家禄が大幅に削減された士族のなかでも特に悲惨な目にあった徳川の旧幕臣たち

徴兵令と士族の没落

明治に入って激変した士族の生活

 菊池寛の『明治文明綺談』に、封建制の瓦解とともに士族の収入が激減し、徴兵制が発布されたことにより、士族がその存在意義を失ったことが書かれている。

 当時、各藩の武士階級は、明治二年の版籍奉還によって、総て士族と改称され、明治五年の正月の調査によれば、士族の総数は四十万八千戸、その家族を合わせれば百九十万人という大多数が、封建組織の瓦解と共に、深刻な生活問題に直面したわけである。

 しかも彼等は、今まで生活の本拠となっていた藩がなくなったばかりでなく、明治五年に発布された徴兵令のため、その本来の職能である軍役からもはなれることになり、いよいよその存在の意義を失うことになったのである。

 … 

 元来、幕末期における武士の生活難は維新の一原因と言われるくらいであるから、相当激しいものであった。軽輩の武士は、家禄だけでは生活できないから、内職を営み、そのために地方に特産物が発達したと言われる。仙台の仙台平、甲州の郡内織など、みなこの下級武士の妻子が従事して名産としたものである。

 維新から明治にかけて、全国的の兵乱のため物価は高くなり、藩札その他、財政の混乱から、ただでさえ苦しい武家の家計は、ますます不如意となっているところへ、版籍奉還、廃藩置県の大変動を受けたわけである。

 そのために彼等が受けた打撃は、第一に家禄の削減であった。政府としても、藩に代わって禄を全士族に与えるとすると、年二千五百万円という巨額に達し、これは全歳出の三割六分に当たるのである。創建日浅くして、諸事支出のみかさむ新政府としては、とてもこんな負担に耐えるわけがない。今まで通りの知行を与えてはやり切れなくなったので、各々その数分の一に削減している。…

(菊池寛 著『明治文明綺談』六興商会出版部 昭和18年刊 p.140~143)

家禄はどこまで減らされたのか

 ではどの程度家禄が減らされたのかというと、前掲書には「五十二万石の福岡藩などでも、三千五百石以上の大身は十分の一に、六百石ぐらいの者も百石に減らされている。生活最低線が百石というわけである。」と書かれているが、徳川家に対する処遇はもっとひどいものであったという。

 菊池寛は、前掲書で徳川の旧幕臣の生活のことをこう記している。

 殊に悲惨を極めたのは、朝敵となった徳川の旧幕臣で、慶喜が帰順とともに静岡でわずかに七十万石に封ぜられると、何万という旗本はこの七十万石で生活をしなければならなかったのである。彼らの或る者は上野の戦争、奥羽函館の役で戦死しているであろう。また或る者は徳川の天下に見切りをつけて、商人になったり帰農したりしたであろう。しかし多くの者は、徳川の恩誼を慕うて新政府に仕官せず、あくまで将軍家とともに苦難をともにしようとして、新封土である駿府に集っていったのである。

 静岡における彼等の生活は、嘗て実収一万石を得ていた者でも、二百五十石の収入となってしまった。以下、小録に至るまで、順次低下するのであるから、どんなに惨めな生活だったか分るのである。

(同上書 p.143~144)

無禄で静岡に移住したものが少なくなかった徳川家臣

 徳川慶喜は明治元年の江戸城明け渡しの後、八百万石を七十万石に大幅に減らされて、駿府に移封されている。九割以上も減封されては、余程移住する家臣団を減らさなければやっていけない。

 当時の幕臣がどの程度いたかについて国立国会図書館のリサーチナビで調べると、前田匡一郎著『駿遠へ移住した徳川家臣団』に「幕府崩壊後、幕臣約二万三千人の内、約一万三千人が徳川家に従って静岡へ移住」とあるが、家族と合わせて数万人が静岡に移住したことになる。単純に七十万石を一万三千人で割ると、平均で五十四石しかないのだ。七十万石ではとても移住者全員の面倒を見ることは困難である。

