琿春(こんしゅん)事件
前回の歴史ノートで支那や満州における匪賊(土匪ともいう)について書いたが、多くの日本人が匪賊によって殺害されたことが最初に新聞に報じられたのは、大正九年(1920年)の琿春事件(間島(かんとう)事件ともいう)であろう。この事件の半年ほど前に、アムール川河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件(尼港事件)があり多くの日本人居留民が虐殺されたばかりだが、琿春事件でも多くの日本人及び朝鮮人の犠牲者が出ている。尼港事件についてはこのブログでも書いているので、興味のある方は以下の記事を参考にしていただきたい。
上の画像は大正9年10月12日付けの大阪毎日新聞だが、琿春事件における賊の来襲は二回にわたり、メンバーの中には馬賊(ばぞく:馬に乗って悪事を働く匪賊)のほか、支那脱走兵、ソ連の赤軍パルチザン(非正規軍)将校、朝鮮人がいたという。尼港事件の時も日本人は酷い殺され方をしたのだが、琿春事件は尼港事件よりも酷かったとも言われている。
この事件については某国では日本軍の自作自演という説が唱えられていてその説を支持する日本人学者も結構いるようだが、支那は日本の要求に対して倍額の損害賠償をしたことが大阪時事新報で報道されていることから、普通に考えて馬賊や支那脱走兵らの仕業であろう。
頭道溝(とうどうこう)事件
次の画像は大正11年6月29日付けの大阪毎日新聞だが、琿春に近い頭道溝の領事分館に約三百名からなる馬賊が来襲した記事である。記事にはこう書かれている。
頭道溝の所在、即ち朝鮮側からいって茂山間島と称する豆満江の北、支那側からいって吉林省の和竜県一体は、この地方から東へ琿春地方にかけて満洲でも著名な馬賊の巣窟で官憲も時々討伐は行っているが、殆ど根本的掃滅は期し得られないものとして諦めているほど。此の地方で山林事業を営む支那、日本の商人も事業の無事進行を冀うところから已むを得ず馬賊に対して一種の保険金を納めている始末である。彼等から被る損害は例の琿春領事館焼打を始めとして昨今にいたるまで大小の被害絶えたことがない。
大正11年6月29日付 「大阪毎日新聞」
この事件は頭道溝事件といい、朝鮮人独立運動家が馬賊の協力を得て間島頭道溝の日本領事館分館を破壊し放火して、仲間の独立運動家を脱走させた事件なので掠奪が目的ではなかったのだが、この事件で二人の日本人が死亡し、三人が重傷を負っている。日本人の居留民の被害が出たので新聞の記事となったが、満州では馬賊による掠奪事件などが頻繁に起こっていたのである。こんな盗賊団のような存在をなぜ捕まえないのかと、日本人なら誰しも疑問に思うのだが、その当時の支那には取り締まる力がなかったのである。
臨城事件
次に大きく報じられたのはおそらく大正12年5月の津浦線における土匪掠奪事件で、この時は約千人の土匪(匪賊)が線路を破壊して列車を転覆させ、乗っていた15名の外国人を身代金目的で捕え、イギリス人とアメリカ人がそれぞれ1名殺害されたのだが、幸い日本人被害者はゼロであった。この事件は臨城事件と呼ばれているものでWikipediaにも記述があるが、英米が激怒して国際的に大問題となり、強気の交渉によって外国人は翌月に全員無事に解放されている。
読者の関心が高かったのか、この事件を機に土匪の解説をしている新聞がいくつかある。例えば、大正12年5月19日の中外商業新報にはこう記されている。
