10年(1935年)になると匪賊による襲撃で日本人が犠牲になる事件が相次いでいる。
上の画像は昭和10年6月19日の大阪毎日新聞の記事である。
去る十四日午前二時満洲採金会社大域廠坑区(寧古塔□方)に呉義城、恒憲永の合流共産匪四百名来襲し、警備隊三十名は十時間にわたりこれと激戦したが遂に弾丸尽き、隊長若月善一郎、分隊長崔相武以下数名は壮烈な戦死を遂げ、十数名は拉致された。なお賊団は家屋に放火し掠奪暴行の限りを尽くし約二万円の採金、銃器を掠奪引揚た。
昭和10年6月19日 大阪毎日新聞
次は昭和10年7月26日の大阪朝日新聞の記事である。
7月23日正午過ぎに約500の匪賊が熱河省の奈曼旗公署を襲撃し、日本人が一人戦死し、四名が拉致後射殺されたという。襲撃放火した匪賊は同時に監獄を破壊し囚人五十名を脱走せしめたと記されている。満州採金の事件もそうだが、いずれも匪賊のうち、共産主義を掲げる「共匪」による襲撃事件である。
匪賊を懐柔していった中国共産党とソ連共産党
次は昭和10年8月10日の大阪毎日新聞の記事だが、四川省成都の西方を占拠していた朱徳、毛沢東の中国共産党主力軍は、7月中旬に大挙北進を開始し、松潘一帯を占領後は甘粛、青島省に向かう方針である。そして彼らは匪賊を懐柔することに成功しているという。
朱毛の主力軍が四川に入ってから、同省内各地の土匪軍は皆共産軍に呼応して活動を開始し、四川南部に割拠していた王逸湊の率いる約二千の土匪軍は完全に共産軍化し、警備の最も厳重な重慶成都間にも農民の納税反対同盟(約三十万人)も共産軍に加担。その他各県とも蒋介石軍の人夫物資徴発に反対、反蒋的に動かんとする形勢にあり、蒋介石氏の共産軍討伐工作の前途は非常に悲観されている。
昭和10年8月10日 大阪毎日新聞
またソ連共産党も満州の匪賊の取り込みを行っていたようだ。
ハルビン本社特電【十三日発】去る三日満露国境三江省蘿北における討匪中戦死を遂げた洲崎参事官の弔合戦のためわが〇〇部隊の一部は直に出動。酷熱を冒して追撃中十一日午後四時ごろ蘿北県城南方で百五十名の敵匪と衝突。これに徹底的打撃を与えたが潰走した。匪賊は奇怪にも露領エカテリーノニコリスカヤ対岸に予め準備してあった数隻の小舟に乗り露領に遁入した。わが軍で探知したところによると、露国側は同所のみならず、東部国境でも領内各所に匪賊の山塞構築を黙認している反日満的事実がある。
昭和10年8月14日 大阪毎日新聞
かくして共産化した匪賊が急増していき「共匪」と呼ばれて人々から懼れられるようになっていった。その共匪の討伐を期待されていた蒋介石は本気で戦うことはしなかったのである。
昭和10年12月5日の報知新聞には次のように書かれている。
中国共産軍は軍事委員会主席、同副主席、政治委員、総司令部参謀長、政治部長、同副部長を以て最高幹部となし、その下に活動地帯を担当する軍団が組織されている。その兵数は三十二万を突破するという勢力で、主として中支、南支にばん居していたのであるが、これが北支に侵入して来たのである。この共匪の存在はある一面においては蒋介石政府をして存続せしむる動力となっている。蒋介石氏が浙江財閥と交歓してその財政的援助を得て政権を掌中におさめ得るのは、実に共匪の討伐という事業があるからではあるが、他面蒋政権の根幹を揺がすものもこの共匪である。共匪の勢力増大は単に農村の衰乏を招来して国民経済を不振ならしむというだけでなく、やがて政治的分裂をも惹起して財政的窮乏を来し、蒋政権を破滅に導く恐れもある。蒋介石氏が張学良軍をして主として共匪討伐の衝にあたらしめていることには、ややともすれば民心蒋から張に移らんとする傾向の多分に察知し得られる南京政情を反映しているとはいえ、共匪討伐を等閑視し得ないということを物語るものといわねばならぬ。
昭和10年12月5日 報知新聞
蒋介石は豊かな四川省から共匪を追い出そうとしたのだが、つまるところ四川省の共匪を北支(現在の華北で、河北省、山西省、山東省、河南省)に移らせただけのことである。その追い込み役を演じたのが張学良というわけだが、北支は農村がかなり疲弊していて共産主義を受け容れられる危険性の高い場所でもあり、また満州にも近かった。そうして北支の共産化が進むことによって、ソ連は「反日」で目標が一致する支那との連携を一層強化するようになり、これまで日本との関係が比較的良かった北支も、対日空気は次第に険悪になり、満州国もソ連と支那の共匪に治安を乱されるようになっていく。
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