 旧幕臣の家に生まれ、明治元年に徳川家と共に静岡藩に移住して悲惨な生活を体験した塚原渋柿園(じゅうしえん:本名は靖(しずむ))は、のちに横浜毎日新聞に入社して新聞小説家として一世を風靡した人物であるが、著書『歴史の教訓』に当時のことを次のように記している。この文章は岩波文庫の『幕末の江戸風俗』にも収録されている。

塚原渋柿園

 そこで藩士へ(静岡)藩庁から諭達が出た。人多く、禄すくなし、在来の臣下をことごとく扶持することができぬから、この際『朝臣*』となるか、『農商』に帰するか、また強いて藩地へ供せんというものは『無禄』の覚悟にて移住をしろ、とまずは縁切状、それを出された。

 そこで藩士は、この三者の一を選んで、身の処置をなさねばならぬ次第となった。当面利害の点からいうと、その朝臣になると、禄高は従来取りきたりのまま(もっとも後には減らされたそうだが)、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという。これは至極割合の好い話であったが、なぜかこれには応ずるものがすくなかった。…(帰農商については)帰農はすくなくて、あるのはやはり千石以上の知行取り、即ち旧采地に引っ込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち三十俵四十俵から二百俵三百俵の連中には帰商もかなりあったようだが、その多かったのは無禄移住。どこまでも藩地へ御供(おとも)というのであった。

 藩庁でも、朝臣の少ないのを案外に思って、無禄連の多いのに頗る困って、また諭達を出した。石を食うの砂を噛(かじ)るのとてそれは口でのみ言うべきことで、実際に行い得るわけのものではない。あちらへ行って、藩主にもご迷惑をかけ、銘々(めいめい)にも難儀に陥るようなことがあっては、つまり双方の為にならぬから、はやく今のうちに方向を決めて、前途の生計に困らぬようにしろ。―――こんな達しが二三度も出た。それでも、何でも御供をしたい!と、藩吏は甚だその処置に苦しんだらしかった。  
*朝臣:新政府に帰順して政府に出仕すること

(塚原渋柿園 著『歴史の教訓』東亜堂書房 大正四年刊 p.32~34)  塚原渋柿園『幕末の江戸風俗』岩波文庫 p.26~27

旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船

 塚原の一家も無禄で静岡に移住したのだが、静岡藩は移住希望者を運ぶためにアメリカの船を借り入れている。塚原は移住者の移動に立ち会ったのだが、この船がとんでもない船であった。

 これより先、藩庁では、この移住者を輸送(私らはことさらにこれを輸送という)するために、米国の飛脚船を借入れたが、(移住者にして有福の者、また到底海路を行けぬという人達は、陸路を辿るも多かった)この時の船は『ゴールデン、エーヂ』、後に確か東京丸となった船だった。長さ七、八十間*(けん)に幅の十二、三間も有ったかと思う大船。それでもその会社の好意で、江戸の品川沖から駿州清水港まで三千両で貸切にしてくれたとかいう話。で、その船は台場の先に碇泊(かかっ)ている。これに乗る移住連…の人数は二千五、六百もあったろう。それも当主は男子だが、あとの家族は老人に子供、婦女に病人などという多くは足弱で、とても一人で身の始末もならぬという者だから、これを艀船(はしけ)で本船まで送るというのが、そもそもの大ごとだ(手荷物は極めて少数に限られていたが、それでも皆一品も多くと持って行く。その扱い方にも手数がかかった。)で朝から数十艘の小舟で幾百回というものを往返して、漸くその移住連の運搬を了って、さて最後に、私どもが本船に移った。時は今の夕六時過ぎ、その部屋は甲板の上に天幕(テント)を張って、船の中での露営というけしき、布団もなければ、湯茶一つない。

 それでも我々の方は只幾許かの身の余裕も取れる。ところがその下方の、かの下等室なる移住者の方と来たら、実に大変だ

 私も父や母や祖母や妹両人、それに老僕の仁平という者…これらのこの船に乗っていることは知っている。どんな様子だか是非見たいと、梯子の口まで行って見ると、驚いた!船中の混雑を防ぐためでもあろう、梯子はとってある。傍(わき)の手すりに捉まって、下を見ると、臥棚(ねだな)もなければ何もないがらんどうの板敷?の上に、実に驚く!鮨を詰めたと言おうか、目刺鰯(めざし)を並べたと言おうか、数かぎりも知れぬ人間の頭がずらりと並んで、誰もこれももう寝ているのであるが。その枕としているのは、何かと言うと、他人の足。―――自分の足もまた他の枕にされている。