支那の土匪は昔からの歴史的名物で、元明両朝滅亡の直接原因も実に此土匪の跳梁にあると言われる。殊に清末以降は、綱紀の廃頽秩序の紊乱に伴い殆ど全国に亘る被害を見るに至った。就中(なかんづく)山東、河南の両省は土匪の本場で、民国建設以来は各数十の団隊を生じ中には組織整然、五六千の人数に大砲、機関銃まで備へ付け城廓を構えて附近の住民に租税を課し、宛(さなが)ら封建時代の諸侯の様なものさえある。殊に山東省西南部津浦鉄道の沿線地方は山東、河南、江蘇、安徽四省の境界に当る所から各省官憲が互に鎮圧の責任を譲り合うの陋態を白眼に掛けつつ伝統的な一大巣窟が構えられて居る。
此土匪には元来生れ落ちての山塞育ちと良民から流れ込みの者とあるが、有力なのは解散兵や叛乱兵だ。…中略…土匪の常套手段は人質を取って身の代金を要求することと掠奪との二つで、官兵の討伐に遇うと忽ち其健脚で案内知った土地に避け込み、更に愈々危いとなれば早速良民に化(ばけ)て了う。
此神出鬼没に対して一方官兵側も亦真面目に討伐に従う者は殆ど無く、多くは土匪と妥協して其責任区域外に退却を求める、甚だしいのになると武器を土匪に売る者さえある有様で、徹底的に土匪を掃蕩するなどは支那の現状では迚(とて)も出来ない相談だ。…中略…
臨城県の土匪事件が未だ解決せられないうちに、漢口十四日発電は約一千の匪軍が河南から湖南に侵入し、漢口を距る十キロメートルの地点に押寄せ、湖南督軍に対して十五万弗(ドル)の軍資金と、多数の弾薬とを強請して居ると報じ、更に続いて北京十五日発電は、河南の老洋人匪が大部隊の行動を開始し、京漢鉄道襲撃の計画中であると報じて居る。
「神戸大学新聞記事文庫」外交76-54
官兵が匪賊と本格的に戦うこともせず、逆に匪賊に武器を売るようでは国の治安が良くなるはずがない。匪賊の出没する地域では、支那人はその後も長い間匪賊に襲撃され、被害は年々酷くなっていった。
共匪、兵匪が多くの支那人を虐殺したのはなぜか
盗みであろうが、身代金目的であろうが大量の支那人を殺戮する必要はないはずだ。では何のために支那人を大量殺戮したのかを考えていくと、恐怖を煽ることが目的であった可能性が浮かび上がる。そうなると前回の記事で書いた「漢民族を満州に移住させるため」に支那各地で暴虐な行為が行われたとする仮説が納得できるものになるのだ。章炳麟は満州に漢民族を千五百万人移住させようと計画したというが、漢民族は満州に移住地を定めてインフラを整えるようなことは何もしなかった。にもかかわらず実際には三千万人の漢民族が移住した。確たる証拠があるわけではないが、共産党の指令に基づいて動いていた共匪や兵匪がいたのではないだろうか。
記事では「共産土匪」と記されているが、共産党の支持のもとに動いていた匪賊で「共匪」とか「赤匪」などとも呼ばれた。このような行為が支那各地で行われていたようである。
上の画像は昭和7年4月28日の大阪朝日新聞の記事だが、同年3月1日に満州国が建国されて、そのインフラ整備や農地開拓などのために多くの日本人が移住し生活をしていた。しかしながら満州には「兵匪」が跋扈しており、居留民を守るためには軍の力を頼るしかなかった。
満州国の軍隊による匪賊討伐をあてにすることはできなかった。上の画像は昭和7年(1932年)5月3日の大阪朝日新聞だが、兵匪を討伐する約束で派遣された満州国軍が兵匪側に寝返ったことを報じている。
満州国の治安改善は日本軍が頼みの綱であったのだが、わが国が軍隊を派遣したことで「日本に侵略の意図あり」との支那の得意とするプロパガンダで欧米列強に訴えた。戦後のわが国の支那に関する歴史叙述は当時の支那のプロパガンダに近いものになってはいないか。
支那兵はいかに集められ、匪賊とはいかなる関係か
兵士になるまでに日本では勉強をして試験に合格し、厳しい訓練を受ける必要があったのだが、支那における兵士採用はわが国とは全く異なっているのだ。昭和8年3月19日から連載された満州日報の記事に支那兵がいかにして集められ、彼らが匪賊を討伐に命じられた時に実際かれらがいかなる行動をとるかが記されていて、これがなかなか面白い。