 ところがご承知の、江戸の女――むしろ我が日本の女?――というものはみな船に弱い。隅田川の渡船でもちと風が強いと眩暈(めまい)がするという。しかるに生憎(あいにく)やこの日はやや暴風(しけ)模様で、波が高かった。

 既に築地から御台場向うの、二里近くもあろうという海上を艀船(はしけ)で揺られて、もう大概いきついているうえに。またこの、例の石炭臭い、ゴミ臭い、いやな臭いと、大勢の人いきれの腐った空気を吸わされるというのだから堪らない。あちでもこちでもゲーゲーと吐(や)る者がある。苦しんで呻(うな)る者がある。子供は泣く、病人はうめく。その中で、彼の黒ん坊の水夫はがなる。それに―――甚だきたないお話で恐れ入るが、便所―――もとよりこの大勢に、五ヶ所や十ヶ所の在来の便所で間に合う理由(わけ)のものではないから仕方もないのだが、かの梯子の掛るべき下方のところに、四斗樽を十四、五も並べて、それに人々が用を足すのだ。それでも男子はまだどうにかなろう。たださへもものつましい婦人方が、この大勢の見ている面前で、そんなことのなろうわけだか。…多くは皆然るべき御旗本御家人の奥様、御新造様、御嬢様、御隠居様とも言われた人達で。中には自家の勝手元にも出た事のない、かのやんごとなき側の人もいる。それが浅ましいこの大恥辱を人前にさらさせられるというのであるから、中には清水港へ着くまで用便をこらえて、そのために船中でも卒倒し、上陸後も病気になった人もある。実に、実に、牢屋どころで無い、目の前に見た活身(いき)ながらの地獄!
*間(けん):尺貫法による長さの単位。1間=1.818m

(同上書 p.40~44) 岩波文庫 p.31~34

 静岡藩が借りた船の中は、自分の足が他人の枕になるようなすし詰め状態で、奴隷を運ぶのと同様な方法で旧幕臣家族を詰め込んだのだが、塚原の書いているように静岡藩が二千五、六百人の運賃として三千両払ったというのが真実なら、一人当たりの運賃は一両以上という計算になる。では当時の船賃はどの程度の水準であったのだろうか。

 たとえば、山本光正氏の「江戸を中心とした船舶による旅客輸送について」という論文に、天保十二年(1841年)二月に関宿(千葉県野田市)から江戸川を下って江戸に向かう船の船賃が、「夕食代込みで二五〇文。夜船でしかも二月、旧暦の二月とはいえ戦中はかなり冷えるため布団を借りているが借料は一枚に付き四八文であった。船は暮れ六つに出船して五日の昼に両国橋に到着している」とある。

 距離にして七〇kmを超える程度の船旅だと思うが、その船賃が夕食込みで二五〇文であったことと比較して考えてみよう。ちなみに一両は天保期で六千五百文、幕末期は八千文を上回っていたという。(お金の豆知識)

 東京・静岡間の移動距離はその三倍程度であろう。その後の物価上昇を五倍とみても、特別に安い船を調達したとは思えないのだ。少なくとも静岡藩は、三千両の運賃を払った米国の船が、奴隷を運ぶのと同様な方法で旧幕臣家族を運ぶとは考えていなかったであろう。

 トイレ代わりに四斗樽がいくつか置かれていたのだが、船が揺れてそれが時々溢れ出し、その近くの人の寝ているところを流れていくのでたまらない。

 樽が満タンになると、水夫が樽を甲板に引き上げて海に中身を投げ捨てて空にするのだそうだが、ある時釣り縄が切れて、その中身を頭上から浴びた者がいたということも書かれている。

 こんなひどい扱いで二昼夜半も乗せられて、船は漸く清水港に着いたのだが、この船中で死人が四、五人、出産が五、六人出たのだそうだ。

 彼らは移住後大変苦労して生活を立て直すのだが、その点については次回の「歴史ノート」で記すことにしたい。

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