支那では、兵隊を必要とする場合「招兵」と書いた三角旗を持って繁華な人通りを歩き廻る。そうすると兵隊志願兵が後からぞろぞろとついて来る。この志願兵は喰うに困るルンペンが多い、喰えないから兵隊にでもなろうかという奴である。北平の盛場である露店市場などには、灰色の粗末な軍服を着たそれ等の兵隊が群集に混じって軍談を開いたり手品を見たりしている。苦力(クーリー)*を傭うのと変らないのである。だから支那の兵隊さんは無学文盲、中には昨日まで乞食をしていたという奴まである。支那の兵隊と巡査に自分の姓名を書ける奴が何人あるか。少しでも文字を読めると一躍出世出来るという嘘のような話が本当の事なのである。だから、こういう兵隊に対して武装苦力の名称あるのは却々うがった事なのである。
*苦力:出稼ぎの下層労働者去年十一月山海関の日本守備隊を訪ねた時の事であるが、守備隊長落合少佐は「この間支那苦力を募集して人夫に使ったら二人程張学良の兵隊だったという奴が入っていた」といっていた、落合少佐の話の趣旨は「若しうっかり支那人の人夫を使って学良の密偵にでも入られては…」という苦労だったが、こういう風に、支那の兵隊には武装苦力が多いのである。
もう一つの官兵製造は、匪賊の討伐である。匪賊の討伐が官兵製造の手続きになるとはおかしな話しのようであるが、支那には日本人の常識では判断に苦しむような事実がざらにあるから、これもその一種に過ぎないのである。
「満州日報」1933年3月19日
軍閥の首脳が増兵の必要があると、地方の省長に命じてそこの匪賊討伐をさせる、省長は匪賊猖獗の土地を選んで「討伐軍」を起し、支那式に声を大にして土匪の根拠地に肉薄する。
しかし、決して真向から戦争をしかけるような事はしない。先ず「爾が罪万死に当るが投降すればその罪赦さるべし」というような威嚇の使いを出すのである、そうすると匪賊の頭目も心得たものでこれは敵対してもかなわぬと悟れば、すぐに礼を厚うし、辞を低うして「吾幸いに健在なり、省長亦健康ならん事を望む」旨を述べ、折悪く脚部を痛めて外出出来ぬが一度お目にかかって閣下とお話を致したいと申出でて来る。
こうして置くと約一ヶ月も経つと匪賊頭目の手には少くとも二、三十万元の金が入り、匪賊頭目はその日から将官に、部下の頭目たちはそれぞれ将校に任ぜられ、手下の匪賊どもはすべて官軍に編入されるのである。そこで公々然と「匪賊平定」を声明する。又落合少佐を引き合いに出すが、北支の独立運動なども、その支那兵気質を利用して、肉弾と弾丸に費す費用だけ、その軍閥懐柔の費用に使えては、血ぬらずして完成するであろうという意見を持っていた。これは七分の真理であろうと思う。
支那の匪賊のことを知らずして支那の歴史は語れないと思うのだが、とくに満州に関しては、匪賊による被害が何度も出ていたことを知らずして、日本軍が満州に配備されていた理由を正しく理解できるとは思えない。
満州に関する研究書の多くが戦後GHQによって焚書処分されてしまったために、満州の事を正しく、詳しく知ることが非常に難しかったのだが、今では国立国会図書館デジタルコレクションや神戸大学新聞記事文庫の検索機能を用いることによって、自宅のパソコンなどで無料で読むことが可能になっている。
戦後の歴史叙述には戦勝国にとって都合の悪い史実はほとんど書かれていないのだが、疑問を覚えるところがあれば、自分で戦前の本や新聞記事を調べることによって興味深い史実をいくつも発見できるのでお勧めしたい。
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